前編
何が悲しくて期末テスト中にこんなことやっているのだろう、と神代絵里はエプロン姿で溜息を吐いた。
明日はよりによって最も苦手とする古文がある。台所で料理をする前に、動詞の一つや二つ覚えなければならないのに――。
「今更覚えたところで所詮は付け焼刃です。寝て起きたら忘れています」
心の愚痴を読み取ったかのような無慈悲な台詞は、隣の部屋で綺麗な正座の姿勢でテレビを見ている男が発したものだ。聞き取りやすいその声はバラエティー番組の音声に紛れることなく不思議と耳に入る。
男の背中に持っている包丁を投げ付けたい衝動を抑えるため、まな板の上に転がっていたジャガイモにそれを突きたてた。
「誰のせいですか!」
男は意外そうな顔をして振り返った。
「てすとの日程は学校が決めるのであって私のせいではありません」
そう言うと男は無駄のない動作で立ち上がり、足音も立てずに絵里の傍へやってきた。切れ長の涼やかな目元の、端整な顔を絵里に近づける。
「お願いしましたよね?」
明るい茶色の髪が絵里の額を掠め、思わず息を呑んだ。
「そうだけど――いや、そ、そういうことじゃなくて――」
「どういうことですか?」
今まで見たことがないほどの綺麗な顔を目の前にして、絵里はめまいを起こしそうになっている。
このずれた感性を持った男との出会いは、わずか二時間前のことだった。
******
三日目のテストが散々な結果に終わりとぼとぼと家路についていた絵里は、最後の神頼みと思い立ち、通学路沿いの古い寂れた小さな神社へ行った。
「狐乃衛神社」と書かれた、やや傾いた鳥居をくぐると小さな社がある。
一匹の狐が怪我の手当をしてくれた子供達を護るため村を襲う鬼を退治した。村人達は死んでしまった狐の供養にこの神社を建てたという。
その昔話を聞かせてくれた祖母の在りし日を絵里は懐かしく思いだしていた。
社の中には色あせた赤い布を首に巻いた、狐の小さな石像があった。右耳の先が少し欠けたそれは思いほか可愛らしく、絵里は手でそっと頭を撫でた。
何のご利益があるかわからないが一応神様なのだからと、百円を薄汚れた賽銭箱に投げ入れ、目をつぶって手を合わせた。
心の中で必死に願を掛ける。
明日のテストは良い点――いや、平均点ぐらいで何とかお願いします!
目を瞑って集中しているせいか、微かにカレーの匂いを嗅ぎ取った。近くの家で夕食の支度をしているのだろう。
あ、カレーだ。美味しそう。
「それです」
突然の声に驚いて目を開けると、先ほどまで誰もいなかった社の前に赤い作務衣を着た若い男が正座をして座っていた。
古びた神社に作務衣で正座。
現実離れした目の前の光景に固まる絵里の頭には「不審者」という言葉が浮かんだ。
それまでじっと絵里を見ていた男が口を開いた。
「不審者ではありません」
「今時そう言われて、はいそうですか、と信じる人はいません!」
「そうですか。それは困りましたね」
男は考え込むように俯いてしまった。長めの髪で表情が窺えないが、その佇まいがどこか寂しそうで絵里の胸はちくりと痛んだ。
「あ、いや、でも、自分を不審者っていう不審者もいないから、不審者じゃないのかなって――」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
男は顔を上げて不思議そうに絵里を見つめていた。
「絵里じゃない? どうしたの、こんなトコで?」
振り返るとクラスメイトの間宮茜が神社の入り口からこちらを窺っていた。
「あ、あのね、この赤い服の人が――」
絵里は背後の茜に見えるよう、身体を少し横に移動した。
「赤い服? 人?」
茜はしばらく神社の中を見渡したが、首を傾げてこう言った。
「誰かいるの?」
作務衣の男は先ほどと同じく座っている。距離はあるものの、茜の真正面に位置しているので見えないはずはない。
茜は人差し指で自分のこめかみを二三度指した。
「あんた大丈夫?」
「えっ、だって、ここに――」
「じゃあ、また明日ね」
表情を曇らせたまま茜は自転車を漕いで去っていた。
絵里はゆっくりと振り返った。
「不審者じゃなくて、お化け?」
「それも違います」
男は冷静に訂正した。そして「もし、それを供えて頂ければ貴女の願いを叶えますよ」と告げたのだった。