鍵の向こう側
時刻、二十一時十四分。
フロアに残っているのは、藤堂圭ひとりだった。照明の落ちた一角で、パソコンの画面だけが白く浮かんでいる。キーボードを叩く音に、冷蔵庫のモーター音と、ときどき回るファンの音が重なる。それ以外は、何もない。
圭はプライベート用のパソコンを開いていた。残業の合間、ふと昔の写真が目に入った。それがきっかけだった。
検索欄に『元恋人 掲示板』と打ち込む。似たようなサイトが並ぶ中、ひとつだけ目に留まった。
『元カノコミュニティ』
灰色のアイコン。その横に、小さな鍵のマーク。
クリックする。画面が切り替わった。黒を基調としたトップページの中央に、淡い文字が浮かんでいる。
――恋は記録される。
圭は、無意識に画面へ顔を近づけた。
匿名の投稿が並んでいる。
『約束を守らない人』
『優しいけど、本当の顔がわからなかった』
『最後まで謝らない最低な男』
どこにでもありそうな言葉だった。
だが、その中に一つだけ、圭の指を止める投稿があった。
『あの人は、自分では普通のつもりだったらしい』
「……」
理由は分からない。ただ、その一文だけが妙に引っかかった。
スクロールを続けるうち、投稿の末尾に添えられた短いタグが目に入る。
『#三十代 #IT系 #関西』
偶然だ、と思おうとした。だが指は止まったままだった。この条件に当てはまる人間など、いくらでもいるはずなのに、なぜか自分のことのように感じてしまう。
画面の右上にある鍵のマークを押す。黒いウィンドウが開き、IDとパスワードの入力欄が現れた。その下に、小さく表示された文字。
『新規登録』
カーソルを合わせる。
有料会員になれば、非公開の投稿が閲覧できるらしい。さらに詳しい記録。投稿された人物の情報。そして――実名。
圭の指が止まった。
もし、本当にそこまで書かれているのなら。もし、その中に自分の名前があったら。誰が、何のために書いたのか。考えるほど、胸の奥がざわついた。
登録すれば分かる。それだけのことなのに、クリックするのが怖い。
――カチャ。
「藤堂」
背後でドアが開いた。圭は反射的にパソコンを閉じた。振り返ると、小林部長が立っていた。
「まだいたのか」
「はい。もう少しで終わります」
「そうか。俺も戸締まりして帰るから、あまり遅くなるなよ」
「分かりました」
圭は何事もなかったように笑った。部長が離れていく。やがて足音が消える。
フロアには、また圭ひとりになった。
閉じたパソコンに手を置いたまま、しばらく動けなかった。
――あの鍵の向こうには、きっと何かがある。
だが、その何かが自分にとって必要なものなのかは分からない。
それでも、知らないままでいることの方が、もう怖かった。
圭は画面を開き直した。メールアドレスを入力し、適当なIDを作る。パスワードは、いつも使っているものとは違う、誰にも紐づかない文字列にした。
『登録が完了しました』
あっけない一文だった。それだけのことで、扉は開いてしまった。
検索窓が現れる。カーソルが点滅している。
何を打ち込めばいいのか、少しの間迷った。
やがて圭は、自分の名前を打ち込んだ。
藤堂 圭。
指がエンターキーの上で止まる。
このキーを押せば、匿名の誰かが自分について書いた言葉が、画面いっぱいに表示されるかもしれない。
息を止めたまま、圭はキーを押した。




