楽しい時間の始め方
就職活動が本格化する2ヶ月ほど前、机と椅子とパーテーションで埋め尽くされたM大学第2体育館の入り口で、西東あずみは黒い油性ペンの蓋を開けた。
理学部 生物学科
西東あずみ
体育館外の受付で渡された名刺大のカードに、やや小さめな文字でそう書くと、同じく渡されていたプラスチックケースにねじ込んで胸につけた。
今日はこの体育館で逆OB訪問というイベントが行われる。OBが大学まで来てくれて、学生はキャンパス内でOB訪問ができてしまうというものだ。黒いリクルートスーツにポニーテール、初めて買ったアイシャドウをお手本の通りにつけた。多分、大丈夫なはず。
同じく受付でもらった番号札を頼りに指定されたブースを探す。そこにOBがいるらしい。
ブースは結構奥の方だった。通り過ぎる他のブースは、奥の方にOB・OG(大人・社会人!といった感じの、色や柄のスーツの人もいれば、私服の人もいた)、手前側に学生(こっちもなんだかキラキラした人たちばかり)という並びの様子。すらすらぺらぺらとOB・ OGと話をする学生を横目に、あずみはものすごく緊張していた。
「こ、こんにちは」
指定されたブースをのぞくと、ジーンズにTシャツ、茶髪、赤いセルロイドメガネの男性がいた。ちょっと太め。学生が来なくて暇だったのか、スマホを弄っていた様子。
「おう、こんにちは! どうぞどうぞ、座って」
「失礼します!」
背もたれのない丸椅子に座ると、OBは機嫌良さそうに手を差し出した。握手をするなんて、いつぶりだろう。そんなことを思いながらあずみは机越しに恐る恐る手を差し出した。
「甲本秀介です。よろしく!」
「よ、よろしくお願いします! 理学部の西東あずみです」
「理学部! お、生物学科かー。俺はこんなかんじ」
甲本は机に置いてあったプラスチック製横置きの名札を見せた。
甲本秀介 (社会人7年目)
J サイエンス・アンド・リサーチ 研究職
M大学 農学部 バイオテクノロジー科卒
N大学院 自然科学応用科卒
「研究職……すごいですね」
「そう? ありがとう」
にーっと笑って、甲本はまっさらな紙にペンを走らせた。
「西東さんって、よくきく名前だけど、その漢字は珍しいねー」
「まあ、そうですね。よく、間違われるんです」
「だよねー。西東さんは今日はなんで逆OB訪問に来たの?」
なんで? と聞かれるとは思わなかった。
だって、就活するためにOB訪問するのは、一般的なはず。
「えっと、就活のために……」
「んー、就職したい?」
「したいです」
「んー、ま、そうだよね」
何を聞いてるんだろう。甲本さん。
「じゃー、西東さんは働くのって、楽しそうだなって思う?」
え……?
「大変そうだな、って思いますけど……」
「んー、社会人ってどう? 辛そう? 楽しそう?」
「大変そうだな、って……」
そうかー、と甲本さんは腕を組んだ。
「西東さん、人間は何か目的のために行動をする」
何を言い出すんだろう。はい? と、いう返事がついこぼれた。
「そして西東さんは人間だ。西東さんは何か目的のために行動をする。つまり、西東さんが今日、ここへくるということは、何か目的があってそれを果たしたいからだと考えられる」
3段論法で述べたあと、甲本はまたにーっと笑った。
「西東さんが今日ここへ来た目的はなんでしょーか。ぶっちゃけていいよー」
西東あずみはリクルートスーツを着た就活生らしい格好をして、逆OB訪問という大学主催のイベントに来ている。なのに、なんでここへ来た目的とか、考えたり話したりしないといけないんだろう?
「ええと……ここへ来たのは、就職課の人と話をしていて、やりたいこととかまだはっきりしなくて、っていう話しをしてたら、こ、『こういうイベントがあるから、社会人になるイメージを持つために参加したら』って言われて、……自分が社会人になるイメージってまだ湧かないんで、なんだろう、社会人の人と話したらなにかイメージが湧くかな、って思って」
つっかえたり、どもったりしても、ゆっくり、できるだけ丁寧な言葉で言おうとするあずみの話を、甲本はペンを握ったまま頷いて聞いていた。
「な、る、ほ、ど。よし、わかった」
甲本は大きく頷いた。
「西東さんは、自分が社会人になったらどうなるか、想像がつくようになりたい。どうなりたいか、いいヒントやモデルケースを見てみたい、知りたい、ってとこかな?」
「そ、そうです」
「じゃあ、こういうOB訪問てのは、ちょっと向かないかもしれない」
あずみは不安に思った。だって、就職課の人が、勧めてくれたのに?
「自分が社会人として働く姿をイメージするのに、どんな職場でどんな仕事をしているか、どんな企業かって情報は大事になるかもしれない」
やっぱり。あずみはそう思って眉根を寄せた。
何をしたいか、どういう業界・どんな企業に行きたいか。
会う大人、会う大人に尋ねられたけど、まだよくわからない、決めていない、これから決める、とのらりくらり躱そうとしていた部分だ。
「けどね、」
沈みかけたあずみの思考を、甲本の声が引き上げた。
「社会人だって生きてる。生き物だし、人間だ。仕事を終えたら、家に帰って飯食って寝る。社会人が、どんな生活をしているのか、っていうもっと大きな視点で見る方が俺としてはおすすめだね」
どんな生活をしているか。
「ほら、大学選ぶ時とか、偏差値やら学費やら学部やら、そういうのって進路のセンセーにイロイロ言われたじゃん。冬の時点で、この点数で行けるとこはどこか、とか自分でも考えたり。けどさ、入学して勉強と同時に、生活、暮らしってものも発生してるよね」
だから、『社会人としての生活』をイメージする方がおすすめだ。
甲本はにーっと笑った。
あずみはただ頷いて、うつむくしかなかった。
「あの……」
「うん?」
「大学選ぶ時も、偏差値と判定で選んでて、その、生活とかイメージしたことなくて」
大学でどんな生活をするかなんて、考えてなかった。
入学してからサークルの勧誘に驚いて、怖いと思っているうちに入るタイミングを逃してしまった。
友達と遊ぶのも、バイトをするのも、積極的になれなくて、コンパとかも怖くてなかなか参加できないから、声もかからなくなって。
ひたすら、地味に、下手に着飾ったりして笑われないように、目立たないように。
「どう、考えたらイメージできるか、わからなくって……」
甲本はうんうん、と頷いた。
「わかるよ。俺も、最初そうだった」
え、甲本さんが……?
「とりあえず入ったはいいけど、どういう生活をしたいかなんて考えてなかったし、勉強ばっかしてたから周りの話題についていけなくてさー。チャラいやつの真似してみたり、馬鹿にされてムキになって勉強したりしたけど、こう、学生同士のせまーいコミュニティだけだとね、考えが偏るんだよね」
あずみにとって、甲本は何もかもうまくいっているキラキラした社会人にしか見えない。ここへ来るまで通った他のブースの社会人もそうだ。キラキラしてた。
そんな風に、悩んでいたようには見えない。
「そうなんですか?」
「そうそう! それでさ、高校の仲間に会ってもなんか話題が合わないし、俺に友達や仲間なんてできんのかな、なんて落ち込んだりした時もあったんだけどさー。大学2年の夏に、俺の母方の叔父がバーベキューの手伝いしろって言ってきてさ。バイト代くれるし肉食えるぞーっていうから、まー炭火管理くらいならやるかなーって手伝いに行ったんだよ。そしたらさ、いろんな職業の色んな人たちが集まってんだ」
異業種交流会を、叔父が主催していたらしい。
「へえ……」
「バドミントンを真面目に楽しくやるっていう社会人サークルでさ、飲みサーじゃないんだけど、夏だったし。そこで色々な大人の話を聞けてね、俺はこういう風になりたいとか、こういう道もあるんだ、とか、視野が広がったんだ」
研究職ってガラじゃないと思ってたけど、いいかもしれない、と考えが変わったのはその時。
社会人というものを色々な人から聞いたことで、どうしたら社会人になれるか、やっていけるか、自分はどうやっていくか、想像しやすかったという。
「明日、ちょうどバーベキューやるんだよね。みんな俺の友達とか知り合いとかで、うまい肉を食うことが主目的。学生もいるし、社会人もいるし」
よかったら来る?
ドレスコードはジーパンとTシャツだけど。
あずみは頷いた。
楽しそうだと、思ったから。
社会人の生活ってどんな生活か、色々な人の話を聞きたいと思ったから。
美味しいお肉につられたわけじゃない。
…ちょっと、惹かれただけだ。
この小説はフィクションです。
登場する人名、団体名などは架空のもです。
適当につけております。