僕のマリナ
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多分、それが正解だったのだろう。思った通りの結末だ、とぼんやりと目の前の光景を見ていた。
十月十日、今日、この街で殺人事件が起こった。今、警察や救急車が現場を横行している。友達と二人で見に行くと、血に塗れたアスファルトの地面と、取り押さえられた犯人がパトカーに連れて行かれる所だった。犯人は、僕の恋人だった。
ぼんやりした。こうなることは薄々感じていた筈だ。僕は彼女を救う事が出来なかったのだと、目の前が遠くなるような気持ちになった。
でも、これで良かったのかもしれない。彼女はそうして気が晴れて、僕も、これを切っ掛けに彼女から解放されるだろう。これが、正解だったのかもしれない。
被害者は、彼女の双子の姉、中森明日香だった。
友達が僕の体をつついて「おい、」と呟いた。
「あれ、中森の妹じゃないか。」
「ああ、」
「嘘みたいな感じ…。」
「春日、俺、帰るわ……。」
僕は事件現場に背を向けてそこから離れようとした。一刻も早く離れたかった。
「斎藤!」
背中から呼びかける友達の声がした。僕は走り出して逃げるようにこの場から消えた。家にも帰りたくなかったから、そのまま繁華街に向かっていった。
傍にカラオケ店があった。誰にも見つかりたくなかったので急いでそこに入った。店員に時間を聞かれて時計を見た。
午後2時を過ぎた頃だった。今からどの位の時間が経ったら、父親が家からいなくなるのか考えて、念のためフリータイムにした。父親は週末にだけ家に帰ってくる。夕方頃には本妻の所に戻る訳だけど。とにかく今は一人になりたかった。
207号室の札を渡され、そのまま指定された個室の中へ入ると自分の息の荒さに気がついた。
何度も深い呼吸を繰り返す。ゆっくり、部屋に設置されたソファに腰掛けた。呼吸が静かになる事はない。
目の前がくしゃくしゃになった。涙が溢れてきたのだ。俯くと、あの光景が思い出された。頭をかきむしって、ボロボロと崩れるように泣くしかなかった。
中森マリナは僕の恋人だった。付き合い始めたのは一年位前の事で、彼女の事は割となんでも知っている気でいた。彼女は異常だった。頭のネジが一本外れているというか、衝動的になると、何をしでかすか分からない性格だったのだ。
精神病院に入院していた時期もあった。パーソナリティ障害とも診断されていた。でも、彼女は優しかった。どこまでも優しくて、それ故に、傷つきやすくて、感情の制御がきかない障害があっただけなのだ。
僕はそんな彼女が好きだったのに。
携帯が鳴った。さっきの友達、春日からの着信だった。
息を整えて、通話ボタンを押した。
「もしもし。」
『お前、急にどこ行ってんだよ。心配するじゃんか。』
「ごめん、動揺した、かなり。」
『それより、やばいんだよ…あいつ。』
「え?」
『中森マリナだよ。警察の腕噛みついて逃走したんだよ。その足の早さったらな……。』
「……。」
『メディアとかがすっげー騒いでるよ。明日学校やべえよ絶対。』
「分かった…。ありがとう。」
『今どこいんの?ていうか動揺しすぎだろ。ただのクラスメイトじゃん。彼女だったらまぁ分かるけど。』
「……。」
その時、メールを受信する音が鳴った。こちらの携帯に。
宛名は、中森マリナだった。
「ごめん、父さんから連絡入った。急用だっていってたから、また掛け直すよ。」
『お?おお、分かった。じゃあな。』
携帯の画面には、中森マリナの
「今どこ?」
と、書かれただけのメッセージがあった。
僕は文字を打つ。彼女を、守る為に。
昔、彼女から送られてきたメールの中に、空と彼女が写った写真があった。雨上がりの晴れた空模様と、高校の屋上で両手を空に上げる彼女の姿があった。笑顔が日の光に照らされて、眩しくて、写真は多分、中森明日香が撮ったものだろう。
メッセージには、「空と私」とだけ書かれていた。
それを今、また開いて、ぼんやりと眺めていた。居場所をマリナに伝えてから15分程経ったが、彼女はまだ来ない。
もしかしたらもう警察に掴まってしまったのかもしれない。
それならそれで仕方無いのかもしれない。そんな考えは、薄情で間違っているのかもしれない。だけど、僕はそういう人間だから、仕方無いのかもしれない。
取り留めもなくそう思っていると、扉をノックする人影が見えた。
急いで立ち上がって、駆けつける。マリナだ。
彼女は泣いているように、笑っていた。
それが、美しいと思った。扉を開ける。すぐに部屋に引き連れてお互い抱きしめ合った。
マリナは家族から愛されていなかった。それは彼女の学校での問題行動が原因だと、彼女は推測していた。双子の明日香は、それと比例しておとなしく、皆から好かれ、大事にされる人間で、マリナはそれを強く不満に思っていた。
けれど、マリナの味方は今日自らの手で殺めた姉しかいなかっただろう。明日香は誰よりもマリナの気持ちを配慮していた、それを気付いていた筈だ。
それでも彼女の衝動は止まる事を知らなかったのだろう。僕はこの腕の中にいる愚かな一人の人間が愛おしく思えて仕方無かった。
彼女にはもう誰もいないのだ。
そして、彼女の未来にはもう何も用意されていないのだろう。
そう思いたかった。
「あいちゃん。」
僕は下の名前をアイラと言う。マリナは僕の事を何故かあいちゃんと言う。アイラという名前は嫌いだったけれど、マリナが呼ぶ「あいちゃん」は少し気に入っていた。
「あいちゃん。」
苦しそうな声色で、マリナは何度も繰り返した。
「大丈夫だよ。」
密室の中で、防犯カメラが僕らを見ている事は知っている。でも、これから僕らがやろうとしている事まで、このカメラは透視出来ないのだ。
「僕が守ってあげるからね。」
息が詰まりそうになる位、二人で抱きしめ合った後、マリナは僕を見上げて、今更、「あたし、とんでもない事しちゃったの。」
と瞳に涙を溜めて声を絞り出した。
「全部分かってる。分かってるよ、大丈夫だよ。」
「どうしてこんな事したのか分からないの、あたしこんな事したくなんてなかったの。あたし、」
「そう、大丈夫。君は、悪くない。全部、病気のせいだよ。」
この目の前の愚かな恋人はそうして足元が崩れていき、床に座り込んで顔を両手で覆った。
履いていた黒いミニスカートから彼女の好きな白いパンツが垣間見えていた。
「立ち上がって。」
僕は立てるように手を差し伸べたが、応答はない。彼女は泣きじゃくったまま動こうとしない。
このままじゃ警察が来て僕らは離ればなれだ。今、それだけは避けたいと思った。彼女の事が可愛くて、
「どうしたい?」
それだけを言うと、数秒して彼女は顔を上げた。その顔に秘めたものは、僕の期待した通りのもので、酷くそれに満足した。
「あいちゃんが考えている通りだよ。」
そして、僕の差し伸べた手を取った。決まりだ。僕らの未来は、急速に終末へと向かう。
「急ごう。」
音が弾けたように僕らは走り出した。手と手を取って。カラオケボックスから出る。会計を済ませて、自動ドアが開く。
お互い手を繋いで走り出す。この瞬間、生まれて初めて本当の自由を得たような気がした。
限りがあるから、自由には価値があるんじゃないかな、と思ったり。
「あいちゃん、あいちゃん。」
空を切った様に、風が宙を舞う様に、清々しい気持ちに二人はなっていると思った。僕はそう思いたかった。
走りながら、マリナは言った。
「あたし、お姉ちゃんを刺した時、よく憶えてないんだけどね、よく、憶えてないんだけどね。」
「うん。」
「お姉ちゃんを裏切ったんだって、悲しかったの。」
「うん。」
「でも、同じように、同じような自分の気持ちが、お姉ちゃんが死ぬ事に安心していたの。」
「うん。」
「あたし、おかしいのかな。」
「そうさ、」
僕は息をめい一杯吸い込んだ。
「君はおかしいんだ。」
どうしてか可笑しくなった。街中を走る。通行人が僕らをながら見てくる。此処から僕らが向かう学校までさほど離れていなかった。
もう一度息を吸い込んだ。吐きだすと同時に僕の顔は笑っていたと思う。
「僕も狂っているんだ。」
カンパニュラの花が咲く、10月の秋口の事だった。今日という日を、僕は一生忘れないと誓おう。きっと、君もだろう。マリナ。
周囲には冷たい風が吹いていて、よく澄んだ青い空だった。
駆けていく二人の背中を、追いかける人はまだいない。
このままどこまでも駆けて行き、いつか世界から抜け出せて二人きりの部屋の中に閉じ込められてしまえばどんなに良いだろうか……。
そんな事を考えていたから、彼女の言った小さな言葉を気付けずに物事は前へと進んでしまったのだ。
廊下を昇って、何度も階段を上がっていき、二人辿りついたのは学校の屋上だった。
風が吹く。静と冷たいものだった。
僕とマリナは自然に繋いでいた手を離した。彼女が笑う。空気が体に浸透したせいか、それをもちょっと冷たいものに感じた。気のせいかもしれない。
「あいちゃんは、やっぱり。」
そして、彼女特有の読めない動作で、背後に回われると、思いっきり背中を押されて前のめりに倒れた。
何が起きたのか分からず、僕は地面にしゃがみ込む。振り返る。
マリナが仁王立ちして立っていた。
その顔は笑っていた。でも、少し悲しそうに。
「あいちゃんは、馬鹿だね。」
酷く冷酷な声だったのは、おそらく彼女は何か感情を奥の方に隠しているからだと思えた。
「マリナ。……だってそうだろ!」
自分でも醜いと思う声の荒げ方だった。
「君は馬鹿だ!どうしようもなく!手の施しようもく!君の未来だってもうない!」
「分かってるよ!」
彼女も大声を出した。でも僕とは違って可愛らしい声だった。
彼女は背中から勢いをつけて僕を蹴った。動力の関係で地面に這う。
「でも、あいちゃんは分かってないんだよ!」
「分かってるさ!君の事なんてなんでも!君には未来がないことも!君がどうしようもなく愚かだって事も!全部!」
マリナは再び背中を強く蹴った。
「道連れになっていいのは、あいちゃんじゃないんだよ!」
廊下に繋がる扉が開かれた。警察だった。学校の警備員が通報したのだろう。
もう時間が無かった。
マリナは突然、全速力で屋上の柵を乗り越えた。
僕を置いて。
「戻りなさい!」
足の遅い警察が一人叫んだ。僕も叫んだ。
「マリナ!」
柵に掴まりマリナは僕らの方へ向いた。風が強くなる。
「あいちゃん!」
高い声が響く。彼女の声は、高いのだ。
寂しそうな顔が、そのまま笑い顔に、なった。
「さよなら……。」
警察が走り出して救おうとする。無理だよ。お前らなんかに彼女を助けられやしない。
瞬間、彼女の姿が無くなる。
落下したのだ。
「マリナあああああああ!!!!」
頭が、真っ白になった。
でも、とっさに両手で耳を塞いだ。
僕は今、マリナを裏切ったのだ。
音は何も、聞こえない。
聞こえない。
「僕のマリナ.」
End.
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