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プロローグ:高空、焼け落ちる世界

 ――痛い。

 走り続ける足が痛い。刺された肩が痛い。撃たれた脇腹が痛い。頭が、腕が、背が痛い。痛い。


 既に身体の中も外も痛みを感じない部位などもはや存在しない。どこもかしこも休息を訴えるかのように悲鳴を上げている。


 心は一度既に折れている。ましてや体など、どこかの骨は文字通りにポッキリ逝ってしまっている感覚がある。心身共に満身創痍だった。


 それでも、走り続けた。走らなければならなかった。


 自身の荒い呼吸と、鉄骨の階段を駆ける固く冷たい靴音が耳に響く。あれだけ騒がしかった銃声や怒声や罵声や砲声はなりを潜め、少なくともこの周りは静寂が支配していた。視界の外、東京の街は日の暮れた今も明るく、点々と立ち上る火の手で赤く照らされる。


 今までの平穏などもはや見る影もない。この街は今まさに、たなびく黒煙と共に死にゆこうとしていた。




「君は、性悪説という言葉を知っているだろうか」



 階段を登り切った先――上空634メートル、世界最高高度の電波塔、その展望台。そこで待っていたのは、背の高い一人の男だった。肩を震わせ、大きく息を弾ませるこちらを一瞥するでもなく、短く言葉を投げかける。



「性善説であれば高校で習っただろう。中国の思想家、孟子の説いたと言われる説だ。一般的には人は皆生まれながらに善であり、悪事を成すには何かしらの理由が付きまとう、という説で通っているが……実際のところは諸説ある。中でも、もとより人は善と悪、2面の心を持つという考え方を指す事を性善説と呼ぶ者もいる――私もその一人だ。無論、この考えが真であるという確証はないがね」



 男は振り向きもせず、ただ燃え盛り崩壊する町並みを眺めながら話していた。この場にそぐわない、どこかリラックスしたような出で立ち。何も気負うことの無いような姿。目の前に広がる惨状を目にしても、動揺の欠片すら見せない立ち振る舞いに、この男こそが今起きている悲劇を引き起こした元凶だと確信する。


 そんなこちらの心象を知ってか知らずか、男は話し続ける。



「孟子の説に対して、人は生まれながらに『悪』であると説いたのが荀子の性悪説だ。この場合の悪は犯罪や悪事といった目に見えるようなものよりも、欲に負ける心、私利私欲で動く心といった人の弱い心を指している。すなわち性悪説とは人の為す事はどのような善事であってもそれは自らの欲によって動くものであり、偽善である。『人』の『為』す『善』と書いて『偽善』とは、よく言ったものだよ」



 そしてその醜い心こそが人の本性だと、男は締めくくる。


 偽善。人の為す善。人の為の善。

 全ては偽物であり、まやかしである。成程、確かにそれには同感だと、強く思った。ぐうの音も出ないほどに正論だと思った。思ってしまった。

 今までに起きた出来事が、強くそう思わせた。


 福祉を謳い、得た金銭を懐にしまいこむ政治家がいた。


 善い人を装い、無辜の老人から財産を毟り取る詐欺師がいた。


 弱った心に漬け込み、甘い顔をして女に近づき、他の男から寝取る男がいた。


 この世に溢れかえる善というものは、その殆どが嘘偽りのものであると、彼の言葉を後押しさせてしまっている。


――けれど。


「人の全てが悪だとは僕は思わない。お前の言うそれは、都合の悪い部分だけを、表面だけを見て批判する、典型的ななんちゃって批評家だ」



 口をついてそんな言葉が出てくる。それは己自身の紛れもない本心であり、そうであって欲しいという願いの顕れでもあった。



「確かにお前の言うことは正しい。正しいが、全てがそうとは限らない。人間が人間を見限るな。悪も善も、全てが同じ人間だ」


「……そうか、それが君の辿り着いた先か」



 男がゆっくりとこちらを振り返る。端正な顔立ちをしたその双眸は、ただ否定するわけでも肯定するわけでもなく、ただ静かにこちらを見据えていた。



「ならばその答えの先を自分の目で確かめるといい。この物語は人の善、そして悪を見定めんとする――君の物語だ。滝原優人」

初投稿です。

ちまちま書き溜めてから順次放出していく形をとって行くので、更新はやや不定期になりがちですが(できるだけ)エタらないように頑張っていきたいと思いますので、どうか暖かい目で見守ってください( ˇωˇ )

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