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迷穀抄  作者: 雨森かえる
第一章 大鵬の都
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八衢

 桃源郷の中、山吹はナギの背中を追ってゆるやかな坂を登る。薄紅色の丘には、大地へ還ることを忘れた桃の花弁が分厚く積もっており、絨毯のように柔らかい。


 やがてふかふかとした桃色の山頂に着くと、黒い鋼鉄の門だけがおもむろに立っていた。

 山吹は門の表と裏をくるくると見比べる。

 ぴったりと閉じたそれは、重たげな門扉を持つ何の変哲もない門にしか見えない。今山吹が立っている空間が桃源郷だというのも現実味に欠けるが、この門を一度潜れば宮城の外と言われても、どうにも信じ難い。


 山吹がいい加減門を調べるのに飽きてナギの背後に戻ると、ようやくナギは門に触れた。

 桃源郷に逃げ込んだときと同様に、門扉は音もなく軽々と開いていく。

 開いた門扉の隙間からは宮城の周りをぐるりと張り巡らされた水濠と、そのはるか向こうに山のような陵墓が青く見える。本当に外なのだ。


 山吹は躊躇った。ナギが先に出て、山吹が出てくるのを黙って待っている。

 外に出れば自分は殺されるかもしれない。突きつけられた現実を直視しようとすればするほど、心は折れて足は竦む。しかし桃源郷の中に残っても、自分が老いていくだけで事態は何も変わらないとナギは言う。


(進むしかないのだ)


 山吹は手を力一杯握りしめて、思い切って門の外に足を踏み出した。花弁の絨毯とは異なる、橋の上に敷きつめられた石畳の硬い感触が足の裏に伝わった。


(外だ)


 山吹が門を潜ると、城壁の反対側からざわざわと侍中じちゅう郎官ろうかんたちがどよめく声と槍がぶつかり合う金属音が聞こえてきた。どうやら山吹がナギに手を引かれて桃源郷に入り込んだ直後のようだ。

 開かずの鵬尾門ほうびもんの開門を目の当たりにしたこと、山吹とナギが門の中に消えたことに動揺しているのだろう。押したり叩いたり、どうにか門をこじ開けようとしているらしいが、門はびくともせず開く様子はないようだ。


 ナギは門を閉じ、宮城を囲う水濠すいごうの上に申し訳程度に取り付けられた橋を渡った。山吹もナギに続いて橋を渡る。本来なら立派なものが設えられるのであろうが、開かずの門には無用の長物だということなのだろう。


 水濠を超えると、橋のたもとから先は緑豊かな雑木林が広がっていた。

 内城ないじょうは貴族や高級官僚達の居住域である。だがそれはあくまでも宮城の東西南であって、北側は忌避される。宮城の北は、宮城や奉台国ほうたいこくを守るようまじないを込めて、寺社や御陵がぽつぽつと置かれているのみだ。

 また、その寺院や御陵へ至る道も東西の右肩門と左肩門からの迂回路ばかりが伸びて、鵬尾門の裏は発展から取り残されたために雑木林が残った、と山吹は歴史だったか地誌だったかの講釈で聞いたことを思い出した。


「これからどうするのですか」


 山吹は迷う素振りも見せず、枝葉を払いながら黙々と足場の悪い雑木林の中を進むナギに声をかけた。


双陽そうようの外に出る」


 ナギは素っ気なく告げた。山吹は足をぬかるみに取られながらナギの後を必死で追う。


「その後は」


「あんた次第だ。あんたはどうしたい」


 山吹は言葉に詰まる。頭の中にあるのは、ただ生き延びることばかりだった。


(生き延びて、私はどうしたいのだろう)


 問われるのはいつも鵬皇ほうおうとしてどう振る舞うべきかで、自分がどうしたいのかなど、今まで一度も聞かれたことがなかった。

 山吹は焦った。いくら考えても、どうしてもこれだというものが思いつかない。考えれば考えるほど、自分には何もないのかと虚しくなってくる。


 ナギはしばらくの間黙々と前を進んでいたが、答が返ってこない山吹を気にしたのか、ふと口を開いた。


「例えば、このまま落ち延びて何処かのいなかで身分を隠して余生を過ごすのもいいだろう」


 え、と山吹の思考が停止した。


「私は鵬皇です。宮殿に戻ります」


 気がつけば、反射的にナギの言葉を遮っていた。

 山吹の中では、追われても宮城こそが自分の場所なのだ。何を当たり前のことをと思ったが、それさえ出てこなかった自ら自身に山吹は驚いた。あまりに当たり前でありすぎて見失っていたのか。

 だが、同じように疑問もふつふつと沸いてくる。これはただ単に鵬皇としての模範解答を述べたに過ぎないのではないか。


(宮城に戻って、私はどうしたいというのだ)


 無事宮城に帰ることができたとして、一生を傀儡かいらいのように過ごすのか。奉台国の皇子として生まれ、いずれ鵬皇となる存在として期待され、また期待に添うように生きてきた。

 しかし鵬皇とは何なのかと、時折虚しくなるのだ。宮中の諸事を含むまつりごとは全て乾政官けんせいかんが掌握しているし、その乾政官の役人の選定も鵬皇の代理を務める執柄しっぺいが取り仕切っている。

 鵬皇といえど自分には口を挟む余地はなく、何一つ自分の意のままになることはない。自分がいなくなったとしても、鵬皇という名の御輿に乗せられるのが異母弟のかしわに変わるだけで、宮城も奉台国も何も変わらないだろう。

 飾りでしかない鵬皇に意志など必要なく、宮城という名の檻の中で生きながら死んでいるようなものだ。

 それでも宮城に戻る意味はあるのだろうか。戻った所で、自分はどうしたいのだろう。


「良かろう。ならば無事に宮城に帰る手助けをあんたの願い事としよう」


 未だ苦悩の淵にいる山吹とは反対に、ナギは山吹の答えに深沈しんちんと小さく肯いた。

 まるで迷いというものを見せないナギを、山吹は少し羨ましく思った。


 突然、宮城の方から大筒おおづつを放つ轟音が響いて、驚いた鳥たちが一斉に飛び立っていった。

 郎官たちは門を力尽くで破るつもりなのだろうか。山吹は不安そうにナギを見るが、ナギは顔色一つ変えていない。


「鵬尾門も北の城壁も、火砲かほう如きでは突破できない」


 確証でもあるのか、ナギははっきりと言い切った。

 誰かが開かずの鵬尾門を開けようと試みたときに、大筒も試したと史書にはなかったか。砲弾は門に命中したものの、門には傷一つ付かなかったと記録にはあったような気がする。


「しかし大筒を持ち出すとは、随分思い切ったことをしたな」


 ナギの関心は門の無事よりも違うものに向いているようだ。

 宮城内で大筒を持ち出せば大事になる上に、何よりも目立つ。宮城では然るべき場所と場合以外で許可なく発砲するのは重罪に当たるはずだ。

 それを知って火砲を持ち出したということは、揉み消す自信があるからか、隠す必要すらもないからか。

 相手は鵬皇を手にかけようとしたような輩なのだ。どちらにせよ良い兆候とは言えない。


「まずは玄冥伯げんめいはくを探そう。味方が必要だ」


 山吹に背を向けたままナギは独り言のように告げた。山吹は意外な名前に何故と首を傾げた。

 玄冥伯が宮城から姿を消して久しい。山吹ですら自分の即位式の時、鵬心殿への階の途中でちらりと見たかもしれないぐらいの乏しい認識だ。それに玄冥伯自体が、行方知らずとなっても困らないような、何の権限も持たない名前だけの名誉職だ。

 それでもナギは、玄冥伯ならば今の厳しい状況から自分たちを救い出して、解決に導いてもらえると思っているのだろうか。

 ナギと玄冥伯を信頼していいものなのかと考え込んでしまい、先を行くナギの白い顔に難しい表情が浮かんでいたことに、とうとう山吹は気付かなかった。




 何度もつまずきながらも、山吹とナギはようやく雑木林を抜けた。

 やっとのことで道らしい道にぶつかって、山吹はほっと安堵した。ナギがいるとはいえ、宮城で生まれ育った山吹にとって人家のない森の中を行くのはひどく心細かったのだ。

 南の方を見ると真っ直ぐな路の両側に白く塗り込められた壁がそそり立っていた。その向こうにやしきの瓦屋根がいくつも見えている。宮城の西に広がる、貴族や高級官吏達の住む右肩羽うけんう区だ。大きな邸が多いようだが、開いた門から垣間見える木造の建物は、金細工と極彩色に彩られた宮城と比べてずっと質素に見える。


(ここに宮城や皇城の官吏達が住んでいるのか)


 宮城とは異なる趣に、山吹は歩きながら興味津々で辺りを見回す。細い通りを選んで歩いているせいか、まだ昼前だというのに人通りは少なくひっそりとしている。

 貴人の少年と風露族ふうろぞくの墓守の組み合わせが余程珍しいのだろうか。すれ違う度に人々が山吹とナギを怪訝そうな顔でじろじろと見ていく。

 鵬心殿ほうしんでんで鵬皇として注目を浴びるのとは違う、まるで見世物でも見るかのような好奇の視線に山吹は居心地の悪さを感じるのを禁じ得なかった。不愉快に思ったのはナギも同様だったらしい。


「とりあえずは、旅支度が必要だな」


 山吹の着ている刺繍の施された蘇芳すおう色の袍と自分の古びた薄墨の衣を見て、ナギは小さく嘆息を落とした。



 右肩羽区を南に抜けると、山吹とナギは内城と外城とじょうを隔てる城壁西側にある嘴右門しゆうもんを潜って外城へ出た。

 羽紋の入った水干姿の門衛達は、風露族の刑人けいじんに手を引かれた貴族の子を見て、一瞬不可思議なものを見たとでも言いたげに眉間に皺を寄せたが、二人を止めることはしなかった。


 内城と外城の行き交いに厳しい制限はない。特に内城から外城へ出る場合は全くの自由だ。双陽中に張り巡らされた水路を使って内城に物を運んではいるものの、内城にはない市や商店が外城に存在するために、最早内城の生活は外城がなければ成り立たない。また裕福な内城の人間は、贔屓ひいきにしている外城の御店おたなを呼び出す場合もあるようだ。

 さらに、山吹の祖父にあたる啓殷けいいん鵬皇が、在位中に外城と内城の行き来の自由化を推し進めた結果、隔絶されていた内城の貴族文化と外城の大衆文化が混ざり合い、独自に新しい文化が花開いた。もっとも、宮城内は何よりも伝統を重んじるために、外に出たことのない山吹は話に聞く新しい文化という物を実際に目にしたことはないのだが。


 ナギに手を引かれるまま小さな家屋や商店が乱立する雑多な市街をすり抜けて、山吹は西の市に出た。市の中に入ると露店がそこここと建ち並び威勢の良い呼び込みで騒々しい。露店には穀物や野菜に果物、魚に鳥、花に雑貨と、揃わないものはないというほど多種多様な商品が山と積まれている。


 双陽の中を北東から南西へ貫く匣川はこがわや、国中に張り巡らされたいくつもの街道を通じて、様々な食料や特産品が奉台国の十六の州から集まってくるのだ。さらに、奉台国北端に住む異民族、風露族の民芸品や、海を超えた隣国からの舶来品も運ばれてくる。また、双陽の南には匣川によって北東の山々から運ばれた土が沃野を形成し、双陽の台所を支える穀倉地帯が広がっている。

 西の市の賑わいに彩りを添えているのは、様々な露店だけではない。かぶいた衣装を着た大道芸人が各々出し物をしており、その周りには黒山の人だかりができている。


 目まぐるしく変わる風景と人混みに揉みくちゃにされて、手をしっかりと掴んでいなければナギからはぐれてしまいそうだ。


「その格好は目立ちすぎる。好きな物を選ぶといい」


 ようやくナギが足を止めたのは、古着を扱う壁を背にした一軒の露店の前であった。地面に敷かれたむしろの上に古着が無造作に山と積まれている。山吹はあまりきれいとは言えない古着の山を見て顔を蹙めた。

 山吹は自分が着ている豪奢な刺繍が入った滑らかな絹を使った衣を見てみる。比べてみると、道を行き交う人々も、露天商の老婆も、宮殿で出会うどの官吏や女官達よりもずっと粗末な衣を着ているようだった。

 雑踏の中にはまれに貴人らしい人影も混じっているが、遠目にもそれと容易に分かるほど服装が浮いている。絹のほうを着た自分もまた周囲に溶け込めていないだろうということは簡単に想像できた。


「都人はこのような衣を着ているのか」


 山吹は古着の山から若草色の着物を引っ張り出して呟いた。着物は粗末な綿で織られていて、手触りがごわごわしていた。他に何着か手にとって見てみたものの、どれも品質はあまり変わらないようだ。


「それでいいのか」


 余程気に入っているように見えたのか、ナギが山吹の手の中に残った若草色の着物を覗きこむ。いつの間にかナギの手にもくたびれた鉄色の着物が握られていた。


「墓守の格好も、また目立つ」


 外城では古ぼけた薄墨の衣よりも白い短髪の方が目立つだろう。物言いたげな山吹を遮って、ナギは財布から何枚かの銭を取り出して露天商の老婆に手渡した。

 山吹は改めて若草色の着物を見てみた。少し生地が疲れているものの、目立った汚れはないようだ。山吹には質の悪い着物にしか見えないが、以前の持ち主は大切に着ていたのだろう。


「そこの路地裏で着替えられるそうだ」


 山吹が見たこともない若草色の着物の持ち主であった都人のことを考えていると、ナギが古着屋の裏の細い路地を指さした。

 どうやら着物に夢中になっている間にナギが老婆に訊いたようだ。双陽を出る前に都人に身をやつすことで、追っ手の目を暗ませるつもりらしい。


 山吹は頷いてナギと一緒に狭い路地裏に入る。少し奥まったところまで行き着くと、人の眼がないことを確認してからナギはおもむろに自分の衣の帯を解いた。さっと薄墨の衣を脱ぎ捨てて襦袢じゅばん姿になると、上に鉄色の着物を羽織る。

 山吹は手慣れた様子で着物を着るナギと、腕の中の若草色の着物を見比べる。

 ナギが山吹の視線に気がつく様子はない。いつまでもナギが戸惑う山吹の様子に気がつくのを待っているわけにもいかない。


「あの、」


「何だ」


 灰色の馬乗り袴の帯を縛りながら、未だ帯さえ解いていない山吹の姿を見て、ナギは怪訝そうに首を傾げる。

 山吹は思い切って口火を切った。


「着物、着せてはもらえないのですか。宮中では侍中じちゅう采女うねめ達の仕事で、自分で着たことがないのです」


 ナギの様子を見れば、宮城の外では人々は自分で着物を着るのが当たり前なのかもしれない。

 宮城は外とは違うから仕方がないと開き直ることは簡単だが、山吹にはそうできなかった。どうにも恥ずかしさが込みあげてくる。山吹は顔を赤くして俯いた。


「分かった」


 ナギは別段気にした様子もなく、おもむろに山吹の手から若草色の着物を取ると、手早く山吹の袍を脱がせて若草色の着物を着付けていった。

 絹の衣とは違う、ざらりとした綿の感触に山吹は違和感を感じた。


「慣れれば、自分でも着られるようになる」


 野袴のばかまの帯を締めて仕上げに合羽かっぱを羽織らせると、ナギは次に丁寧に結われた山吹の黒々としたまげを解き、都人の多くがそうしているように簡単に髪を一つに括った。


 山吹は水たまりを覗きこんで息を飲んだ。短時間の間に鵬皇だった山吹の面影はすっかり消え失せてしまっていた。代わりにまだあどけなさを残す一人の都人の姿が水面に映っている。


 山吹が呆然と自分の鏡像を眺めている間に、ナギは白い髪を隠すように目深に笠をかぶり合羽を羽織った。とても刑人とは見えない、一介の旅人のようだ。

 服装を変えただけでこれほど人間の印象は変わるものなのか。今の格好なら目立たないだろう。しかし驚くのと同時に、すっかり変わってしまった自分の姿に哀れみを覚えるのを抑えるのは、山吹にとってあまりに難しかった。


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