第1章『はじまりの交差点』
第1章 最初の崩壊
ピッチに立った瞬間、空気の温度が変わった気がした。
九月のドイツは、カレンダーの上ではまだ夏の終わりだというのに、スタジアムを吹き抜ける風は、蓮の肌から容赦なく熱を奪っていく。
スコアボードには、赤い数字が無情に光っていた。
3 − 0
負けているのは、黒江蓮がいるクラブ、U−18の下部組織チームの方だった。
(まだ……終わってない)
口の中が乾く。
吐く息は白くはないのに、肺の奥が凍るように重かった。
相手のセンターバックからボランチへ、ボランチからサイドへ。
ボールは、蓮の周りを滑るように通り過ぎていく。
見えている。
はずだった。
――次は、右のサイドバックに落として、逆サイドを変えてくる。
蓮は一歩、先に動いた。
そのパスコースを切るように、体を入れる。
だが、ボールはそこには来なかった。
ボランチは、足元で一瞬ボールを止めると、蓮の逆側――蓮の予測の「外」を通して、インサイドハーフに縦パスを通した。
「……っ」
半歩、ずれる。
半歩のずれが、そのまま一瞬の致命傷になっていく。
インサイドハーフがワンタッチで前を向く。
走り出してくるトップ下、裏へ飛び出す9番。
センターバックの背中が、ほんの一瞬だけ迷ったように止まる。
「左! ついていけ!」
ドイツ語で監督が叫ぶ。
意味は分かる。耳はもう慣れた。
ただ、体が追いつかない。
蓮は戻る。
予測ではなく、ただ全力で追いかけるだけの動き。
膝が重い。心臓が喉元まで上がっているのに、ピッチの芝だけが遠く感じる。
トップ下が、ペナルティエリアの外でボールを受けた。
ここで潰さないと、シュートを打たれる。
分かっている。
頭では分かっているのに、足が止まった。
ほんの一瞬。
その、一瞬だ。
蓮の足は、相手の足首を刈る位置まで振り切れなかった。
(ここで全力で行ったら、倒してしまう)
そんな考えが、優しさとも甘さとも呼べる迷いが、
走り抜けるタックルの軌道を、無意識に鈍らせた。
その結果として――
トップ下は、ほんの少しだけボールを右にずらし、フリーになってシュートを放った。
ボールが、ゴールネットの上段を揺らす音がした。
4 − 0
スタジアムが沸く。
相手ベンチからは歓声、こちらのベンチからは重い沈黙。
蓮の耳には、どちらの音も遠かった。
芝に目を落とすと、スパイクの先に、うっすらと削れた傷が見えた。
(行けた。
あの瞬間、もっと深く、もっと速く、もっと容赦なく行けた。
行けたのに――)
審判のホイッスルが試合終了を告げる。
歓声とため息と、拍手と、ドイツ語の罵声と、何かの歌が、渾然一体となって蓮の上に降り注いだ。
そのどれもが、自分には関係ない世界の音に聞こえた。
ロッカールームのドアが閉まると、外の喧騒が一気に遠ざかった。
汗と芝と、スパイククリーナーの薬品の匂いが混ざり合う、いつもの匂い。
だが、その空間は今日はやけに狭く、息苦しかった。
誰も口を開かない。
シャワーの音だけが、奥の方からかすかに聞こえる。
「……黒江」
低い声が、蓮の名前を呼んだ。
顔を上げると、監督がベンチの前に立っていた。
四十代半ば、短く刈られた髪。
感情の読めない薄い青の瞳。
このクラブに来てから、蓮は何度もこの男に評価され、何度も突き放されてきた。
「さっきの4点目、覚えているな」
蓮はうなずいた。
口を開けば、言い訳しか出てこない気がして、何も言えなかった。
「お前は一歩、止まった」
監督は淡々と言う。
「怖かったのか? ファウルになるのが」
その言葉は、蓮の胸をえぐるように刺さった。
図星だった。
「……はい」
やっとのことで絞り出した返事は、あまりにも小さかった。
監督は、ため息をつかなかった。
代わりに、少しだけ声のトーンを落とした。
「ここは、お前の地元のグラウンドじゃない。
これは“遊び”じゃない。
情けは、ここでは価値にならない。」
冷たい。
冷たいのに、妙に優しいようにも聞こえる声だった。
「優しさが悪いとは言わない。
だが、ピッチでためらうくらいなら、その優しさは捨てろ。
ここでは、それはただの“遅れ”だ。」
何も言い返せなかった。
蓮は、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
優しさ。
誰も傷つけたくない、という感情。
幼い頃から、自分を作ってきた核だと思っていたもの。
――それが、今、目の前の大人に「いらない」と告げられている。
監督は肩をすくめると、
「次までに考えろ。
残したいものと、捨てるべきものを。
それができないなら、このチームにお前の居場所はない」
それだけ言って、ロッカールームから出ていった。
残された空間に、また沈黙が落ちる。
チームメイトたちは、蓮の方をちらりと見るが、誰も何も言わない。
目をそらす者もいれば、興味なさそうにスマホをいじる者もいる。
ここは、日本ではない。
自称天才の地元最強に、気を遣ってくれるやつなんて、どこにもいない。
(……分かってる。そんなこと、分かってたはずなのに)
蓮はユニフォームの裾を、ぎゅっと握りしめた。
指先が震えていた。
寮に戻る道は、いつもより長く感じた。
夕方の空は、どこまでも薄い灰色で、
遠くの方で鳴る救急車のサイレンの音が、やけに鮮明に響いていた。
歩道に落ちた自分の影を、蓮はぼんやりと見つめる。
ふと、頭の中に、全く別の景色が浮かんだ。
――日本の、小さな公園。
夕焼け色に染まった空。
小さなゴールと、古びたサッカーボール。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
七歳の蓮は、父と一緒に公園にいた。
鬼ごっこをしている子どもたちを、遊びに加わらずに、少し離れた場所からじっと眺めていた。
「蓮は混ざらないのか?」
父が笑いながら聞くと、蓮は首を振った。
「だって……誰か転んだら、かわいそうだし」
「転んだら、手を貸してやればいいんだよ」
父はそう言って、足元に置いてあったサッカーボールを軽く蹴った。
「ほら、これ。蹴ってみろ」
ボールが、蓮の方へ転がってくる。
蓮はボールを見た。
いや、ボールそのものではなく、その先を見た。
ゴールの位置。
ボールの重さ。
地面の少し盛り上がっている場所。
風の向き。
それらが線になって、頭の中で一本のルートを描く。
(ここだ)
蓮はステップを一つ踏み、何のためらいもなく足を振った。
ボールは、その軌道をなぞるように転がっていき、
小さなゴールのど真ん中に、きれいに吸い込まれた。
コーンが「カン」と乾いた音を立てる。
胸の奥が、熱くなる。
それは、誰かに勝った嬉しさではなかった。
誰かを倒した快感でもなかった。
ただ、自分が思い描いた未来が、
ほんの一瞬だけ、現実と重なったことへの快感だった。
「……すごいな、蓮」
父が目を丸くして笑う。
「今、見えてたのか?」
蓮は頷いた。
「ここに行くって、分かった。
だから、蹴ったら……そうなった」
自分の言葉に自分で驚きながらも、
胸の鼓動が止まらなかった。
あの日、蓮は思った。
これは、誰も傷つけない勝負だ。
誰かを転ばせる必要もない。
誰かを泣かせる必要もない。
自分の中のイメージとだけ戦えばいい。
だからこそ、サッカーを始めようと思った。
あの夕焼け空の下で決めた一つのゴールが、
黒江蓮という人間の価値観の、一番最初の種だった。
――なのに。
(その価値観を、捨てろっていうのか)
寮の玄関の前で足が止まる。
空はもう群青色に近づいていて、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
スマホを取り出すと、日本の時間を確認する。
いつもなら母から「試合どうだった?」というメッセージが来る頃だ。
画面には、何件かの通知が並んでいた。
友達からのスタンプ、地元のチームメイトからの「最近どう?」という軽いメッセージ。
そのどれもが、今の蓮には別世界の出来事に見えた。
画面を閉じる。
寮の自室に戻ると、ベッドに体を投げ出した。
天井の白い塗装の小さなヒビを、ぼんやりと目で追う。
(優しさを捨てろ。
情けは価値にならない)
監督の言葉が、何度も頭の中でリフレインする。
(でも、優しさがなかったら……
オレは、サッカーに出会ってない)
矛盾だ。
自分の原点と、今求められているものが、あまりにも正反対に見える。
しばらく、何も考えないようにして目を閉じた。
そして、考えないようにしようとすればするほど、
思考は深いところへ沈んでいく。
(――だったら)
ふと、心のどこかで、別の声がした。
(だったら、全部捨てればいい)
優しさも。
「誰も傷つけないで勝ちたい」という甘い理想も。
地元で最強だったという自負も。
「未来が見える」なんて自称天才じみたプライドも。
全部だ。
(このチームで、本当に生き残りたいなら。
この国で、本当に“最強”になりたいなら)
天井に向かって、蓮はそっと右手を伸ばした。
指先には、未だに試合の感触が残っている気がする。
相手の足首を、あの一瞬、刈れる位置にあった足。
それを止めたのは、誰でもない自分自身だった。
「……もう、止まらない」
誰に向けたものでもない、かすかな声が漏れる。
「優しさなんか、いらない。
オレの価値観なんか、全部壊してやる」
自分で自分に宣言する。
幼い頃の自分が聞いたら、泣き出しそうな言葉。
でも、その言葉を口にしなければ、前に進めない気がした。
その瞬間だった。
「いい顔をしてるな」
不意に、ドアの方から声がした。
蓮はびくりと肩を揺らして振り返る。
ドアが半分開いていて、その隙間から一人のチームメイトが顔を覗かせていた。
黒髪ではなく、淡い茶色の髪。
切れ長の目が、どこか底知れない静けさを湛えている。
同じ部屋の住人ではない。
同じチームの、だが蓮とはほとんど会話を交わしたことのない選手。
「……イルカイ」
名前を呼ぶと、その少年は薄く笑った。
「監督に、何か言われたんだろう?」
蓮は何も答えなかった。
イルカイは部屋に入ってこない。
ドア枠に片肩を預けて、ただじっと蓮を見ていた。
その視線は、責めるでも、慰めるでもない。
観察している。
それも、ただの興味本位ではなく、何かを測るような目。
「今のお前の顔、嫌いじゃない」
イルカイは、ぽつりと言った。
「壊そうとしてる顔だ。
自分を。」
蓮は、息を飲んだ。
自分の中でひっそりと決めたことを、
いきなり言い当てられたような気がしたからだ。
イルカイは小さく肩をすくめる。
「ただ――」
そこで一度言葉を切る。
「壊すだけじゃ、足りない。
捨てるだけじゃ、強くはなれない。
本当に強くなる奴は、捨てた後に何を残すかを、ちゃんと分かってる」
その言葉の意味を、蓮はすぐには理解できなかった。
だが、何か大事なものに触れられたような感覚だけが、心の中に残る。
「続きは、また今度だ」
イルカイはそう言って、軽く手を振り、
ドアを静かに閉めた。
部屋に再び静寂が戻る。
蓮は天井を見上げたまま、
さっきイルカイが言った一つ一つの言葉を頭の中で反芻した。
――壊すだけじゃ、足りない。
――捨てた後に何を残すか。
(捨てた後に、残るもの……)
優しさを捨てる。
地元最強のプライドを捨てる。
自称天才の未来視を、ただの「感覚」から「技術」に変える。
その時、蓮の中に何が残るのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
だが、不思議と胸の奥で、何かが静かに燃え始めているのを感じた。
(いい。
全部、やってやる)
崩れる音と、
新しく組み上がる音が、同時に聞こえるような気がした。
黒江蓮の物語は、
この夜、ようやく“本当の始まり”を迎えようとしていた。




