落日
奉台国の皇都、双陽。内城の中央には宮城と官庁街である皇城が、神獣として祀る翼を拡げた大鵬を象るように配置されており、その周りを城壁がぐるりと囲んでいる。
宮城の中央に位置し、都で最も高い建物である鵬心殿の屋根の上から、薄墨の衣を風に翻して小柄な影は双陽の都を見下ろした。
城壁と匣川を隔てた外城には、都民の暮らす家々の屋根がはるか遠くまで続いており、陰り始めた日の光をきらきらと波のように反射している。
影は何かに注意を引かれて宮城の奥に視線を向けた。北には鵬皇が鵬心殿へ登るための階と前庭があり、その向こうに鵬皇の寝宮である松露殿が横たわっている。
その松露殿が騒がしい。鵬皇付きの侍中や采女達があたふたと慌てふためいて走り回っている。
「鵬皇崩御」
誰かが一声叫んだのを合図に、悲鳴と慟哭が宮城に響き渡った。
屋根の上にも悲痛な叫び声が届いていたのだろうか。影は微かに眉を顰め、黙祷を捧げるかのように瞑目した。
少しの後、影は再び目を開けると、懐から掌に収まるほどの大きさの玻璃の玉を取り出した。中には白い花が一輪浮いていて、玻璃越しに仄かな光を放っている。
影は少しの間躊躇うように玻璃の中を覗いていたが、やおら思いを定めたかのように手の中の玉を放り投げた。影の手から離れた玻璃の玉は鵬心殿の前に敷きつめられた石畳に打ち付けられ、かしゃりと音を立てて粉々に砕け散った。
その音が届くのを待たず、薄墨の影は鵬心殿の上から姿を消していた。
ただひとつ石畳に上に残された白い花は、徐々に枯れて光を失っていき、やがて誰に見られることもなくひっそりと風に飛ばされていった。
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前王朝雍竜国の貧しい郡太守に過ぎなかった太祖、推明鵬皇が、名将と名高い封蒙翼を従えて国を破り、奉台国を建国してから三百五十余年。第十八代鵬皇である永安が若くして崩じ、遺された二人の皇子のうち兄の山吹が、齢わずか十一にして即位してから既に四年が経とうとしていた。
新しい鵬皇はあまりに若すぎた。鵬皇の代理を務める老獪な執柄と、国政において全ての実権を握る乾政官によって翻弄されるがままである。今や奉台国は、名君と呼ばれた前々代の啓殷鵬皇がもたらした繁栄の残渣を貪るかのように、音もなく沈みつつあった。
双陽の北部中央に置かれた宮城の中を少年はがむしゃらに走っていた。日を浴びたことのないような白い肌と、錦糸の刺繍の施された蘇芳色の絹の袍が、少年が高貴な存在であることを示している。
少年は兎に角逃げなければならなかった。鵬皇の寝宮である松露殿を出て、皇族の住処であるいくつもの宮殿が、小さな街の如く軒を連ねる宮城の中を息を潜めてすり抜けていく。誰の目に留まらぬように注意深く物陰に隠れながら、しかしできるだけ急いで人気がない方へ進んで行く。
本来なら宮中警護を生業とする郎官たちに助けを求めるべきであろう。しかし、少年にはそれができなかった。彼らに見つかることは死を意味する。
今は誰も信用してはならない。少年は自分自身にそう言い聞かせる。
ああ、心臓の音がうるさい。今は微かな物音でさえも立てたくはないのに。
誰かに心音を聞きとがめられるのではないかと怯えながら、少年は物陰から物陰へと怖々と渡り続け、気がつけば宮城の最奥の玄冥殿に辿り着いていた。
玄冥殿とは名ばかりのほんの小さな社である。宮城の建物はどれも細かな彫刻や煌びやか装飾で彩られているが、この社だけはむき出しの白木のままの質素な造りで、どこか清幽な空気が満ちている。
社の周囲には誰もいないようだ。少年は注意深く周りを見渡すと、音を立てないように玄冥殿の階を登って障子の貼られた木の扉を押した。鍵はかかっておらず、扉は微かに軋む音を立てて難なく開いた。
社は乾政官と並ぶ官である玄冥官の長官の玄冥伯が管理しているのだが、その玄冥伯は鵬皇の即位式に現れたのを最後に姿を見た者はいない。あまりに姿を現さないことから、本当に存在するのかどうか怪しんでいる者もいるぐらいだ。
少年は中に誰もいないことをよく確かめてから、社の敷居を跨いで扉を閉じた。
ほっと息をついて、ひんやりとした暗い社の中を見回してみる。八畳ほどの広さを持つがらんどうの社の中は、もう何年も人っ子一人入ったことがないにも関わらずきれいに掃き清められており、埃一つ落ちていなかった。
「何者だ」
急に誰何されて少年はびくりと体を震わせた。ぎぎぎと音が聞こえそうな程ぎこちなく首を動かして、声が響いてきた部屋の奥に目を向ける。
暗がりの中には、白木拵えの小刀を腰に差した、白銀の髪を持つ若者が箒を手に壁に背を預けてうっそりと立っていた。少年が外から覗ったときは、社の中には誰もいなかったはずだ。
「ここは玄冥伯以外、立ち入りが禁じられているはずだ。お主こそ誰だ」
少年が思いきって訊ね返すと、若者は琥珀の瞳で少年をちらりと見た。
少年はごくりと唾を飲み込む。華奢な人形のような若者が着る古ぼけた薄墨の衣は官吏の物ではないし、髪はうなじにかかるほどの長さに切り揃えられている。・・・刑人だ。
「ここに御座しましたか、陛下」
刑人が再び口を開くより先に、突然白木の扉が勢いよく開く。玄冥殿に入ってきたのは羽紋の入った褐衣を着て槍を手にした四人の郎官と、黒い直衣姿の二人の侍中だった。
郎官は鵬皇の身辺警護を行う近衛兵であり、侍中職に属す侍中は鵬皇に近侍して影ながら支えるのが役目のはずである。
その彼らが、「陛下」と呼んだ少年に槍を向ける。
少年は悲鳴をあげて刑人のいる社の奥に逃げ込んだ。刑人は少年と闖入者達を冷ややかに見ている。
「賊か」
年嵩の侍中が吐き捨てるように言うと、若い刑人は小さく鼻で嗤った。郎官たちが槍の穂先を少年と刑人に向けてにじり寄る。
「あんた、鵬皇か」
刑人は壁に背をもたせかけたまま、ぞんざいな言葉遣いを改めもせずに少年に抑揚なく訊ねた。
鵬皇もろとも殺されるか、それとも鵬皇殺害の濡れ衣を着せられて死ぬより酷い目に遭うか。そのどちらかの道を辿るのは火を見るより明らかだ。なのに刑人にはまるで焦った様子がなく、いっそ太々しい。
少年は刑人の薄墨色の衣の裾を握りしめた。
「予を助けよ」
がちがちと震えて音を立てる歯の間から、絞り出すような声が思わず漏れ出ていた。刑人は縋りつく少年に視線を向けた。
「それが、あんたの願いか」
「そうだ」
こくりと少年が肯くのを確かめると、刑人は一瞬だけ瞑目した。
「分かった」
ぽつりと独り言を吐くように告げるが否や、刑人は少年の手から衣の裾をするりと取り返し、迫り来る槍を箒でおもむろに薙ぎ払った。間髪を入れず、舞うような動きで箒の柄を使って蹈鞴を踏んだ郎官たちに追撃を加える。
急所を打ったのか、悲鳴をあげる間もなく郎官たちは床に転がされていった。
「走れ」
刑人は呆然と目の前の光景を見ている鵬皇の手を取った。反対の手で箒を軽々と操って侍中を殴り飛ばし、社の外まで退路を作る。
「鵬皇はここだ、逃がすな」
玄冥殿の外で様子を窺っていた侍中が叫んだ。鵬皇と刑人が社の外に出て見たものは、宮殿の方向からわらわらと集まってくる郎官たちであった。刑人は舌打ちした。
「仕方がない」
何が、と鵬皇が問う前に、刑人は鵬皇の手を引いたまま社の横に飛び降りた。足に着地の衝撃が感じられなかった。体が羽毛になったかのように軽い。
刑人は目の前の郎官を箒で鮮やかに打ち倒しながら、緑の禁苑の中を鵬皇の手を引いて北の城壁へ走る。宮城の北に存在する唯一の門、鵬尾門を目指しているようだ。しかし、その門には問題がある。
「鵬尾門は開きません」
「知っている」
走りながら忠告をする鵬皇に刑人はぶっきらぼうに返した。
鵬尾門は太祖が双陽に都を置いた当初から存在すると云われている。北の城壁に埋め込まれたいかめしい黒い鋼鉄のその門は、誰一人開いたところを見たことがなかった。何代か前の鵬皇が、門衛たちを束ねて宮門を守る監門府に命じて、無理矢理にこじ開けようとしたが、僅かも門扉が動くことはなかったという。
宮殿から追ってくる郎官たちが余裕の表情で迫ってくることからも、二人が逃げ場のない北の城壁に追い詰められようとしていることがわかる。
いかにこの刑人が武術に長けていたとしても、多勢に無勢、得物は箒と小刀だけである。まともに正面から突破するのは無理があるだろう。
策でもあるのだろうかと、鵬皇は心の内で首を傾げた。
禁苑を走り抜けて刑人が鵬皇を連れてきたのは、あろう事か鵬皇が危惧していた開かずの鵬尾門であった。
「どうするつもりですか」
ぞろぞろと迫り来る郎官たちを見て、鵬皇は震えながら刑人に尋ねる。
「決まっているだろう。門から外に出る」
しれっと返ってきた刑人の答えに、鵬皇は愕然とした。
「この門は開きません、もう終わりです」
鵬皇は刑人の手を振り解いて、へなへなと座り込んでしまった。顔は恐怖で血の気が引いて真っ青になっている。
「門が開かないのは、門衛ではないからだ」
刑人は力なくへたり込んでいる鵬皇に諭すように話しかけた。鵬皇は虚ろな瞳で若者を見上げる。刑人の琥珀の瞳が揺らぎ、鵬皇に行くか、行かないかを尋ねている。
鵬皇は刑人に手を伸ばした。無我夢中であった。
「 」
刑人の口が何事かを象るのを鵬皇は見た。
刑人は鵬皇の手を取ると、黒い門扉を軽く押した。ずしりと重そうな鋼鉄製の扉は、まるで重さのない物のように呆気なく開いていく。
「行くぞ」
刑人は呆然としている鵬皇の手を乱暴に引いた。門が開いていることに気がついた郎官が慌てて距離を縮めてきたからだ。
鵬皇を門の反対側に引っ張り込むと、すぐに刑人は門扉を押し返した。門扉は開いたときと同様にしずじずと動いていく。
間もなく門は微かな音さえも立てずにぴったりと閉まり、宮城に締め出された郎官たちは門の前に立ち尽くすしかなかった。