失意の路
ナギの後ろを山吹がふて腐れたままとぼとぼと付いていくと、いつの間にか西の郭壁最大の門、西池門の前に出ていた。
門前の広場にいるのは、これから双陽を出ようという人たちであろうか。皆一様に戸惑いを見せている。
鵬皇が崩御すれば、服喪のために双陽の郭門は七日間封鎖される。既に通行の許可が下りず引き返すことを余儀なくされた者もいるようだ。
門前で途方に暮れる旅装束たちを横目に、ナギは山吹を連れて西池門にずかずかと入っていく。
西池門はなんとか通行許可を得ようと交渉する人々と、対応に追われる羽紋の入った紺の戎衣を着た門衛でごった返していた。
ナギは目敏く手の空いた門衛を捕まえて話しかける。
「急ぎ伝令のため魯州に行かなければなりません」
若い門衛の表情が明らかにぴりりと強張った。恐らく任に就いて間もないのだろう。仕事にまだ不慣れな上に突然の緊急事態で、対応に自信がないと見える。
旅人なら決まりだと言って追い返せばいいが、伝令は違う。他の門衛たちも手一杯で、相談することもできない。
「手形を拝見します」
山吹はナギを真似て、おずおずと手を差し出した若い門衛に手形を渡した。門衛は丁寧に手形を改めて黒い眉を顰める。
「鵬尾門の門衛殿が、何故魯州の者と同行をなさるのですか」
門衛は怪訝そうに山吹と如何物の手形を見比べる。
疑われているのかもしれない。山吹は心臓が口から飛び出しそうなほど緊張して、喉が詰まったかのように何一つ言葉が出ない。
「陛下がお隠れになられた故、魯州にいる玄冥伯の召還に行くのです。この者には魯州までの案内を頼みました」
俯いて黙りこくっている山吹の横で、門衛の質問にナギはすらすらと淀みなく答えた。一応敬語も使えるらしい。鵬皇であるはずの山吹にはぞんざいな口ばかりきくので、ナギの変わりようが山吹は面白くない。
「門衛である貴方が伝令に走るのですか。それも馬も連れずに?」
通常、勅令や宮城からの伝令の使者として派遣されるのは中郎府に属する大夫の役目である。門衛は中郎府の属官ですらない。
急ぎの伝令なのに馬がいないというのも不審だろう。整備された街道を行くのなら馬を使った方が早いに決まっている。魯州まで馬が通れないほどの悪路があるわけでもない。それでもわざわざ徒歩を選ぶのには、何か理由があるのか。
「玄冥官の伝令は玄冥官の者が行う決まりです。玄冥官はどことも連携しておりません。故に馬を管理する典厩寮から馬を借りるには、典厩寮を通して乾政官に許可を頂かなければなりません。それに、派遣される急使は我らのみではないでしょう。典厩寮には彼らが殺到しており、玄冥官への対応など後回しです。事態が落ち着くのを待つ猶予はありません」
門衛は不審そうに首を傾げた。山吹もそんな決まりがあるなんて聞いたことがない。
乾政官の配下でもなく、普段典厩寮と無縁の玄冥官が、馬を借りるのは容易なことではない。鵬皇の財産である馬を貸すには、鵬皇が空位の今、乾政官の許可が必要であり、典厩寮の一存で決定を下すことはできないのだ。
しかも、突然の崩御でどこも混乱に陥っているのは確かだろう。渾沌とした状況の中、急使への対応に追われた典厩寮が玄冥官への馬の手配を後回しにするのは目に見えている。その上、乾政官に典厩寮から上がってきた書類に目を通す余裕などあるはずはなく、許可が下りるまでどれほど待たされるか分かったものではない。
疑問はもう一つある。門衛は監門府によって管理されているはずだ。開かずの鵬尾門の門衛とて例外ではない。ナギの手形に押された監門府の羽紋がそれを示している。しかしナギの手形にはもう一つ、玄冥官の鯤紋があるのだ。監門府と玄冥官の両方に、同時に属することが可能なのだろうか。
「何か証明できる書状はありますか」
「崩御の報せとて今し方届いたばかりでしょう。それに本来書状を出すはずの玄冥伯が不在です」
門衛は難しい顔をして考え込む。想定内のことだったらしく、ナギは涼しい顔で思い出したように懐から一通の書状を取り出した。
「しかし、初代玄冥伯はこのような書状を残していきました」
門衛はナギから受け取った書状を開いて、文字を追う毎に顔に浮かんだ困惑の色を濃くしていく。
「彼の玄冥伯はかくの如く申しますが、大喪に代理を立てるのは道理に悖ります故」
門衛は書状とナギの顔と他の門衛たちとを見比べている。判断を他の門衛に仰ぐつもりだろう。しかしどの門衛も双陽を出ようとしている人たちへの対応で手一杯で、助けを求める若い門衛に構っていられない。
「急がねば大喪に間に合いません」
ナギが答を急かした。
大喪は崩御から三十日後に執り行われる。どれほど急いでも、双陽から魯州まで片道十日はかかることを考えると、時間が惜しい。
伝令が足止めされたことで玄冥伯が大喪に間に合わないとなると大事である。それよりは、旅人を二人見逃した方が軽く済むだろう。
「承知しました。お通りください」
しばし考えあぐねた結果、門衛はため息混じりに道を空けた。
「かたじけない」
門衛から二人分の手形を受け取り、ナギが軽く頭を下げるのを見て、山吹も真似して頭を垂れた。
二人が西池門と城郭を囲う水濠を過ぎ、西へ向かう街道に入ってすぐに、後ろから馬蹄の音と狼狽する人々の声が響いてきた。
山吹はナギに手を引かれながら後ろを振り返る。十騎ほどであろうか。騎兵はいずれも羽紋の入った褐衣を身に纏っている。郎官だ。それぞれ槍を手にしている。恐らく捕り物だろう。
郎官たちは西池門に殺到している旅人たちを蹴散らすと、下馬もせずに門衛に呼びかける。何語か門衛たちと言葉を交わすと、若い門衛が山吹たちを指さした。
「思ったよりも早かったな」
歩きながらナギが小さく舌打ちする。途端、それを合図に地面に落ちたナギの影がぐにゃりと形を変えた。影は黒い塊となって地面から盛り上がり、すぐに馬に似た一頭の白い獣の姿を象った。
ナギはひらりと獣の背に飛び乗り、山吹の腕を掴んで体を獣の上に引っ張り上げる。
馬蹄の音が迫ってくる。
「捕まっていろ」
ナギは自分の腰に山吹の腕を回させた。ナギが獣の腹を蹴ると同時に、獣は咆哮を一つ轟かせて走り出す。激しい振動で少しでも気を抜けば振り落とされてしまいそうだ。山吹は投げ出されないように無我夢中でナギの体にしがみついた。
獣は飛ぶように走った。ちらりと一瞬、はるか後ろに竿立ちになって暴れる馬を落ち着かせようとしている郎官たちの姿が見えた。
郎官たちも、西池門もぐんぐん引き離されて、すぐに砂粒よりも小さくなり、いつの間にか見えなくなっていた。
山吹とナギを乗せた獣はしばらく走り続けた後、もう追いつかれないと判断したらしく足を緩めた。
山吹が獣から落とされまいとナギの背中に捕まるのに必死だった間に、二人と一頭は街道から外れていたらしい。獣は背の高い草をかき分けて、道なき道を進んでいく。
山吹はナギの背中にしがみつきながら後ろを振り返った。橙色に染まる草原の遥か彼方に小さな双陽の城郭がうっすらと青く霞んで見えた。
(宮城が、あんなにも遠い)
不意にきりりと胸が痛んで、涙が込みあげてくる。
古来、左遷なり島流しなりで都を離れることになった貴人たちは、都への郷愁や無念さを詠い名歌を遺したという。
山吹も歌にして心の内を表現できれば多少は慰めになるのかもしれないが、何一つ言葉が浮かんでこない。
山吹は顔をナギの背中に埋めた。声を噛み殺して嗚咽を漏らす。
込み上げてくる気持ちが寂しさなのか、悔しさなのか、それとも無念さなのか。押しつぶされてしまいそうな胸の痛みと、ぐちゃぐちゃになった感情と一緒に溢れてくる涙が止まらない。
山吹が泣いていることに気付いていない筈はなかったが、ナギが口を開くことは決してなかった。