暗夜
獣は二人を乗せていても楽々と足場の悪い山道を駆け上がり、やがて斜面の中に二人と一匹が休めそうな平地を見つけると山吹とナギは獣から降りた。
ナギは手慣れた様子で集めた粗朶に火を起こすと、二人分の水筒を持って近くの沢まで水を汲みに降りていってしまった。
獣と一人残された山吹は木に背を預けて辺りを見回してみる。空はいつの間にか紺青に染まり、ただでさえ暗い森の中が一層暗くなる。
(このような山の中で無事夜を明かせるのか)
怖い。得体の知れない何かが潜んでいそうだ。山吹はぶるりと身震いした。
恐怖から少しでも気を逸らそうと、山吹は体を丸めて休んでいる獣を恐る恐る観察してみる。
形こそ馬のようであるが、四肢は虎のような爪のある足で、頭頂には一本の角があり、薄く開いた口からは尖った牙が覗いている。獣の背に乗っているときは余裕がなくて気がつかなかったが、炎に照らし出されたつやつやとした白い毛並みが何とも触り心地が良さそうだ。
山吹は音を立てないようにこっそりと獣に近づいてみる。
「あまり不用意に近づくな。それは人を食う」
突然上から降ってきた声に驚いて、山吹はびくりと体を震わせた。獣が鼻をひくつかせて猛獣のような金色の瞳で声の主を探す。
木の上から影がするりと降ってきた。ナギだ。腰に山鳥と魚を吊し、片腕に果実を抱えている。
「遅くなった。久方ぶりだから、手間取った」
そう言ってナギは獣に山鳥を投げ渡した。獣は目の前に落ちた山鳥の匂いを嗅ぐと、不満そうにナギを見返した。
「仕方がないだろう。不服ならば猪でも取ってくるがいい」
ナギが肩をすくめる。獣はナギの言葉を理解したのか、渋々といった感じで山鳥に食らいついた。ばりばりと骨を砕く音を立てて咀嚼し、ごくりと飲み込む。
山鳥一羽では足りないとでも言うように、獣はすぐに大仰にため息をついてナギを見た。
やれやれと、ナギは魚を一匹放ってやる。獣は鼻先の魚の臭いを確かめるようにふんふんと嗅ぐと、ぺろりと一口で平らげた。
「あんたはこっちだ」
山吹が獣の食事に見とれている間にナギは魚を木の枝に刺し終えて、山吹に差し出した。
魚はまだ生きているらしく、山吹の手の中でびくりと動いた。山吹は小さな悲鳴をあげて危うく魚を取り落としそうになった。
「食べるのですか」
泣き出しそうな声で訊ねると、ナギははっきりと首を縦に振った。
「でも、生きています」
野蛮だと言いたげに山吹はナギを見た。ナギは無表情で肯く。
「魚は生きているものだ」
宮殿で出る料理に、生きたままの魚など出たためしがない。
池で餌をやる魚と、皿の上に乗っている調理済みの魚が、山吹の中では繋がらないのだ。
「こうするんだ」
山吹が頭を悩ませている間に二匹目を木の枝に刺し終えたナギが、魚を火の近くにくべた。
山吹はしばらくの間手の中の魚を見つめて迷っていたが、やおら見よう見まねで魚が刺さった木の枝を地面にえいやと突き刺した。
魚がじゅうじゅうと音を立てて焼けていく様を、山吹はじっと見つめる。今まで自分の食べてきた魚は、宮殿の中の誰かが自分のために命を奪っていたのだろうか。
「焼けるまで時間がかかる。果物でも食べているといい」
山吹が押し黙って魚と炎を凝視していると、ナギが採ってきた果物を品定めしてよく熟れている物を選んで寄越してきた。宮城では眼にしたことのない果実だった。
山吹は着物の裾で果物を拭いてから囓ってみた。甘い、素朴な味が口の中に広がる。同時に強張っていた心がほぐされていくような心地がする。
「あの獣は、何という名なのですか」
ほっと一息ついて、山吹がナギに尋ねた。
宮城には貢ぎ物として多種多様な動物が持ち込まれるが、目の前に丸まっている白い獣を見るのは初めてである。
「駮という。形こそ馬に似ているが、虎をも喰らう猛獣だ。あれがいれば、獣はまず襲ってはこない」
山吹は口の中で虎、と繰り返した。虎だって恐ろしい猛獣の筈だ。
「だから、馬が怯えて郎官たちは追ってこられなかったのですね」
ナギは肯いた。
馬は臆病な動物だ。大きな物音にさえ怯えるのに、間近で猛獣の咆哮などを聞けば恐慌に陥るだろう。
ナギは火にくべた魚の焼き具合を確かめて山吹に差し出した。山吹は少し躊躇った後、魚を受け取った。
山吹は手にした魚をじっと見つめる。魚に対して申し訳ないという気持ちと裏腹に、焼けた魚のいい匂いに食欲がそそられて腹が鳴った。
初めて自分の手で命を奪った魚だ。手の中で魚が動いたぬるりとした感触は、一生忘れられないだろう。
山吹は魚に向かって黙祷を捧げると、香ばしい匂いのする魚を一口囓った。市で買い求めた塩しか振っていないにも関わらず、何故か宮殿で食べたどんな料理よりも美味しいと思った。
「空腹だと、何でも美味しく感じられる」
ナギも魚に齧り付く。
宮殿の中では飢えるということがなかった。小腹が空いたと言えば、常に近侍している侍中や采女が、口に入れるばかりに準備された茶や食べ物を捧げ持ってくる。それが普通だと思っていたし、出てくる食べ物が一体どこから来るのか考えたこともなかった。もちろん知識は持っている。しかしそれが一体何を指すのか、実感として伴わなかった。
「宮城の外は、私の知らないことばかりなのですね」
ぽつりと山吹は呟いた。今日一日ナギに連れられて、宮城の外のことは何も知らないのだと思い知った。まるで無力な赤子に戻ってしまったかのようにさえ感じる。
皇家に生まれて何不自由なく育ち、国内最高と誉れ高い賢者達に教えを乞い、全てを知ったつもりでいた。
「世の中は広い。きっとあんたは私の知らないことを知っているだろうし、あんたの知らないことはこれから知っていけばいい」
ナギが炎を見つめながら静かに口を開く。慰めのつもりだろうか。あまりに淡々としすぎていて、山吹にはナギの真意が読み取れない。
山吹はそうだろうかと呟くと、膝を抱えて橙色の炎を瞳に映した。
腹がふくれると、心と頭に余裕ができるらしい。山吹はこれからのことについて頭を巡らせてみた。
ナギは確か玄冥伯を探すと言っていた。それに、西池門の門衛には玄冥伯は魯州にいるとも。
「玄冥伯が魯州にいるというのは確かなのですか」
「門を出るための虚言だ。彼の者は石州にいると便りを寄越したっきり音信不通だ」
ナギは抑揚なく答えた。行方不明の玄冥伯は、ナギには消息を知らせていたのか。少なくとも鵬皇であるはずの山吹の元に報せは来なかった。
何故自分は締め出されるのだ。政も、玄冥伯の消息も、何もかも。山吹は竹の水筒を両手でぐっと握りしめる。
ナギは唇を噛んで震えている山吹に気がついたようだが、何も言わなかった。
激しい感情をやり過ごすと、山吹はふと、西池門の若い門衛を納得させるほどの玄冥伯からの書状の中身が気になった。何故門衛はあの書状を見て顔色を変えたのだろうか。
「書状には何が書かれていたのですか」
「読んでみるといい」
山吹はナギが寄越した書状をぱらりと開いてみる。書状には簡単に数行だけ書き付けられていた。
『不在の間、一切の権限を鵬尾門門衛に譲る。玄冥伯 封蒙翼』
書状を持つ山吹の手が震える。封蒙翼は太祖、推明鵬皇の右腕と云われたほどの名将だ。しかし、それは三百五十年以上も昔のこと。
「あの莫迦者、人に全部押しつけおった」
毒づくナギを横目に、山吹は書状の上の筆跡を指で撫でた。黒々とした太い墨の跡に、封蒙翼の豪快な人柄そのものが息づいているようだった。
だが、筆跡は随分新しいように見えるし、第一、そんなに昔の人間が生きているはずがない。
「封蒙翼が生きているとでも言うつもりですか」
まるで封蒙翼を身近な知り合いのようにナギが言うので、山吹は自分の常識が間違っているのだろうかと不安になった。もしくは書状は偽造で、ナギが自分をからかっているのか、はたまた騙そうとしているのか。どう考えても後者の方が現実的だろう。
疑わしそうな山吹を見てナギはため息混じりに口を開いた。
「生きている。あんたの即位式にも参列していたであろう」
山吹は四年前の即位式のことを思い返してみる。
即位式の日、風にはためく鯤紋の旗の下に一人の男が傅いていた。山吹がその男を見たのはたったの一度、鵬心殿へと向かう階の上の事である。
並み居る武官たちよりもずっとがっしりとした体つきで、真っ黒の袍に身を包み、他の者を拒絶するかのように放っていた重苦しい威圧感ばかりが印象に残っている。
「あり得ません。怪力乱神なんて子供だまし、私が信じるとでも思っているのですか」
山吹がはっきりと首を横に振るのを見て、ナギは考えるように顎へ手をやった。
「怪力乱神とは言い得て妙だな。だが、現にあんたは桃源郷を通ってきたではないか」
山吹は目をぱちくりとさせた。時間の流れが違い、明らかにこの世のものではない常春の世界は、山吹の目に色鮮やかに焼き付いている。
駮だってそうだ。ナギの影から駮が現れるのを山吹は目の当たりにした。
「太祖は仙人を味方に付けたとでも言うつもりですか」
未だに信じられないという山吹の最後の常識が、ぽろりと口から零れだした。
「似たようなものだ」
遠回しに肯定してナギは水筒の水を呷った。
突然現実離れしたことを言われても、山吹は今ひとつ腑に落ちない。山吹は再び封蒙翼の書状に目を落とす。
「何故封蒙翼は玄冥伯なんて閑職に就いたのでしょう。太祖の右腕とまでいわれた人ですよ」
山吹は首を傾げた。
封蒙翼の武勲は高く、太祖の信頼も厚かったという。しかし史書の中では、奉台国建国後すぐにふっつりと姿を消したことになっていた。
去ったはずの封蒙翼が宮城に留まっていたことも驚いたが、何故玄冥伯なのであろう。望めばどんな地位でも得られたはずである。玄冥伯なんて、何の役目も権限も持たない、あってもなくても良いような官である。仕事らしい仕事といえば、宮中の礼に則って鵬皇の即位式と大喪にちらりと顔を出すぐらいだ。
「太祖はあんたたちが愛しかったからだ」
ナギは木の棒で焚き火の中をかき混ぜた。ぱちぱちと乾いた木が炎の中で弾ける音が響く。山吹はナギの要領を得ない言葉に首を傾げる。
「玄冥官には玄冥伯と鵬尾門門衛の二人しかいない。門衛はともかく、玄冥伯は太祖の子どもたちのためだけに存在する」
「太祖の子どもたち、ですか」
「聞いたことはないか、玄冥殿には守り神がいると」
早くに母を亡くした山吹を可愛がり、忙しい合間を縫って顔を見せに来た祖父が、まだ幼かった山吹を膝の上に載せて話してくれたおとぎ話を思い出した。ある少年が宮殿の真北を守るように建てられた玄冥殿の守り神と、開かずの鵬尾門を潜って桃源郷を旅したという冒険譚だ。
山吹は子供だましのおとぎ話だと思っていたが、祖父はよほどその話が好きだったのか、山吹が諳んじてしまうほど幾度も同じ話を繰り返していた。
「祖父が昔よく話してくださいました。桃源郷へ行った少年の冒険譚を」
「啓殷鵬皇、確か会ったときはまだ蘭の君という名の皇子だったな」
ナギは懐かしそうに微かに頬を緩めた、ように山吹の目に映った。
山吹は驚いたが、玄冥伯が仙人なら、ナギもまた普通の人ではないのだろうか。
風露の民の中にはまれに神仙の力を持って生まれてくる者がいるという。迷信に過ぎないと思っていたが、ナギはそれなのかもしれない。
三百年以上を生きている英雄と同じ時を過ごしているとしたら、五十年ほど前の話を知っていたとしても可笑しくはないと、山吹は考えるのを放棄した。
「いつも祖父は話の最後に、どうしても困ったことが起きてしまったら玄冥殿にお願いしてみなさい、玄冥殿の守り神が助けてくれると締めくくるのです」
言ってから、山吹ははっとしたようにナギを見た。ナギはうっすらと首を縦に振った。
「子孫たちの願い事を一つだけ叶える、そのために玄冥殿は存在する。人の生は短く、永きに渡って行く末を見守ることは叶わない。故に太祖が願い、永遠に近い生を持つ彼の者と取り交わした約束だ」
太祖は先祖とはいえ、はるか昔の人物だ。親類としての親しみを感じるよりも、どうしても歴史上の偉人としての印象の方が勝る。
突然書物の中でしか知らないようなはるか昔の偉人が、子孫である自分たちの願いを叶えるという贈り物を遺したと言われても、正直な所山吹は腑に落ちない。
「太祖は子孫が願い事を悪用するかもしれないとは思わなかったのでしょうか」
皇族の全てが良い人間とは限らない。二十にも満たない歴代の鵬皇の中にさえ暗君や暴君として名を残した者がいるのだ。
一体、彼らはどんなことを願ったのだろうか。そして、どんなに酷い願い事でも一つならば叶えられるのか、山吹は気掛かりだった。
不安そうな目をじっと向ける山吹の横で、ナギは木の枝を持つ手に目を落としたまま静かに口を開いた。
「何を以て悪事とするかは分からないが、もちろん考えただろう。それでも太祖は子孫たちに何かを残さずにはいられなかった。謀反から守ってくれなんて願う者が出るとは思わなかっただろうけど」
山吹は口の中で謀反という単語を反芻した。
求めた答は得られなかったものの、ナギの言葉の中に侍中や郎官たちに対する微かな侮蔑を感じ取って山吹は少し安心した。少なくともナギは山吹の味方なのだ。
「郎官には郎官の、侍中には侍中の分というものがある。分を侵すのならば、それなりの覚悟が伴わなければならない」
続けられた言葉に山吹は首を傾げる。
鵬皇の分、郎官の分、侍中の分。それぞれに分という物が存在するのなら、墓守の分と門衛の分だってあるはずだ。
「墓守が門衛を兼ねるのは、分を侵さないのですか」
「墓守だから門衛となった。それが私に下された罰だからだ」
ナギの表情がうっそりと暗く陰った。山吹は触れてはいけないものに触れてしまったような気がした。
死罪ではないとはいえ、今では廃れた黥面の上に墓守のような奴婢に落とされるなど、余程のことではないはず。
玄冥伯との繋がりはともかく、開かずの鵬尾門の門衛となることが、ナギの犯した罪と受けた刑にどう関係があるのだろうか。山吹には門衛と墓守の関係が見えない。
「もうそろそろ寝ろ。明日は歩くぞ」
ぼんやりと考えていると、ナギがぶっきらぼうに口を開いた。せき立てられて山吹は渋々横になった。
(今の私は何者でもない、魯州の小作人なのだ)
ナギの素性を気にしている場合ではない。
炎に背を向けて首から提げた手形を眺めると、心がぎゅと締め付けられたように苦しくなり、目から涙が溢れだした。つい今朝まで寝起きしていた柔らかな寝台とは違い、固くて冷たい土の感触が一層気持ちを惨めにさせる。
今朝までは自分は鵬皇だった。朝起きたら松露殿の寝台の上で、今日起きたことすべてがただの悪い夢であればいいのにと山吹は思った。しかし香とは違う草木の匂いが、甘い幻想を夢見ることさえ許さない。
(もしも柏が玄冥殿の守り神に願えば、ナギは私を殺すのだろうか)
ふと一抹の不安が首をもたげる。
玄冥殿が願いを叶えるのは山吹だけではない。山吹と同じく太祖の血を引く腹違いの弟の柏も例には漏れないはず。
まだ九つにもならない柏は、二人の父である永安鵬皇の側妃だった皇太后の銀竹の方の言いなりだと聞く。母である銀竹のためならば柏はどんなことでも願うだろう。
そして銀竹が、若くして薨じた正妃、荷葉の上の子である山吹を疎ましく思っているのを知っている。もし銀竹のために柏が山吹の排斥を玄冥殿に願ったら、ナギはどうするのだろうか。
ああ、暗い考えばかりが止めどもなく沸いてくる。体は疲れているはずなのに、心がざわついてなかなか眠りに就けない。
山吹が赤く照らされた木々の向こうに目を向けると、漆黒の闇が底なし沼のようにどろりと広がっていた。気を抜けば、得体の知れない化け物が現れて闇の中に容易に引きずり込まれてしまいそうだ。
山吹には、ぽっかりと開いた暗闇が、先の見えない自分の未来を暗示しているかのように思えてならなかった。