表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

異世界召喚は人事案件ではない

作者: 満月丸
掲載日:2026/04/12

※人体損壊などのグロテスクな描写があります。



 気づけば宇宙の只中で、ミイラのような女と相対していた。


 褪せた白銀の髪、目は落ちくぼみ、歪んだ風貌は生きているかどうかすら怪しいが、ギョロリとした瞳……輝く虹色の瞳が、こちらをしっかりと見つめていた。

 

 不意に、女の身体に何かが突き立った。

 黒い鎖――自分自身の胸から生えたそれが、女の心臓を貫くように刺さっていた。


 次の瞬間、女から一筋の光が漏れ出て、鎖を通じて互いを繋ぐ橋となり、相手は霞むように消えた。

 橋の向こうには、星があった。地球のような、しかし知らぬ形の星。


 ……背後は虚無、進むしか道はないらしい。

 いつの間にか、胸の黒い鎖がジャラジャラと前へ向かって進んでいき、星へと消えている。


 光の橋を渡る。

 一歩、歩く度に過ぎ去った足場が消えていく。


 黒い鎖を追いかけるように……あるいは、引きずられるように、橋の先へと足を踏み入れて、




 目眩のように足場が揺れたと思った瞬間、"戸沢 彰"は、見知らぬ広間の中央に立っていた。


 足元にはファンタジー作品にあるような、幾何学模様の魔法陣。馴染みのない中世風な、石と漆喰に囲まれた様式の内装。

 窓の外は暗く、微かに星が見える。夜のようだ。

 蝋燭だけが用いられる広間にて、前時代的な姿をした見知らぬ人々がざわめき、視線を向けていた。


 戸沢の正面には、一人の女が立っていた。


 赤を基調とした豪華なドレス、金色のティアラ。長い金の髪に、年頃であろう豊満な肢体。

 少女から脱したばかりの女性は、硬い表情で微笑み、戸沢へ話しかけた。


「初めまして、勇者トザワ様。私はこのクロウ王国の王女、ソラーレ・クロウと申します。どうぞお見知りおきを」


 深々と、戸沢から見れば異国の礼をする女。


 戸沢は静かに深呼吸しつつ眼鏡を直し、自分の身体をチェック。

 三十代後半のサラリーマンらしい背広に革靴、黒縁眼鏡、鞄は無い、スマホもおそらくない。

 淡々と現状把握している合間、女は喋った。


「トザワ様、貴方を私の伴侶、将来の王配として迎えます。私と子を成し、この国を救って下さいませ」


 唐突な宣言。それに周囲の人間たちが湧く。これで国は安泰だ、救世主が現れた、アベレスのご加護が通じたのだ、と。


 王配、伴侶、そう脳内で呟いてから意味を咀嚼し、戸沢は冷徹に言い放った。


「お断りします。私には妻と娘がいるので」


 その瞬間、間違いなく広間の空気が凍りついた。

 目の前の女、ソラーレ王女だけではない、背後に控える軍人も、近場の騎士も、ローブを纏った者たちも等しく戸沢を凝視していた。拒絶するとは思っていなかった、そう誰もが顔に書いてある。


 妻子を持つという男に、ソラーレは一拍置いてから、静かに口を開いた。


「……それは、失礼しました。ですが、もはや私共も手段を選んではいられないのです。だからこそ、こうして呼び出す形になりました。強引だったことは認めましょう」


 認める、という言い方に、戸沢は無意識に値踏みをする。

 謝罪はするが撤回はしない、後ろめたさはあるが引く気はない。手段を選ばず実利を取る、なるほど、王族と呼ぶに相応しい言動だ。


 ソラーレは一歩だけ近づき、真っ直ぐに戸沢を見上げた。


「ご家族の元へ帰す方法は、必ず探します。お約束しましょう。ですからどうか、」


「まず、現状の説明を」


 戸沢の声は酷く落ち着いていた。指を一本立てながら淡々と指摘する。


「なぜ召喚を行ったのか。なぜ私だったのか。ここはどこなのか。ここに滞在する場合の命の危険性はどこまであるか。それと、何故私の名を知っていたのか」


 その冷静な要求に、周囲がまたざわついた。異世界から呼び出されたばかりの男が、取り乱すこともなく情報の整理を求めているからか。冷静過ぎると思われたらしい。

 護衛のように傍に立つ将軍風の女が片眉を挙げ、背後に佇む金髪の青年は興味深そうに戸沢を見た。

 一方、その問いにソラーレは小さく頷いた。


「貴方を選んだのは女神アベレスです、召喚時に、アベレスは貴方の名を告げました。そしてここ、クロウ王国は貴方の世界とは別の場所、異世界と呼ばれる地です。古代の予言に準じてこの国を救うべく、貴方を勇者として喚びました」

「異世界……とは。いやはや、まるで夢物語だ」


 流石の戸沢も、女神だの異世界召喚だのを経験すれば戸惑いもする。

 眉を微かに顰める戸沢へ、ソラーレは説明を続ける。


「我がクロウ王国は現在、北方から迫る魔獣の脅威に晒されています。通常の軍事力では抑えきれない規模の侵攻が近づいており、古代の予言者が残した言葉に、縋る他なくなりました。『かつてない厄難が訪れし時、異界より招かれし者、王家の血と交わり、災厄は退く』――そう記されています」


 つまり、政略結婚の駒として呼んだということだ。しかも、既婚者を。

 戸沢は内心で侮蔑し、この国への感情値をゼロからマイナスへ振り切った。他人の人生を壊そうとするロクデナシ、そう評価した。


「貴方の安全は王家が保障します。命の危険に曝すつもりはありません。ただ、この国の次代の女王たる、私の伴侶となってくだされば宜しいのです」

「宜しい? 妻子持ちの男を拉致して不貞を強いる話を、ずいぶんと手軽に仰るものですね」

「……」

「王家の保障、ですか。便利な言葉ですね。他人の税金を用いて拉致の尻拭い、人生を壊す側は実に気楽なご様子だ」

「なんてことを……!」


 侍女が思わず声を上げ、はっと口を押さえた。


「失礼、耳障りでしたか。ですが、事実確認は必要でしょう」


 無礼と言える発言に、背後の女将軍の目が険しくなる。


「貴殿、口を慎め」

「慎むべきはそちらでは? 古代の予言という根拠のない一文だけで、縁もゆかりもない赤の他人、それも妻子持ちを誘拐し、不貞を強要するのがこの国のやり方である、と。そう仰ったのは、そちらでは?」

「貴様――!」


 将軍が一歩踏み出しかけたのを、ソラーレが片手で制した。


「おやめなさい。事実です」


 広間が静まり返る。


 ソラーレはしばらく黙り、頷いた。


「……おっしゃる通りです。弁解の余地がないことは、理解しています」


 その声は平静を装っていたが、袖の奥で手が震えているのが見えた。しかし戸沢には一片の痛痒も感じなかった。


「ですが、このまま魔獣の襲来を許せば、民に数万の犠牲が出ます。……それが、貴方へ何の言い訳にもならないことも承知しています」


 確かに追い詰められているのだろう、と戸沢は判断した。精彩の欠けた顔、絶望すら疲れに塗りつぶされたそれは、オーバーワークで疲弊する自分の会社の社員のようだ、と。

 そして、この女は自分が何をしているか理解しているのだ。理解した上で、なお実行した。国という利益のために他者を犠牲にできる胆力、なるほど評価はできる。

 だが、それは同情の理由にはならないし、攻撃を止める理由にもならない。


「予言とやらが外れた場合は? そのとき、貴国は私に何を返せるのです。仕事か、時間か、妻子との生活か。それとも、不貞の事実だけを土産に帰れと?」

「それは……」


 口籠る。そこまで考えていなかったという顔だ。

 おめでたい、と胸中で毒を吐いて話題を変える。


「私を帰す気があるのなら、今ここで帰還期限を設けていただきたい。帰る手段はあるのでしょう?」


 ソラーレの目がほんのわずか泳いだ。


「……わかりました、三ヶ月。三ヶ月以内に帰還の方法を見つけましょう」


 見つける、という言葉に目を細める。見つけたところで、帰す気があるかどうかは怪しいが。

 

「そうですか。では貴方と夜を共にするのは、帰還手段を発見してからにします。不貞など反吐が出ますが、帰れるというなら必要経費として処理します。犬に噛まれたとでも思って忘れましょう」


 何の感情もない声だった。侮蔑でも怒りでもない、ただ条件を提示しているだけの、事務的な口調。

 犬に噛まれた。

 王女を人間以下のものとして扱う比喩に、侍女は目を見開き、女将軍は不愉快そうに歯を噛み鳴らし、背後の青年は目を細め、兵士たちの表情が明確に強張った。

 ソラーレの頬にうっすらと朱が差したが、唇を震わせるだけ。


「……わかりました。それで構いません」

「この世界――魔獣とやらが存在するこの場所で、私が傷ついた場合、どのように補填されるおつもりか。最悪、私が死ぬことも予見できますが、その場合の再召喚は? まあ、私のような堅物よりも、もっと若い者でも拐かした方が手っ取り早いですよ。貴方は美人ですから応じる青年も居るでしょう」

「再召喚は……しません。貴方を勇者として喚びましたが、戦いに出る必要はありませんし、傷つくことも許しません。そのための護衛は最優先で手配します。……これは王命として発令されています。そうですね、レオナ将軍」

「左様でございます、ソラーレ様……ご安心を。貴殿の御身の護りに関しては、私が、直接指揮を執ろう」


 だが将軍の瞳はありありと戸沢への不審と、忌々しさに満ちている。わかりやすい御仁だ、と戸沢は思った。


「お部屋をご用意してありますので、少しお休みになられてください。アメリ」

「はい、トザワ様。アメリと申します」


 侍女の少女がそっと歩み寄って礼をする。


「お疲れでしょう? 少し横になられてはいかがですか?」

「そうします。なにぶん、徹夜の仕事帰りで疲れていますから」


 その一言に、アメリの笑顔がわずかに曇った。

 徹夜明けの仕事帰り。つまりこの男は、家族のいる日常から何の説明もなく切り離され、ここへ引きずり込まれたのだ。そう実感したのだろう。


「で、ではこちらへどうぞ。お食事もお持ちしましょうか」

「いえ、食事よりも睡眠が先に必要なので、結構です」


 アメリに案内され、戸沢は玉座の間を後にした。


 重い扉が閉まる直前、ソラーレはその背を見つめていた。青い瞳の奥にあるものが罪悪感なのか、焦燥なのか、戸沢は考えなかった。興味がなかったからだ。



◇ ◇ ◇



 夜の石造りの回廊に二人の足音が響く。高い窓の外には、見たこともない模様の月が昇っていた。

 アメリがちらりと戸沢を窺う。


「あの、ひとつお聞きしてもよろしいですか? トザワ様のお仕事って、何をされていたんですか?」

「人材経営です」

「じんざいけいえい……?」


 聞き慣れない言葉にアメリは首を傾げる。


「えっと、人の管理をされるお仕事、ということでしょうか?」

「まあ、そうです」


 噛み砕けば間違ってはいない。ただし、管理という言葉で表現できるほど甘い仕事ではない。人の適性を見抜き、「未来に投資する人」と「今日を回すために削る人」を仕分け、搾取と労りを使い分けて組織を最適化する。戸沢はそういう仕事をしてきた。


 戸沢彰はブラック企業の人事部長という肩書を持つ『人でなし』である。人材を適切に配置・消費することに関して上役から任されているエリート。誰に対しても慇懃無礼で、嫌がらせには倍の報復を課し、さりとて上役への心象を良くする立ち回りを得意とする。

 職場では腹黒悪魔、陰険眼鏡、業務アンドロイドと散々な言われようであったし、それ相応の態度を取ってはいる。


「すごいですね、偉い方ということですか? ……あっ、ここがお部屋です!」


 案内されたのは城の東棟にある客室だった。広い寝台に暖炉、小ぶりだが上質な調度品。来賓用なのだろう、贅沢ではないが不足もない。

 アメリはランプに火を灯しながら言った。


「何か足りないものがあれば、遠慮なく仰ってください」

「ありがとうございます」


 戸沢が短く礼を言うと、アメリは少しだけ目を丸くした。もっと刺々しい返事を想像していたのかもしれない。

 扉を閉める直前、彼女は何か言いたげに振り返った。だが結局、そのまま去っていく。


 一人になった部屋に、夜風が忍び込む。月の光が窓から差し込み、床に奇妙な模様を落としていた。遠くで鐘が鳴っている。規則的で、どこか牧歌的な音だった。


 戸沢は背広の上着を脱ぎ、クローゼットに掛けた。ネクタイを外して椅子の背に掛け、眼鏡を外して眉間を揉む。

 ようやく、ほんの少しだけ疲労が出た。


 三ヶ月。帰還方法の発見までの猶予として提示された期間だが、所詮は口約束で、信用には値しない

 机には羽根ペンとインク壺、そして一枚の紙が置かれていた。


『何かご入用の物がございましたら、ベルをお鳴らしください。 アメリ』


 下手ではないが、飾り気のある文字の脇に小さな花の絵が添えられている。

 戸沢は一瞥し、それ以上の感想を抱かなかった。


 今は疲れている、眠るべきだ。

 ただし、無防備には眠る気はない。


 部屋の入口まで歩き、小さな椅子をひとつ引きずって扉の前に置く。誰かが入ろうとすれば倒れて音がする、簡易的な警報だ。見知らぬ城で王女に婚姻を迫られた直後に、何も警戒しないほど戸沢はこの国を信用していない。

 革靴を脱ぎ、眼鏡はサイドテーブルへ。だが完全にはくつろがず、いつでも動ける格好のまま寝台に横たわる。

 枕から、知らない花の匂いがした。


 眠る間際、家に居るであろう妻と娘の顔を思い出していた。



◇ ◇ ◇



 翌朝、鐘が城に響いた頃、戸沢は目を覚ました。

 扉にノックの音が響いたからだった。


「トザワ様、王女様がお見えです。入ってもよろしいですか?」


 扉越しに聞こえたのは昨日の侍女、アメリの声だった。


 王女が、自分から来た。


 戸沢は寝台の上で一度だけ瞬きをした。昨日のやり取りで精神的に追い込まれていた相手が、わざわざ翌朝すぐに足を運ぶ。何かあったか、あるいは何かする気か。そのどちらかだ。


「少しお待ちを」


 平坦な声で短く返し、まず眼鏡をかける。ネクタイを締め直し、背広を羽織る。

 人と交渉する顔、疲労も苛立ちもすべて引っ込め、いつもの無感情へ戻す。最後に扉の前に置いておいた椅子をどかし、ようやくノブに手をかけた。


 扉の向こうには二人が立っていた。


 アメリは盆を抱え、朝らしい柔らかな笑みを浮かべている。その半歩後ろに、ソラーレがいた。昨日より顔色が悪い。白い肌の下に薄い隈が落ちている。眠れなかったのだろう。


「おはようございます、トザワ様。お食事をお持ちいたしました!」


 盆の上には湯気の立つスープと焼きたてのパン、それに見慣れぬ果実がひとつ。香草の匂いが部屋にふわりと広がる。

 アメリが喋り終えるのを待ってから、ソラーレが一歩進み出た。


「朝早くに申し訳ありません。少し、お話ししたいことがあります。……中に入っても?」


 今度は命令ではなく願いの形だった。

 寝起きの異性の部屋へ入ろうとする相手に、内心で嫌悪感を抱く。しかし断るのも面倒だと、平坦な声で言う。


「食事をしながらとなりますが、それでも?」

「構いません」


 アメリがテーブルに食器を並べ、彼女は壁際へ下がった。

 戸沢は席につき、スプーンを手に取る。見知らぬ世界の料理を口にすることにためらいはなかった。毒が入っている可能性もあったが、気にしていたら生きられない。妥協だ。


 向かいの椅子に腰を下ろしたソラーレは、膝の上に一冊の古びた本を抱えていた。

 背表紙には異国語だが、『古代魔術概論』と記されているのが読めた。まるで魔導書のような革表紙の装丁。


「昨夜、帰還について調べました」


 その言葉に説得力を与えているのは、本よりもむしろ彼女の目の下の隈だった。

 戸沢は無言でスープを啜った。続けろ、という意思表示としては充分だった。


「結論から申します。我が国には異世界召喚術が存在しますが、それと対になる送還術はありませんでした。しかし、古代の文献には確かに異世界への送還術が存在しました。これを解読し、術として成立させるための魔術学者がこの国にいません。隣国に、一人だけ心当たりがあります」


 ソラーレは戸沢を見たまま続けた。


「早馬で書簡を送れば、返答に二週間。術者の派遣にさらに二週間。……最短で一ヶ月半。送還術をこの国でも使用できるように手配します」

「そうですか」


 戸沢は、それだけ言った。喜びも安堵も礼もない、淡々とした一言が、パンをスープに浸しながら発せられる。

 それにソラーレの表情がほんの少しだけ止まった。


「……早急に書簡を出します。必ずや送還術を完成させてみせます」


 誠実な言葉だが、戸沢には別の意味に聞こえた。


 本当に帰す気があるのなら、確かに夜を徹して本を漁り、書簡を出すのはその気があると言える。誠意とも言える行動は、しかし単に指摘されるまで見ようとしなかっただけ、とも言える。

 気にもしていなかった、帰す気などなかった。

 召喚時はそういう意図だったということだ。帰してほしいと泣きわめいたところで絆してしまえばいい、こちらを蔑ろにしていた考えだったと告げている。

 なるほど、と戸沢は思った。野蛮人が、と。

 

 そんな思考の外から、壁際のアメリがそっと言った。


「王女様、昨日はお休みになってないんですよ。魔術師たちと一緒にトザワ様の為に夜を徹して探しておりました」

「アメリ」


 制止の声は鋭かったが、否定はしない。


「そうですか」


 二度目の、同じ返答。

 他者の献身が何一つ響かない人間はいる。戸沢はまさにその種だった。


 気まずい沈黙が落ちる。スープの湯気だけがゆるく立ち上る。


「……他に、何かご要望があれば」


 絞り出すようにソラーレが言った。

 もう手札はない、という響きがあった。


「ああ、その本、読んでも宜しいですか? 帰るまでの暇つぶしにはなりそうです」


 戸沢が指さしたのは、王女が持ってきた魔導書だ。

 ソラーレは戸惑うように瞬く。


「構いませんが……トザワ様は魔術が使えるのですか?」

「いいえ、私の世界に魔法は存在しません。空想上の理論でしかなかったので、それが実在するこの世界の法則に興味が湧きました」

「なるほど……でしたら、基礎的な魔導書を運ばせましょう。帰還の日までの余暇を楽しんでいただければ」

「そうですね」


 冷めた返答、礼もなく当然の要望だと言わんばかり。

 そこで見かねたように、アメリがぱんと手を叩いた。


「あっ、そうだ! トザワ様、今日はお城の中をご案内しましょうか? ずっとお部屋にいても退屈でしょうし」


 露骨な話題転換だったが、悪くない。


「そうですね。異文化交流だと思って異国にいると考えれば、気が紛れます」


 実際は、少しばかり牽制してやろうか、という意図しかないが。

 戸沢が答えると、アメリの顔がぱっと明るくなった。


「よかった! じゃあ王女様もご一緒に――」

「……いえ、私は執務がありますので」


 ソラーレは少しだけ戸沢を見てから立ち上がった。まるで逃げるように。これ以上この場にいて、また『そうですか』と返されるのが怖かったのかもしれない。

 彼女は一礼すると、足早に部屋を出て行った。



◇ ◇ ◇ 



 城内は朝の活気に満ちていた。

 兵士が行き交い、使用人が洗濯籠や書類の束を抱えて足早に通り過ぎる。すれ違う者たちは皆、アメリに軽く頭を下げ、その隣を歩く見慣れぬ黒服の男へ視線を向ける。


「あれが噂の……」

「異世界の来訪者だとか、どんな人物だか……」

「胡散臭いな……」


 囁きが廊下に散る。異物を見定めようとするかのような、人の視線。

 しかし戸沢は気に留めない。まるで役員会へ向かう企業幹部のように背筋を伸ばし、颯爽と歩く。中世ファンタジーの石造りの建物と、仕立ての良いスーツが異様なほど馴染まない。だがその不釣り合いさが、逆に異物感を上昇させている。


「……トザワ様、ここが中庭です」


 外へ出ると、朝の光が石壁を白く照らしている。

 手入れの行き届いた庭園だ、噴水があり、花壇が整然と並び、奥には馬場も見える。庭師が丹精込めて作った作品なのだろう、城内の憩いの場と呼ぶに相応しい光景だ。


 その穏やかな景色の端、木陰のベンチに一人の青年が座っていた。年齢は十代だろうか、あの召喚の部屋に居た人間の一人だと戸沢は気づいた。

 金髪で軽薄そうな笑みを浮かべた青年は二人に気づくと、口いっぱいにお菓子を頬張ったままひらひらと手を振った。


「あ、姉上の婚約者殿だ。おはようございます!」


 戸沢は無言でアメリを見る。

 アメリは苦笑し、小声で説明した。


「ソラーレ様の弟君で、王子のミケラ様です。……あの方は、いつもあそこでサボっていらっしゃるんですよ」


「聞こえてるよ、アメリ。サボりじゃなくて休憩さ」


 ミケラはクッキーの最後の一口を飲み込むと、ベンチから立ち上がり、物怖じする様子もなく戸沢へ近づいて来る。

 軽い調子だが、戸沢は相手の目が笑っていないことに気づいていた。


「姉上と昨日やり合っていたのは、よく覚えてますよ。貴方、面白い人ですねぇ。明らかに上位者とわかる相手にあんな口を利いたら、牢屋行きになると考えなかったのですか?」


 けらけらと笑うが、次の瞬間、声音が少しだけ低くなる。


「姉上、今朝はひどい顔をしてました。貴方のせいじゃないですけど……ちょっとだけ、気にしてあげてもらえると嬉しいかな」


「お断りします。私にメリットがない」


 文字通りの一蹴。

 きょとんとしてから、ミケラは声を上げて笑った。


「あはは! メリットときたか! いいですね、そういうの」


 本気で愉快そうだった。

 この城では珍しいのだろうか、感情でも建前でもなく、損得をそのまま口にする人間が。


 ミケラは笑いを収めると、ふらりと戸沢の隣へ並んだ。目は獲物を見定めた猫のように眇め、口は楽しげに弧を描いている。


「まあでも、一つだけ。……あまり強烈な言葉ばかりを言っていたら、居心地悪くなると思いますよ。レオナ将軍が貴方を見張っている。あの人は姉上の忠臣だから、王配となる貴方は監視対象だ。気をつけてくださいね」

「王配? お断りしたはずですが」


 戸沢の声は冷え切っていた。

 アメリがびくりと肩を震わせつつも、必死に言う。


「あの、予言がトザワ様を選んだので……周りはそう見てしまうんです。形式上の話であって、必ずしもというわけでは……」


 取り繕う言葉が何の救いにもなっていないことを、アメリ自身もわかっているのだろう。声は震えて縮まっていく。

 周囲の圧力というものは個人の利益を容易に捻じ伏せる、それは戸沢もよく知っている社会の摂理だ。現状、あの王女が帰す方法を見つけると誓った以上は、しばらくは王配にはされないだろうが、いつそれが覆されるかわからない状況だというのは、今の会話で理解した。

 王女だけでは限界がある。ならば、瑕疵でも作ってやろう。


 戸沢が視線を巡らせば、中庭に面した回廊の柱の影から、一つの視線がこちらを射抜いていた。

 甲冑に身を包んだ精悍な女性、将軍レオナ。王子と話している異邦者が気になるのだろう、お世辞にも好意的とは言い難い雰囲気だった。

 戸沢はその視線を受け止めたまま、ためらいなく歩き出した。


「トザワ様……!?」


 アメリが小走りで追う。

 カツカツと足音が響けば、使用人たちが動きを止め、庭師の手が止まり、見えない糸で引かれたように周囲の視線が集った。

 レオナの前に立った戸沢は、相手を見上げた。


「……何だ」


 怪訝そうな、されど嫌悪を隠さない女将軍の低い声が落ちる。

 そんな相手へ、戸沢は無機質な声で宣った。


「改めて宣言しておきますが。私が世界で唯一愛するのは妻と娘であって、貴方がたの王女ではない。私は彼女を愛する気はないし、たとえ帰れなくとも絶対に愛することはない」


 中庭が静まり返る。


「王配になるくらいなら命を絶って死にます。私はこの国の人間ではないし、本来、私を誘拐した貴方がたに協力する道理などないのだと、肝に銘じておいてください。……ああ、殺したいのであれば、いつでもどうぞ。古代の予言などという代物は眉唾で、それに伴う損失は全て無駄だった。そう結論付けられる行為ですが」


 完全な静寂が落ちた。ミケラは値踏みするように目を細め、レオナの口端が強張る。怒るべきか、斬り捨てるべきか、それとも呆れるべきか。判断がつかない様子だ。


「……貴様」


 ようやく出たのは、それだけだった。

 ここで戸沢を切り捨てるのは容易い。しかし王命が、それを防いでいる。

 それをよく理解しているのだろう、将軍は今にも縊り殺しそうな顔をしてから拳を握り締め、踵を返した。

 それを見ていたアメリは、微かに声を震わせた。


「な、なんで……なんであんなこと……」

「私はこの国に貢献する義務も義理もありません。国民でもないので、貴方がたには膝をつく道理もない。帰還と引き換えに性交渉を強要されているだけの被害者です。気色の悪い不貞を強要する相手を好きになれるほど、変態でもありませんから」

「不貞の強要なんて……そんな、王女様はそんなつもりじゃ」


 言いかけて、止まった。

 反論できる材料がないのだろう。どれほど言葉を柔らかくしても、やったことは変わらない。


「……ひどい」


 震える、掠れた声だった。

 が、戸沢はやはり一蹴する。


「誘拐犯とその一味に酷い事を言って何が悪いのです? まさか笑顔でありがとうと言われると、本気で思っているのですか? おめでたいですね。……私へしたことを棚上げして被害者ぶるなよ」


 その一言が、アメリの体を打ち震わせた。

 彼女は口を開いたが、声にならなかった。数歩後ずさり、そのまま小走りで城内へ消えていく。

 それを無感情に見送ってから、戸沢もまた部屋へと戻るべく足を向けた。その背に、冷たい眼差しが刺さっていることには気づかずに。


 瑕疵という火は点いた、戸沢は王配にするには問題があると認識される。監禁の形を変えられる可能性はあるが、王女が動いている間は少なくとも表立って害されはしないだろう。

 これで時間は稼げる。そう、淡々と処理した。



◇ ◇ ◇



 戸沢はほとんど外へ出なかった。外へ出ることのリスクを考えれば、部屋に籠もっている方がまだ安全だ。

 食事や着替えは扉の前に置かれたものを回収し、トイレと入浴のときだけ部屋を出る。それ以外の時間は窓辺の机に座り、ただ帰還の日を待ち続けながら、書物を読み込む。

 戸沢が何の本を読んでいるかと言えば、魔導書だった。


「古代魔術……やはりそうか、私には理解できてしまえる」


 部屋に運ばれた無数の魔導書。その内容を日本語のように理解でき、不可思議な記号の意味すらも自動で翻訳されてしまう。ソラーレが持ってきた魔導書の表紙を見て、何故か異国の言葉が理解できた時点で薄々は察していたが。


 なぜこんな不思議なことが起こったのかを考えれば、召喚当日のあの宇宙のような光景が脳裏をよぎる。

 ミイラのような、法衣を纏い、白銀の髪を揺らす虹色の瞳の女。

 それは、古文書の中に正体が書かれていた。


虹橋神(こうきょうしん)アベレス――虹色の瞳と白銀の髪を持つ、美しい女神……」


 この世界の創造神の一柱として記されている女神と、あのミイラのような女は同一なのだと戸沢は察した。外見が変わり果てているが、橋が彼女から作られたことと、虹色の瞳と髪色の共通点からそう察する。

 アベレスは架け橋の女神であり、異世界よりこの世界へ様々な生物を連れてきたという。同時に、彼女の力が弱まると魔獣という存在が異世界から入り込んでくる。

 異世界召喚術もまたアベレスの管轄であり、アベレスの橋を渡る者は何かしら、不思議な力を得るという。だからこそ、被召喚者は勇者と呼ばれた。


 同時に、戸沢は疑問に思った。

 何故、女神らしき女はあのようなガリガリだったのか。まるでブラック労務による過労と栄養失調で息絶える寸前のようだ。


「…………、鎖……?」


 戸沢の胸から出ていた黒い鎖は、この世界へ繋がっていた。あれは召喚術で引っ張られる拘束用の鎖のような物だったが、直前にその鎖が女神に突き立って、橋となった。


 まるで、攻撃しているかのような。


「…………」


 召喚術、それはひょっとして、何か大きな負担を強いている代物かもしれない。

 戸沢はそう理解した。



 アメリは食事を届けに来るたび、何か話しかけようとしては口を閉じた。それを何度か繰り返したが、戸沢は気にも留めない。魔術理論を解き明かし、それを自ら実践できるか試すことを優先していた。


 戸沢は魔術の研究と研鑽に走った。アベレスのおかげか、この世界に存在する魔力と呼ばれるエネルギーを知覚し、操ることができるようになったのは僥倖だった。

 魔術書を教科書にし、基礎から一つずつ積み上げていく。最初は失敗して床を燃やしかけたりしたが、術式を修正して積み上げていくうちに魔術の成功率は安定し、扱える幅も広がっていく。特に、収納を可能とする空間魔法や、姿を消す影魔法は便利だ。早々に習得した。

 魔法が使える感動はない。ただ必要だから習得するという打算だけが動いている。殺される可能性を考えれば、惰性で過ごすよりも魔術の習得に走る方が合理的だ。

 異常な習得速度から考えるに、おそらくアベレスが与えた不思議な力は魔法関係のようだ。これで何をしろというのか、戸沢は少しだけ考え、魔導書を捲って目を細める。

 古代魔術の不気味な文言に、戸沢は一つの案を脳裏で描きつつあった。



 ……そして一ヶ月が経過し、戸沢はソラーレに呼び出される。



◇ ◇ ◇



 大広間に入ると、ソラーレが座していた。以前と同じ赤を基調とした正装に、表情は王女として完璧な微笑みが浮かんでいる。隣の玉座は空白で、そこに座るべき国王は不在のようだ。健在らしいが、顔を出す気はないということか。


「お越しいただき感謝します、トザワ殿」


 戸沢は後ろに両手を組んだまま、動かなかった。膝などつく筈もない。

 文官の一人が咳払いをしたが、ソラーレは手で制した。


「構いません」


 広間が静まる中、ソラーレは玉座から立ち上がった。


「本日は公式の場として、先日の件について私から申し上げることがあります。貴方に対して行ったことは、この世界の道理であっても正当化できるものではありません。王家を代表して謝罪しましょう」


 広間の空気が苦いものへと変わる。王女が頭を下げたのだから当然だが。


「その上で、貴方様にお話すべき事がございます。帰る方法を探すこと、これは王家の責務として約束しました。その結果です」

「では改めてお尋ねしますが、帰れるのですか? 五体満足で」


 戸沢の急な言葉に幾人かが眉をひそめた。王女の言葉を遮るという不敬だが、王女はそれを窘めなかった。


「現在の記録では、送還術の成功例はありません。発見した古代の送還術の魔術構成は今現在も解析中ですが、術の構成が逆召喚以上に複雑で――」


「結論だけをどうぞ。それとも、指摘しましょうか? 前例のない魔法を行使することで私が死ぬリスクは排除できない、と」


 当然と言えば当然の話だ。ほとんどが未解明だった送還術を理論として作り上げはしたが、それを実践するには異世界人が必要。つまり戸沢が実験体第一号となる。


「送還の際に、私は四肢が消えたり、頭と胴が分かれたりするかもしれない。そういう未知の、安全性も何もない術で貴方がたは私を送還し、私がどうなっても保証はしない、と。いやはや、素晴らしいですね」


 戸沢は、ぱちぱちと拍手した。乾いた音が大広間に反響する。


「人でなしとは、まさにこのこと。まるで悪魔のような所業です」


 わかっていた事を、殊更にねちっこく言い含めて指摘する。誰もが嫌悪感を覚えるようなやり方だ。

 ソラーレは歯を食いしばったが、反論は出来ない様子だ。


「……その通りです。現状、安全な送還を保証できる段階にはありません。そして送還術を発動するには、素体……人の肉体を、用意せねばなりません」


 人体の必要性、その言葉に空気が少し冷える。


「まずは術式の研究を最優先で進めます。貴方が帰れる形まで、どれくらい掛かるかはわかりませんが……」

「その期間は? 目算は?」

「……現状、目処が立っておりません」

「では、いつ頃ならば目処が立つのでしょうか?」

「……決まっておりません」


 つまり、こういうことだ。

 目処すら立たない研究が終わるまでは帰れない、或いは、最初から帰す気がない。王女の意思ではないだろうが、上はそう判断している。


「……何か、他に望みはありますか」

「そうですね、送還術の理論書を、写本で構いませんので頂きたい。お守り代わりにはなるでしょう」


 戸沢はそれだけ言って、踵を返した。もはや話を聞く益が見いだせない。


 しかし異世界とは厄介なものだ。

 先の展望が見えない。自殺するのも手だが、無意味に死ぬのは困る。妻子に再び会いたいから、安易に死ぬことはできない。

 そう思った時、


「あはは、随分と大胆ですねぇ」


 視線をやれば、そこにはミケラがいた。

 軽薄そうな彼はニコニコと笑いながら近づく。


「姉上もお優しいからね、やっぱり貴方みたいな人には誠意なんて届かないんだよ。だから平然と、そういう無礼な発言ができてしまえるんだ」


「何を、おっしゃりたいので?」


 戸沢の無表情を見ながら、ミケラは笑う。

 邪悪さを現すように顔を歪め、戸沢へ指をさす。


「実はね、また召喚の儀式を始めているんだよ。来年には召喚ができると思う。送還は出来ずとも召喚は今まで通り、出来るものだから。貴方の代わりに誰かを呼ぼうと思うんだ」


「そうですか」


 哀れな人間を呼び出し利用する、それがここのやり方だ。今更ながら驚くことではないし、戸沢にとってはどうでもいいことだった。


 だが、次の一言は聴き逃がせなかった。



「次はね、貴方の娘さんを呼ぶことにしたよ」



 戸沢は、目を開く。


 初めて変わった表情に、ミケラは笑った。


「ようやく見せてくれたね、貴方の素顔。でも、こうなっても仕方ないよね? 王族への度重なる不敬罪、国を侮辱する発言の数々、むしろ手足をもいで幽閉しないだけ優しいと思わないかい?」


 王子の笑みは、人でなしの笑いだった。戸沢と同じような、他人の痛みを無視できるタイプの顔。


 ミケラは近づき、警告するように言う。


「大人しくしていたほうがいいよ、ここは貴方の世界じゃない。貴方は自分だけが犠牲になると思っているようだけど、人質なんていくらでも用意できるんだよ」


 ぽん、と肩に手を置いた。


「身の程を知りなよ」


 離れて王女の元へ向かうミケラ。ソラーレは弟へ渋い顔をするが、王子はただ笑顔で姉の元へ行く。

 戸沢はゆっくりと首を巡らせて、姉弟を視界に入れて、口端を歪め、



「――――」



 そして、無言で立ち去った。



◇ ◇ ◇



 部屋へ籠もった戸沢は、既に脳裏で現状改善案を弾き出していた。


 送還術の術式が記された書を片手に、その内容を自分で解析する。あの場で自分で研究すると言い出せば、利用されるだけだと思った。だからここで人知れず研究するのだ。


 この一ヶ月で、戸沢は城の者たちが予想もしない域にまで魔術を理解し、行使できていた。

 これがアベレスの仕向けた事なのだとすれば、実に最適な人材と能力配置だと戸沢は内心で称賛する。管理職として参考にしたいと思うほどだ。


 更に送還術だけでなく、予言に関する文章も取り寄せ、それに纏わる情報も集めていく。王家と異世界人の血の交わり、その文言に違う意味を持たせられるのではないか、と以前から考えていたのだ。


 異世界人というのは、確かにこの世界で交われば特異な才能を呼び起こす存在らしい。今までも被召喚者の子孫らに英雄と呼ばれる才能を持つ人間は居たし、愛の力とやらで……まあつまり交わることで不可思議な力に目覚めたという事例がある。

 今回の予言は後者で、ソラーレに目覚めてもらうことを目的としたのだ。


「交わり、子孫……血液や身体の一部を埋め込むことでも、それは発現するのだろうか?」


 なんとも悪魔のようなことを考えながら、思考を続ける。

 

 それらは物理的な注入でも可能なのか? 

 異世界人とこの世界の人間、双方の血が直接交わるだけでも発生し得るのか。

 血液型どころか細胞すら違う可能性がある相手へ、その血を血管に流し込んだとしたら死ぬ可能性が高いだろう。

 予言とやらのせいで引きずり込まれた戸沢は、意趣返しとして、その予言を最悪な形にしたいと思っていた。


 現状の解決策を考えていた戸沢は魔導書を捲る。以前から気になっていて、かつ現状を打開できる可能性を秘めていると評価していた術があった。


 それは、死霊術。

 死者を素体とし、魂を操り、肉体を繋ぎ合わせて作る禁忌の技法。


 自分が送還されるには、特定の波長を持つ魂とそれが収まる身体が必要だと、送還の書には記されている。

 では死体のキメラを作り、特定の波長を持つ魂を詰め込み、調整できるなら。

 自分を送還する器を、自作できるのではないか。


 その発想に、倫理的な逡巡はなかった。


 死霊術は禁術に指定されていたが、これを使えば全ての問題が解決する。生きた人間では問題だが、死んだ人間に尊厳はない。

 直接的な殺しだけはしない――その一線だけは、戸沢の中に残っていた。無意味な殺人はリスクに見合わないし、なにより妻が悲しむ。だからやらない。

 戸沢は殺害ではなく、合理的な手段、既にある死体を再利用することにした。



 深夜、月が雲に隠れた頃合い。

 影が廊下の壁を滑るように移動していた。音を立てず、姿を魔法の影に紛れさせ、見張りの隙間を縫って地下墓地へと入り込む。隠密の魔法を最優先で覚えたのは正解だったようだ、と戸沢は思った。


 真っ暗な闇の中、魔法で光を作り出した戸沢は、地下墓地の石棺の山を前に頷く。

 これだけあれば、キメラの素材には十分だ。


 無造作に両手を掲げ、初めて行使する死霊術で空中をさまよう無数の魂を捕まえ、保存する。

 更に空間魔法で石棺のめぼしい死体を包み、収納した。


 地下墓地で吟味を終えれば、部屋へ戻って業務だ。


 外からの視線を遮るカーテンを閉め、防音結界を張り、古びた骨や、最近死んだと思わしき遺体を床へ並べる。

 そして捕獲した魂を、見えないメスで切り分けるように魔術で一つずつ分解し、かけ合わせる。

 同時に仮説への実験として、戸沢は自らの血を、死んで間もない遺体に注入してみた。結果、死体にも関わらず硬質化、肥大化などの魔術現象が発生した。

 なるほど、血液でも成立するのか。これは使えるな、と戸沢は思いつつ、死体のキメラ化を続ける。


 無数の魂をかけ合わせて特殊な波長を作り出し、幾つかの死体の組み合わせをメモしながら、数日をかけて作り上げた素体。

 死霊術を行使すれば、虚空へ浮き上がった骨に黒い光が纏い付き、偽りの肉が張り付いていく。

 人としてはどこかがおかしい顔、デコボコとした身体、雌雄すら無関係に継ぎ接ぎ合わせた形状。

 されど、これだけでは器にならない。中に偽りの魂を定着させなければならない。

 死霊術の詠唱が響けば、収まった魂が暴れるように身体を痙攣させたが、直に静かになった。

 

 戸沢は、完成した器に送還術の素体としてのマークを付ける。

 皮膚表面を覆うように呪印を刻めば、起動するだけで虹橋神アベレスへ呼びかけ、帰還の道を開く。

 これで五体満足で帰れるという保証はないが……無いよりはマシだ。


 その気になれば、いつでも帰れる。

 だが、帰る前に、やることが残っている。


 戸沢は久方ぶりに部屋を出て、城内を出歩くことにした。



◇ ◇ ◇



 城の中庭を歩いていれば、報告を聞いてきたのか王子ミケラが顔を見せた。屈託のない、腹を読ませない顔だ。


「姉上の婚約者殿。こんなところに居たんですか」


 あのような事を宣って、よくもまあ平然と話しかけられるものだ、と戸沢は思う。人のことを言えないという自覚はない。

 相変わらずな戸沢へ、ミケラは目を細めて探りを入れてくる。


「最近、姿を見かけていなかったけど、何をされていたんですか? 魔導書を片手に研究なんて貴方の柄じゃないでしょうに」

「魔獣、でしたか。北方から来るという大侵攻はどうなりましたか」


 質問に質問で返してはぐらかされたことに、ミケラは一瞬だけ目を細めた。


「ああ、北方ですか。相変わらず魔獣共と小競り合いが続いてます。レオナ将軍が兵を三千送りましたけど、前線は膠着状態。魔獣って厄介なんですよねぇ、普通の武器が効きにくいやつがいて」

「魔獣が増えているのは、ここ百年の間ですか?」

「え? ええ、まあ」


 異世界召喚術が発見され、頻繁に利用されるようになったのは、百年前から。前回の勇者は十年前、十代の少年だったらしいのだが、彼は魔獣との戦いで命を失っている。今回ほど大規模ではなかったらしいが、死なせた当時の人間は何を思ったのか。

 なるほど、と戸沢は淡々と事実確認だけをした。

 一方、ミケラは少し不快げに鼻に皺を寄せる。


「……ねえ、なんでそんなこと聞くんですか? 前線に出ない貴方には関係のないことでしょう」

「興味が湧いただけです。私が食い殺されるのはごめんですので」


 ふうん、とミケラは笑った。


「そういえば父上――陛下がね、そろそろ異世界人の"お披露目"をしろって言ってるんです。民衆に予言の存在を示して士気を上げたいんだとか」


 ぴくり、と戸沢のまぶたが痙攣する。

 お披露目、オブラートに包んでいるが実態は婚姻の発表だろう。


「姉上は反対してるんですけどね。まだ早い、と。でも陛下の命令には逆らえない、国王の王命は絶対ですから。明日、貴方の姿を見せるそうです」


 つまり明日、戸沢は民衆の前へ引きずり出される。

 ソラーレは時間を稼ぎたいようだが、この"国"という群体はソラーレの約束も戸沢の要望も、無視することにしたようだ。


「ま、覚悟だけはしといた方がいいですよ、もちろん拒否すれば……どうなるか、わかっているよね?」


 相手の挑発は無視して、戸沢は無言でミケラに背を向けた。背後でミケラが笑っていたが、これ以上の会話の必要性を感じなかった。


 ……そして、その思考は非常に物騒な方向へ進んでいる。


 王家の血、異世界人の血の交わり、異世界召喚と、娘という人質。

 それを、全てぶち壊す改善案。

 その案は報復であり、そして最も効率的な問題解決案でもあった。


 戸沢は、この世界を軽蔑していた。憎んでいるといってもいい。

 可愛い盛りの娘との時間を奪われた。愛しい妻と何ヶ月も会えない。不貞まで強要された。人質に取ると明確に脅した。

 断じて許せることではない。


 だからこそ、帰る手段を得た今なお、居座る理由が生まれていた。

 そう、報復だ。

 日本で嫌がらせをされたのならば、証拠品に付着していた指紋を自ら採取して犯人を割り出し、当人の机にそれ以上の物を仕込む程度はやっていた。だがここでの所業は、そんな程度で収まるものではない。

 二度と異世界人を誘拐し、自分たちの尻拭いをさせないようにする。その甘ったれた、クソガキのような発想そのものを踏み潰す。


 感情的な復讐ではない。


 これは、このふざけた社会構造への、破壊行為だ。



◇ ◇ ◇



 深夜二時、闇に覆われた城は寝静まっていた。


 使用人も衛兵も、最小限が息を潜めるように動くだけで、ほとんど人の出入りがない。

 それでも最新の注意を払い、戸沢は風魔法の浮遊で足音を殺し、影魔法で姿を消す。

 事前の空間魔法の調査で、ミケラの部屋は三階東棟にあると知っていた。

 扉の前で立ち止まり、魔法が錠前を探る。構造は単純で、数秒で開いた。


 月明かりが差し込む室内。天蓋付きのベッドの真ん中で、ミケラは仰向けに眠っていた。布団を蹴飛ばし、枕を抱きしめている。王族にしてはひどく子供じみた寝相だった。


 無造作に、眠りの魔法を重ねる。

 通常の睡眠に加え、術による深い昏睡。意識の浮上を許さず、呼吸を阻害せず、痛覚という警告すら麻痺させる。

 これで、目を覚ますことはない。


 浮遊でミケラの身体を持ち上げる。

 そのまま窓から滑空するように着地して、地下墓地へと辿り着く。見張りの兵士も、影に隠れた姿を見ることは叶わない。


 地下へ降りれば、音は漏れない。

 ミケラは静かに眠っている。

 起こすのも哀れだ、眠ったままの方が慈悲深いのかもしれない。

 少なくとも、恐怖に泣き叫ぶ時間はない。


 そう淡々と思いながら、地下墓地の冷気が二人を包み、重い扉は閉ざされた――。



◇ ◇ ◇



 翌日、王都では「予言の者」のお披露目が行われた。


 バルコニーに立つ戸沢の眼下には、王都が広がっていた。通りには人の波、色とりどりの旗が揺れ、無数の視線がこちらへ向けられている。

 ようやく戸沢の前に姿を見せた国王が、高らかに声を張り上げた。


「彼の者こそが予言の者、トザワ殿である!」


 歓声が上がる。

 その音は波のように押し寄せ、石壁を震わせた。民衆の顔には期待や困惑、さまざまな感情がない交ぜになっている。


 群衆の中で、ミケラを探す者は見当たらなかった。

 サボり癖のある不真面目な王子が、式典を欠席することはよくあることだった。

 彼の側近達が血眼になって探しているが、大多数の王城の者は"例の持病"が出たのだと認識している。

 実に、都合がいい。そう戸沢は思った。

     


 民衆の次は、貴族相手のお披露目だ。


 大広間は金と貴族の海だった。天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアが蝋燭を揺らし、貴族たちの衣装に綺羅びやかな輝きを添えている。

 玉座のある壇上から、国王が重々しく口を開いた。


「我が娘ソラーレと、予言により召喚されし異界の者――トザワ殿との婚姻をここに宣言する」


 拍手は疎らだった。「おお」という声もどこか空虚に響き、すぐに扇の陰でのひそひそ話に取って代わられた。戸沢の数々の無礼な発言や行動は、彼らの中でも噂になっているのだろう。

 ソラーレが戸沢の横に立っている。完璧な微笑みだが、その横顔には影が差していた。

 諦観に支配された顔を見て、戸沢は初めて、彼女を哀れだと評価した。


 楽団がワルツを奏で始めたところで、戸沢が前へ出た。


「私から一つ、言わせてもらいたいことがあります」


 予定にない言葉に、広間が静まる。

 それすら気にせず、戸沢は淡々と続けた。


「私はとても失望していました。この世界の野蛮さと、愚かさ、そして自分たちの尻一つ拭けない幼稚さに。異世界人を誘拐して出てきた言葉が、自分たちを救ってほしい。まったく、まるで小さな赤子だ、と」


 広間が凍りついて、楽団のヴァイオリンが音程を外した。


「……今、なんと申した? トザワ殿」


 国王の声は低いが、怒りよりも困惑が勝っていた。この場で――婚姻の発表の場で、花婿が国を公然と侮辱するなど前代未聞だった。

 しかし、そんな詰問すら無視し、戸沢は淡々と続ける。


「帰す気があるかと思えば、方法はわからない。文献を調べるまで知らなかった。そして事実上帰還は難しく、成功しても無事という保証はなかった。そうしたら勝手に、やれ婚約者だやれ王配だ。まったく人を何だと思っているのやら。……けれども、私も思いまして。この世界がその理屈に沿って私に強要するのであれば、私もその理不尽を貴方がたに課そう。私を犠牲にしたように、私も犠牲を強いてみることにしました。いやはや、初めての試みでしたよ」


 その一言が、不気味な余韻を残して広間に響く。

 レオナの眼光は、すでに戸沢を排除すべき脅威として捉えているようで、周囲の部下へ鋭く声を発した。


 一人、ソラーレだけが、呟く。


「……まさか」


 手が震え、青い瞳が大きく見開かれている。


「貴方がたに則って、私も予言を実行しようと思いましてね。異世界人と王家の血を交えることで厄難は退けられる。ここでいう交わりとは婚姻でなくともよい、例えば物理的でも。ええ、それでね、魔獣の大侵攻を食い止めるものを作ったんですよ。疲労を知らず、痛みを恐れず、命じた敵だけを殺し続ける。実に扱いやすい『生物兵器』を」


 その言葉に、ソラーレの手から扇が滑り落ちた。


 か細い声で呼んだ名は、誰の耳にも届かなかった。


「何を……作った、だと?」


 国王が壇上から一歩前に出た。その顔は怒りではなく、底知れない不安に染まっている。


「答えよ、トザワ殿。その『生物兵器』とは、一体……どういう意味だ」


「どういう意味も何も……『彼』の事ですよ」


 タン、と足で床を叩いた。

 途端。戸沢の足元から、空間を切り分けるように何かが這い出てくる。


 それは、かつてミケラと呼ばれた王子だった。


 継ぎ接ぎだらけの身体、背中には二対の腕があり、腰にも不自然に長い足が一対追加されている。ガラスのような目玉が背にあり、角のような骨が、肘や膝から突き出ていた。

 かつては快活であった虚ろな瞳はどこも見ておらず、口は半開きのまま、服は裂け、その下から死体の縫合跡が覗いている。


「あ……あ……ああああぁぁぁっ!?」


 悲痛な声でソラーレは叫び、両手で口を覆って崩れ落ちた。


「ミ……ケラ……? 馬鹿、な……!? そんな、何故……何故、そのような、姿に……!?」


 国王は壇上でよろめき、玉座の手すりに縋りついた。信じられない、という表情で、己の息子だったものを見つめている。


 広間は一瞬の静寂の後、爆発的なパニックに包まれた。貴婦人たちの絶叫が響き渡り、人々は出口へと殺到する。シャンデリアが揺れ、グラスが割れる音が交響曲のように鳴り響いた。


 その只中で、戸沢はいつものように淡々と続けた。まるで、自分の作った作品を発表するかのように。


「頭部から胸部は、彼のものです。それ以外は全て"換装"し、異世界人の血によって強化を施されています。生きた人間では死ぬでしょうから死んだ素体に私の血を注入し、死体素材内部で擬似的に循環させています。本体への血管接合までは出来ませんでしたが、死体でも能力が向上したのは好都合でした。義肢体のように接合され、彼の意思で手足を動かせるように改造するのは骨が折れましたよ。いやはや、成功する確証はなかったのですが、よかったですね、成功して」


 戸沢は無表情のまま、乾いた拍手を始めた。パチ、パチ、という音が、混乱の極みに達した広間に不気味に響く。


「彼がこの国を救います。予言通り、私が、彼を英雄にしました」


「貴様ァァッ!!」


 怒声が轟いた。レオナ将軍は腰の剣を抜き放ち、雷のような速さで戸沢に斬りかかった。


 しかし、その刃が戸沢の首に届くことはなかった。


 ガキン、と鈍い音が響く。


 レオナの剣を、ミケラだったものが素手で受け止めていた。継ぎ接ぎの腕は刃を受けてもびくともせず、虚ろな瞳が初めてレオナに向けられた。そこには、何の感情もなかった。

 レオナは引きつった顔で「殿下……!?」と呼ぶ。


「少しばかり精神を弄って、私の命令を最優先で聞くようにしました。理性もない、当人の意思も、もはやない、ただの人形です。私が去った後は、ソラーレ王女、貴方の言うことだけ聞くように設定しました。貴方が、彼に命令するのですよ。犠牲のために、ね」


 ソラーレを見下ろし、次に国王を見つめ、最後にぐるりと広間中を見回した戸沢の声は、やはり平坦だった。


「ええ、これは報復ですよ。我々異世界人を誘拐し、自分たちの尻拭いを押しつけるような甘ったれたクソガキ理論を強要させないための、躾です。野蛮な文明レベルの野蛮人には丁度良い仕置でしょう?」


 戸沢の背後にもう一つ、人型の影が凝固する。それは呪印がびっしりと刻まれた死体――帰還用の「器」だった。

 戸沢が指を振れば、「器」が甲高い音を立てて輝き始めた。刻まれた呪印が青白い光を放ち、身体から黒い鎖が溢れ出たと思えば、仮初の肉体ごと門の形となった。


 鎖の門が白く輝き、その先には宇宙があった。輝く橋が繋がる、異世界への道。


 ソラーレは床に座り込んだまま、震える唇で戸沢の名を呼んだ。


「……トザワ、様……」


 懇願でも、非難でもない、ただ名だけを呼ぶ。

 戸沢は目を細め、表情を変える。


「それでは、愚かな皆さん、およびソラーレ王女、さようなら。


 弟君の犠牲を、せいぜい国のために"使って"やって下さいね?」



 彼の唇が歪む。

 それは嘲笑でも、皮肉でもない。


 ――心の底から湧き上がる、純粋で壮絶なまでの、邪悪な笑みだった。


 甲高い笑い声が広間に木霊した。まるで悪魔のような、悪意を煮詰めた醜悪な笑い。

 戸沢は背を向け、その笑い声を響かせながら、躊躇なく光の門へ足を踏み入れる。


 門はその姿を飲み込むと、一瞬で収束し、跡形もなく消え去った。



◇ ◇ ◇



 宇宙の只中、橋を渡りながら、戸沢はそれと出会った。


 干からびたミイラのような女が、虹色の虹彩でこちらを見つめ、何か口を動かしていた。


「……貴方の意図した通りかはわかりませんが、これで召喚術が用いられることはないでしょう。まあ、彼女らが報復に乗り出す可能性もありますので」


 その時は、叩き潰しに来ますね、と戸沢は微笑んだ。

 天使のように穏やかな笑みだった。


 戸沢の言葉に女神は何も言わずに、ただ道を開けた。

 その隣を過ぎ去りながら、戸沢は仕事帰りの役員のように声をかける。


「それでは女神様、召喚業務、ご苦労さまです。どうかご自愛なさいますよう」


 召喚術は女神アベレスの肉体を削ぐ。それを知らず、奴らはのうのうと女神の力を消耗させ続けていた。だから魔獣が現れ、襲われた。実に下らない循環。

 戸沢はその全てを踏み潰し、女神に過労を強いるお荷物を叩き壊した。


 ブラック会社並の業務をこなしていた女神へ労いながら、戸沢は一人、橋を渡った。





 ……コンクリートの道路の感触、排気ガスの匂い、遠くで響く救急車のサイレン。


 戸沢は、見慣れた帰り道に立っていた。

 周囲を見回してから、落ちていた自分の鞄からスマートフォンを取り出す。時刻は召喚される直前から一分も進んでいない。


 異世界での数ヶ月は、まるで一瞬の悪夢だったかのようだ。

 だが夢ではない証拠が、どこか体の深部に残っている気がした。呼吸の裏に潜む、熱とも冷気ともつかない、わずかな違和感。魔力の名残か、あるいはただの錯覚か。


 スマートフォンの待ち受け画面を、親指でなぞる。そこには満面の笑みを浮かべる妻と、まだ幼い娘が写っていた。

 そのとき初めて、戸沢の口元に穏やかな笑みが浮かんだ。


「……帰ろうか」


 しがないサラリーマンとして、愛する家族が待つ、平穏な日常へと歩き出す。

 夜道を照らすオレンジ色の街灯が、彼の影を長く、長く引き伸ばしていた。

 


 だから、誰も気づかなかった。


 その影の輪郭が、ほんの僅か、ありえない形に歪んでいることに。



◇ ◇ ◇



 戸沢が消えた夜、ソラーレは広間の床に崩れたまま、立ち上がれなかった。アメリが駆け寄り、肩を抱いても、王女の瞳はただ門があった空間を見つめ続けていた。

 何もかもが唐突で、されども全ては自分たちの身から出た錆だと理解していた。

 目の前は、命令を待つかのように佇む、弟だったモノがいる。

 その無表情に、ソラーレは何も言えずに涙をこぼした。



 ……だが、魔獣の大侵攻は待ってくれなかった。


 数カ月後、北方の防壁が破られた時、ミケラだったものは命じられるまま戦場へ赴いた。疲れを知らず、恐怖を覚えず、ただ敵を殺し尽くした。魔獣の群れが押し寄せるたびに継ぎ接ぎの身体が血に塗れ、虚ろな瞳のまま敵を引き裂いていく。


 兵士たちはその背中に希望を見たが、同時に目を逸らした。あれが王子だったとは、誰も口にしなかった。

 レオナ将軍もまた、悲痛な顔でただ見ていることしかできなかった。もっと早く、あの男を斬り捨てなかった自分の不徳を恥じ続けた。


 そして大侵攻は鎮圧され、代わりに王子は斃れた。

 国王は戦後まもなく病に倒れ、ソラーレが王位を継いだ。


 即位後、最初の勅令は二つ。

 召喚魔法に関するすべての文献の焚書。

 そして、異世界召喚の永久禁止。


 ……しかし、民の間では囁かれ続けた。


 王国を救ったのは王女でも軍でもない。ある夜に召喚された悪魔が、王子を贄に捧げて魔獣を滅ぼしたのだ、と。


 後世に編纂された歴史書に、その名は記されていない。ただ一枚の挿絵だけが残された。


 異国の装束を身に纏う、ピンと張り詰めた姿勢の男。

 表情が真っ黒に塗りつぶされた、薄ら寒い雰囲気の男。


 記された題名は、"悪魔"。



 そしてソラーレは玉座に座るたびに、弟の虚ろな瞳と、あの夜の笑い声を思い出す。

 悪魔が去った後も、この国はあり続ける。それを成したのは間違いなく、あの男だった。


 誰もいない謁見の間で、女王は静かに呟いた。


「トザワ様、貴方の言う通りでした。……私たちは、愚かだった」



 ――その言葉を聞く者は、もはや誰も居ない。







「ただいま」


「お帰りなさい、彰さん。お仕事、お疲れ様」

「パパ! ゆーちゃんだっこ! だっこして!」


「ああ。……少し見ない間に、大きくなった、かな……」

「どうしたの、彰さん。……あら?」


「……ごめん、少しだけ我慢してほしい」


「あらあら、珍しく甘えん坊ね」

「パパ、ママにだっこ? ゆーちゃんもしてあげる!」


「……うん、ただいま、二人とも」





~登場人物設定~


戸沢彰:

 生まれついての悪魔のような男だが、奥さんという外付け倫理装置のお陰で人間的な生き方ができていた。これでも昔よりは丸くなった、とは奥さんの談。仕事場では合理と無感情で嫌われてはいるが仕事に関しての信用はある。でもブラック労務を課す鬼畜と認識されている。

 加害には報復を、というスタンスは現代日本ではささやかな被害で済んでいたが、今回は倫理も人道も一足飛びに飛び越えた世界での報復となったため、最悪な形で出てしまった。悪に堕ちたのではなく、最初から悪寄りだったのが露出しただけである。お前の報復の出力、常にバグってんな。

 自分が死ぬことよりも妻子が不幸になることの方が死ぬほど恐ろしいと思っている。地雷を踏まなければ爆発はしないので、狂人として穏健な方であろう。

 魔術の知識は残っているが日本では使えず、送還術の影響で少し人間を辞めている。後に家で異世界体験を話し、笑顔の奥さんに顔面アイアンクローを食らった。奥さんには絶対に勝てない。


ソラーレ:

 加害側だが一番の被害者。召喚も伴侶も彼女の意思ではなく、父や重鎮たちの決定であったのだが、尻拭いは全て彼女に押し付けられていた。戸沢とかいうガチャ大失敗が出てきた上に「この人でなしが伴侶……」と絶望し、遂に弟まで手に掛けられてしまった。

 かなり複雑な想いと恨みは抱いているが、報復へ走るほど愚かにはなれず、二度と会わない方が自分のためであると判断し、術を抹消させた。女王としては立派になると思う、幸せになれるかどうかまでの保証はないが。


ミケラ:

 かわいい顔して腹黒な王子、他人をどうでもいいと思っているタイプではあるが、倫理的なぶっ飛び具合と行動力では戸沢には敵わなかった。獲物を前に嬲る猫のようなムーブを噛まして特大の地雷を踏み、哀れな姿と成り果てた。いらんこと言うからやで。


虹橋神アベレス:

 百年ほど前からやたら強制異世界召喚を連発されたせいで力が減衰し、過労死三秒前の社畜みたいになっていた。召喚術は過去に異世界の勇者を呼んだ際にそのまま残していたものだが、まさか世界を救う切り札が乱用されるとは思わなかった。戸沢は召喚術を封じるような騒動を起こしてくれるヤバい人間として期待され、選ばれた。人材配置が的確過ぎる。


奥さん:

 戸沢の妻。あの戸沢彰を絆して調教……もとい、躾けている女性。旦那のことは、人と違う部分が大きいので自分がカバーしてあげれば大丈夫よね、と常に何かあれば相談するよう厳命している。

 異世界体験での戸沢の行動に思うところが多いが、最適だったと理解はできている。戸沢が何もせず帰ってもまた召喚が行われ、別の誰かが犠牲になるor娘が召喚されて報復される、のどちらかと予測されるからだ。後者の可能性が少しでもある時点で妻子大好きな戸沢が召喚術を潰す理由は理解できるし、倫理面を優先すれば戸沢は帰れなかった。

 だが、十代の青年をその手に掛けたも同然で、理屈にさえ沿えば人を殺して良いというトンチキな学習をされても困るので教育的側面としてギルティ判定を出し、しばらく口を利かなかった。そして離婚の二文字がチラつく戸沢の業務効率が大幅に落ちて、業務アンドロイドが壊れたと職場で噂になった。

 戸沢とは幼馴染で幼少期から矯正に奮闘しており、悪魔みたいな男に首輪を嵌めて制御している。強い。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ