明衣 part6
真夜中、窓の外には嘘みたいに丸い満月が浮かんでいる。
何十度目の無菌室のベッドの上で、私は昼間のお母さんの事を思い出していた。
「明衣、本当にいいのね?」
マスクを着けたままなのでお母さんの声はくぐもって聞こえる。
「うん。お姉ちゃんには絶対に何も言わないで」
私がそう言うとお母さんは「真衣、きっと怒るよ?」と眉をひそめた。
「……どうしよう。めちゃくちゃ怖い」
私が少し大げさに怖がってみせると、お母さんはようやく笑ってくれた。
「ねぇ、一番いいのは後から明衣が真衣に笑いながら話すことなんだからね……間違っても私から言わせないでね」
そう言ってお母さんは涙跡が残る目尻を拭った。
お母さんは私に似て泣き虫だ。目鼻立ち整った顔に薄めのメイク、一見お姉ちゃんのようなしっかり者タイプに見えるかもしれないけど、私は小さい頃から一緒に病院に行く度診察室で泣き崩れるお母さんを何度も見てきた。家族の誰よりも先に私の悲しみを半分こにしてくれるお母さん。「元気に生んであげられなくて、ごめんね、ごめんね」と私を抱きしめながら何度も何度も言うお母さん。そんなお母さんにこれ以上悲しい想いをさせたくなくて私はこれまで幾千もの夜を超えてこられてきたのかもしれない。
ただそんなお母さんも家では結構強気らしい。「お姉ちゃんに気取られないようにお姉ちゃんみたいな性格を演じてるの」とお母さんは教えてくれたことがある。でもお姉ちゃんの為に本当の自分を押し殺して演じ続けるお母さんは本当は強い人なんじゃないだろうか? 分からない。寧ろお姉ちゃんの為ならどんな無理でも出来るお母さんはやっぱり私似、いやそうだ。私がそもそもお母さん似なんだ————
そんなことを思い出していると、無菌室のドアが静かに開いた。
誰?
体を起こした次の瞬間目の前に小さな人影が現れた。
「めいねーちゃん!! びっくりした?」
「えみちゃん!?」
現れたのは、別々の病室に分けられたはずのえみちゃんだった。
「どうしてここに?」
「めいねーちゃんに会いたくてこっそり来たの。見つかったら怒られちゃうかなぁ」
えみちゃんはいたずらっぽく笑った。罪のない、えみちゃんの素朴な笑顔が何とも愛おしかった。
「めいねーちゃん、大丈夫?」
えみちゃんは下から私の顔を覗き込み首を傾げ聞いてきた。
本当はギリギリだった。えみちゃんが運んできた消毒液や汗の微かな匂いが強烈に鼻を衝き吐き気を催す。
それでも私は耐える。
「大丈夫に決まってるでしょ! 会いに来てくれて本当にありがとう!」
私が精一杯の笑顔で応えると、えみちゃんはさらにそれを上回る笑顔を返してくれた。
「よかったー。私ね、めいねーちゃんがいなくなってからね、あのね……」
えみちゃんはそう言いながら私の胸元に飛び込んできた。そして寂しそうにこう続けた。
「ねぇ、いつ戻ってくるん?」
えみちゃんは再び首を傾げる。ほんの少し瞳が潤んでいるようなそんな気もする。
懐かしい言葉だ。私もこの病院に入院したての頃、転室になる友達に「いつ帰ってくるの?」なんて聞いてその子やその子の主治医の先生を困らせていた。結局何週間後に帰ってきた子もいれば、そのまま病院ではなく家に帰っていった子もいるし、どこにも帰れなかった子もいる。
誰かを見送る度に、研ぎ澄まされていく感覚があった。勘というか嗅覚というか、何となくもうこの子は帰ってこないんじゃないかなという残酷な感覚だ。
ただ不思議なもので、そういう子達は病室を出るとき大抵笑顔だった。
てっきり私はギリギリまで希望を捨てていないからこその笑顔なんだと思っていた。
だけど今逆の立場になって気付いた。自分の事を思い出した時の表情が笑顔であって欲しいっていう意味もあったのかもしれない。無意識に人はそんなことを考えているのかもしれない。
「めいねーちゃん?」
えみちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
「あっ、ごめんごめん!」
私はそう言いペシペシと自分の頭を叩きおどけて見せた。
まぁそんなことどうでもいい。それを今えみちゃんに教えたところでどうなる。
今宵の満月のような笑顔を浮かべるえみちゃんに教えるべきなのはそんな事じゃない。
「えみちゃん、私ね……直ぐにえみちゃんの所に帰ることが決まってるんでーす」
私はそう言いおどけ続ける。「えぇ! 本当? やったー」そう言い小躍りするえみちゃんにハイタッチで応える。
吐いていい嘘と信じていい嘘がある。
私が今のえみちゃんと同じくらいの歳の時、お姉ちゃんから教えてもらった事だ。
その嘘は希望に満ちていて誰かの笑顔に繋がっていればいるほど良い。
伝わればいいな。
私はえみちゃんをそっと抱きしめた。