常春の郷
半ば投げ込まれるようにして門を潜り抜けた先は、宮中での騒動が嘘のようにひたすら静寂であった。鋼鉄の門扉と高い城壁を超えただけだというのに、まるで別世界に来てしまったかのように何も聞こえない。
「安心しろ、彼の者らにこの門を開けることはできない」
刑人がうずくまったまま動こうともしない鵬皇におもむろに話しかける。余裕ができたからといって、言葉遣いを改める気はないようだ。
幼さを残す鵬皇は歯を噛みしめて嗚咽を漏らしていた。
刑人は微かな衣擦れの音を立てて鵬皇の横に腰を下ろす。
「随分穏やかではない様子だが、何故鵬皇のあんたが、あんたを助けるはずの郎官や侍中に追われている」
刑人の問いかけに、鵬皇は俯いたまま首を横に振っただけだった。刑人は面倒そうに白銀の髪を手でかき上げて、そうかとだけ呟いた。
刑人は鵬皇がひとしきり泣ききってしまうまで、何も尋ねず、何も話さず、黙ってただ鵬皇の横に座っていた。
ようやく落ち着きを取り戻すと、鵬皇は自分の足許に広がっているのが薄紅色の花弁であることに気がついた。
つられたように鵬皇は顔を上げる。若い鳶色の双眸に映り込んだのは、広々とした薄紅色の野と、その上に植えられた幾百もの桃の木であった。
いずれの木も満開の花を付け、花弁が散るのと同時に新しい蕾が膨らみ花開いていく。春を謳歌するように世界は薄紅色に染まっていた。
しかし今はすっかり青葉の季節であり、桃の花には遅すぎるし、狂い咲きにしては花の数がずっと多い。花の時期ですら、これほど一斉に花を付けている光景は見たことがない。
そう、まるでどこかで読んだ常春の国のような。
「桃源郷」
古い書物の中に見つけた言葉が、鵬皇の口からぽろりと出ていた。
しかし、桃源郷などただのおとぎ話である。現実にそのような場所がある筈はないと思いつつ、されどそうとしか表現のしようがなかった。
刑人は黙ったまま肯いた。
「宮中にこのような場所があるなんて、知らなかった」
「開放する気はない」
ほう、とため息を漏らす鵬皇に、刑人は眉間に皺を寄せてうっそりと応える。あまり人を桃源郷に寄せ付けたくないのかもしれない。
刑人はすわりと立ち上がった。
「落ち着いたのなら出るぞ。ここでどれほど時を過ごしても、外の時は須臾も動いてはいない」
寄せ付けたくないのは鵬皇も例外ではないらしい。
刑人の急かす言葉を聞いて、鵬皇の顔色がさっと青くなった。また槍を持つ郎官たちが待ち受ける宮城に戻らなければならないのか。
「出ると言っても宮中ではない。外だ」
刑人は鵬皇の表情を見て察したらしく、淡々と付け加えた。鵬皇の顔に安堵の色が戻る。
しかし、外の時が動いていないとはどういうことなのだろうか。鵬皇は今ひとつ飲み込めていない。
刑人は鵬皇を置いてきぼりにしたまま話を続ける。
「宮城の外で鵬皇と呼ぶのは目立つ。名は何という」
「山吹です」
鵬皇が答えると、刑人は薄紅色の地面に視線を落として黙って考え込む。山吹はおかしなことを言っただろうかと首を傾げた。
「あの、何か」
「何でもない」
おろおろと山吹が尋ねると、刑人は白い髪を揺らして首を横に振った。
「私はナギという。過去に罪を得て、墓守と鵬尾門の門衛を仰せつかった」
そう言って刑人は後ろ髪をかき上げて見せた。さらさらとこぼれ落ちる白銀の髪の向こうに、刑を受けた証である青黒い墨が入っていた。
山吹は思わず後退った。予想していたとはいえ、実際にはっきりと告げられるとやはり恐ろしい。
形は古いといえど薄墨色の衣と散切り頭は、賤民に落とされた罪人のうち、墓守に就いた者を示す。
しかし、穢れを嫌う宮城に墓場はおろか御陵もない。さらに言えば、宮城の門を守る門衛には良家の者しか就けないはずだ。
「何故墓守をしている刑人が宮城の最奥にいるのですか」
上擦った声で山吹が恐る恐る尋ねた。
そもそも穢れた刑人は宮城に足を踏み入れることさえ許されないはず。
それにナギの色素の薄い髪は北の異民族である風露族の血を引いていることを色濃く表している。風露族は北の牟州の統治下にあるとはいえ、奉台国の祀る大鵬とは異なる神を崇めるいわゆる異教徒だ。
山吹の祖父である啓殷鵬皇が風露族も奉台国の民と同等に扱うべしと勅令を出したものの、未だに差別は根深い。例え刑人でなくとも、その風露族が宮仕えに登用されるとは考えにくい。
・・・やはり宮城に忍び込んだ賊かも知れない。山吹の中に急に玄冥殿の中で初めてナギを目にしたときの恐怖が甦ってきた。
「話せば長い」
ナギは怯える山吹に、答える気はないとでも言うように無愛想に告げた。
門衛も墓守も、口から出任せを言っているだけかもしれない。郎官や侍中のこともある。どんな裏があるのか分かったものではない。
されど、不思議なことに、どうしても山吹には罪を得ているナギが悪人のようには見えないのだ。
それに、自分を助けてくれたこの刑人に縋るしかない。少なくとも今は。
「何故、予を助けたのですか」
ならばと、山吹は思い浮かんだ別の質問をナギにぶつけてみた。何でも良い、山吹がナギを信じられる明確な答が欲しかった。
しかし山吹の願いを裏切って、ナギは意外そうに首を傾げただけだった。
「そう願ったであろう」
玄冥殿の中でナギは山吹に救助を願いであるかどうかを確かめた。
ナギはそれだけが理由と言いたいのだろうが、果たして本心からの言葉だと信じていいものなのか。山吹には踏ん切りがつかない。
「願ったから助けたのですか」
「そういう約束だからだ」
疑わしそうに質問を重ねる山吹に、あまり語る気はないらしく言葉少なにナギは返答する。
山吹は怪訝そうな顔を作った。誰との、どのような約束があるというのだろうか。
「萌黄と名乗れ」
信じるべきか迷い続ける山吹に、不意にナギが口を開いた。山吹は虚を突かれて次の句を忘れてしまった。
「宮城の外に追っ手がかかるのも時間の問題であろう。山吹のままでは感づかれるかもしれない」
山吹がナギの真意を測りかねている間に、ナギは今自分たちが置かれている状況について考えていたようだ。
もっともである。宮城から追い出されたところで騒動が終わるとは思えなかった。侍中も郎官も、山吹の首を見るまでは安心しないだろう。
ぞくりと山吹の背中に冷たいものが走った。
「あんたを助けることがあんたの願いである以上、あんたを必ず助けよう。だから、少しの間辛抱してもらえまいか」
顔色を変えた山吹が萌黄という偽名を気に入らなかったのだと、ナギは思ったのだろうか。箒一本で槍を持った郎官たちと渡り合ったような剛の者が、ぶつぶつと他の候補らしい単語を呟いている姿はなんだか滑稽であった。
簡単に信用することはできないが、少なくとも今のところ山吹に害意はないだろう。
それに、ナギは山吹の目の前で開かずの鵬尾門を開けたのだ。本当に鵬尾門が門衛にしか開けられないのなら、ナギは間違いなく門衛なのだろう。
「萌黄でいいですよ」
ナギは山吹を訝しげに見る。山吹は立ち上がってナギの隣に立った。
「いつまでもここで、うずくまってなんていられません」
そう言って前を向く山吹の顔は必死に涙を堪えるようにゆがんでおり、一歩を踏み出した足はがたがたと震えていた。
ナギは山吹を見て唇を微かに綻ばせる。
「思ったよりも、気骨がある」
ナギは、え、と聞き返した山吹に箒を投げ渡した。
受け取った箒を検めると、穂は疎らになり、柄は刀傷だらけで哀れな姿になっていた。最早箒としての用を成さないだろう。
「全部終わったら、これは弁償してもらう。箒が欲しいとは願わなかった」
枝から零れ落ちた薄紅の花弁が、二人の上に音もなくはらはらと降り続けていた。