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鈴 後篇

 ミコが言っていた明後日になった。あれから二日間丸々かけてあの本を読み続けているが、よくわからない伝承がつらつらと書き連ねてあるだけで、何も面白みがない。昔読んだ柳田国男の『遠野物語』はあんなに面白かったのになぜだろう。唯一、カカシに関する話は余韻があって少し興味が湧いたが、それ以外の話はあまりにごくありふれた伝承だった。この本は睡眠導入剤としての側面が些か強すぎる気がする。俺はあくびをして時計を見上げた。時刻は七時半ちょうどを指し示している。


「そろそろ行くか・・・」


 少々古臭いような気もするが、俺はハンチング帽を被って外套を羽織る。眉唾物だとは思いつつも、あの少女の言葉に嘘はなかったと直感的にそう感じていた。それに本を読む以外に今は何もできることはない。騙されてと思って、俺は(くだん)のホテルへと向かった。


 ホテル『ニューマエサキ』は、俺の最寄り駅から電車で二十分ほどの場所にある淀橋(よどはし)駅の駅前にあった。着いてからすぐわかったが、ラブホテルのようだ。沿線とはいえ、なぜ高校生のあの少女が、少しばかり遠方に位置するラブホテルなんかを知っているのかは謎だったが、俺は彼女の透き通るような黒い瞳を思い出してこう思った。


きっと彼女は何かを知っているはずだ、と


 まだ十二月になっていないとはいえ、体の芯まで冷え込むような夜だった。こんな寒い中を一時間も待てと言うのだから殺生なこと極まりない。一体、誰が出てくるというのだろうか。この三十分ほどの間に、三組ほどのカップルがここを出入りした。いずれも知らない顔だった。


 こういうのもなんだか探偵っぽくて悪くないな。なんて考えていたがこの状況、警察に見つかったらかなりまずいのではないだろうか。残り三十分の無事を祈って、俺が空を見上げた時、ガコンと扉の開く重い音がした。


「じゃあ、ここで」

「ええ、また連絡するわ」


 そこにはベージュのコートを着た妙年の女性と、夕香ちゃんの父、徳治氏がいた。


「どういうことなんだ・・・」

 女性は明らかに真紀子氏ではない。俺はその状況を飲み込めずにいた。女性と徳治氏はホテルを出ると、ものの数秒でまるで一切面識のない他人同士かのように、お互い反対方向へと歩き出した。俺は慌てて徳治氏を追いかけた。走ってはいないのだが、徳治氏の歩くスピードはかなり速い。ここ最近、運動なんてろくにしていなかった俺の体には少々厳しいものがある。それにホテルのあるこの通りは、歓楽街へとつながっているため、人通りも多く、俺は見失ってしまうのではないかと内心焦っていた。


「酒井さん! 酒井徳治さん!」


 人ごみをすり抜け、歓楽街へと曲がって行こうとする徳治氏に、俺は咄嗟に声をかけた。フルネームで呼ばれたことに驚いたのか、徳治氏は怪訝な様子でこちらを振り向いた。周りの人間もチラチラとこちらの様子を伺っている。


「ちょっと、話を、聞かせてもらえませんか」


 肩で息をする俺を見て、彼は観念したようにため息を漏らした。


          〇


 座って話しませんかと言う俺に、徳治氏は黙ってうなずいた。すぐに近くのカフェに入店する。意外なことに、この時間帯は空いているようだ。妙に明るい声を出す女性の店員が俺たちを席まで案内してくれた。


「なににされますか」


 俺が声をかけると徳治氏はホットコーヒーを、とぼそぼそ呟いた。周りは談笑の声で騒がしいというのに、二人の間には長い沈黙が続いた。


「見たのか」

 徳治氏がテーブルを見つめてそう言った。

 見たというのは女性と二人で密会していたことを指しているのだろう。


「ええ、見ました」

 それを聞くと彼は大きく息を吐いて、煙草を取り出す。

 しかし、火をつける直前で灰皿がないことに気付き、店員呼んでその旨を伝えた。


「あの女性は誰なんですか」

 その問いに彼はこちらをちらりと見やった。

 君に教える義理はないとでも言いたげな表情だ。構わず、俺は続ける。


「奥さんは・・・真紀子さんはこのことをご存知なんですか」

 今度はハッとした顔をして徳治氏はまじまじと俺の顔を見た。


「一体、いくらほしいんだ」

「は、」

 俺が返す間もなく、彼は財布を取り出すと一万円札を数え始めた。


「やめてください。私はなにも脅しに来たわけではないんです」

 ハッハッハと笑って徳治氏は顔を前で手を組み、嘲るようにして口元に笑みを浮かべた。


「それじゃあなんだ、妻に言いつけるとでもいうのかね君は」

「そういうわけでもありません。まずは私の質問に答えてください」


「お待たせいたしましたー、こちらホットコーヒー二つと灰皿になりまーす」

 先ほどの店員が、私と徳治氏の目の前にカップを置いていく。タイミングの悪さに俺は少し苛立ちながらも、店員には礼を伝えた。徳治氏はそれを音を立ててすすると、吐き捨てるように俺に言った。


「浮気相手だ。見りゃ分かるだろ」

 先日会った時との態度の差に緊張しながらも、俺は正筋を伸ばして続けた。


「見た感じキャリアウーマンではないように思いました。正直に言ってください。誰なんですかあの人は」

 やけくそになったのだろうか、徳治氏は貧乏ゆすりをしながら答えた。


「近所に住んでいる加藤って女だ。娘の幼馴染の母親だよ」

「いつから浮気を」

「ちょうど夕香が失踪した頃だよ。あの女、うちの娘が自殺したって俺に泣きついてきてな。あいつの旦那は随分昔に出て行っちまったみてェだから頼る先もなかったんだろ」


 もういいだろこれで、と彼はいら立ちを隠さずにそう言った。

 どういうことだ。夕香ちゃんの幼馴染は、彼女が失踪する前に自殺していたというのか。こないだ酒井家に訪れた時のことを思い出す。徳治氏は夕香ちゃんに失踪する動機はなかったと言っていた。冗談じゃない。大きすぎるほどの動機がそこにあるではないか。恐らく、この男は浮気が真紀子氏にバレるのを恐れて、そのことを黙っていたのだ。


「あのな、オヤジがやいのやいのうるせェから渋々頼みごとを聞いてやったが、君はこんなことまで調べろと言われたのか?」

 徳治氏は今にでも掴みかかってきそうな勢いだ。浮気の件から少し話をそらせよう。


「徳治さん、私の仕事はあくまで夕香ちゃんを探し出すことです。信明さんからは既に報酬がいただいています。あなたが黙っていろと言うのであれば浮気のことは誰にも言いません。ただし、」

 俺は一呼吸おいてこう言った。


 その加藤さんに会わせてください


          〇


 徳治氏によるとあの女性の名前は加藤恵美(えみ)で、その娘・・・夕香ちゃんが失踪する前に自死したというその子は亜美(あみ)というらしい。翌日、俺はさっそく彼女が住んでいるという古いアパートに来ていた。表札に加藤という文字を見つけ、インターホンを押す。平日なのでなるべく人がいそうな時間帯を狙おうとしたのだが、あまり夜遅いと迷惑をかけてしまう。そこで間を取って夕方の六時にやってきた。行きしな、身なりから怪しいと思われて居留守を使われてしまわないだろうかとも思ったが、意外にもすぐに返答が来た。夕香ちゃんを見つけるために雇われた探偵であることを告げると、ドタドタと廊下を走る音がして、勢いよくドアが開かれた。


「あ、すみません突然、」

 俺は手短に夕香ちゃんの祖父である信明氏からの依頼で、彼女の調査を行っていることを告げた。突然の訪問に怪しさを感じたのか恵美氏は(いぶか)しげに頷きつつも、俺を中に入れてくれた。


「散らかってますけど・・・」

 そう言って通されたリビングには、大量の洗濯物が散乱していた。踏む場所に困るなと思いつつ、ふとリビングの奥の方を見ると、テーブルの上に置かれた小さな仏壇が目に入った。


「先に、手を合わせても?」

 そう聞く俺に恵美氏はええ、とだけ言った。衣服を踏まないように気をつけながら仏壇へたどり着くと、俺はおりんを鳴らして合掌した。目を開けて亜美ちゃんの顔を見る。屈託ない笑顔をしているが、どこか儚げな雰囲気のある少女だった。

 俺は正座をしたまま、恵美氏の方を向いた。


「すみません。大変な時に押しかけてしまって・・・」

 俺の言動に心を開いてくれたのか、彼女は目を細めて笑った。


「いいのよ。夕香ちゃんも大変ね」

「はい、私も手がかりが全く無くてお手上げなんです」

「そう・・・」

 彼女は俯きながら相槌を打った。その横顔に亜美ちゃんの面影を感じた。


「あの子、夕香ちゃんとは本当に仲が良かったみたい。よく一緒に遊びに行ったり、お互いの家に遊びに言ったりもしていたわ」

 幼馴染ということもあって、それだけ仲も良かったのだろう。


「亜美さんは夕香さんについて何か言っていたりしませんでしたか」

「そうねぇ、娘とはあまり話さなかったから詳しいことはわからないけど、いつだったか『夕香はたった一人の親友だ』って言ってたような気がする」

 亜美ちゃんは夕香ちゃんにとっての親友だった。それは夕香ちゃんにとっても同じことが言えるだろう。俺は亜美ちゃんが夕香ちゃん失踪のキーパーソンだと確信した。


「で、わざわざ家に来たからには私に何かお願いでもあるんでしょ」

 考え込む俺に恵美氏がそう尋ねる。

 俺はためらいながらも、ここに来た真の狙いを打ち明けることにした。


「先ほども申し上げたように、手がかりがなくて大変困っています。そこでお願いなのですが、亜美さんのお部屋を少し見させていただくことはできないでしょうか」


 さすがに厳しいか。頭を下げているので恵美氏の様子を確認することができない。他人の家の中での静寂がどれほど耳に痛いことなのかは、行員時代に嫌というほど思い知った。だが、今回のは明らかに越権行為だ。亡くなってしまった人のことを赤の他人である俺が詮索しようとしている。何を言われるのかわからない。俺はしばらく頭を上げることが出来なかった。


「あたしもね、」

 恵美氏がポツリと漏らす。


「あたしも、あの子が死んでから中々、部屋の中に入れずにいるの」

 心臓の脈打つ音が俺の聴覚を邪魔する。


「あなたもう知っているんでしょ。あたしが酒井と浮気していること」

 俺はハッと頭を上げた。


「あたし逃げていたのよ。あの子に目を向けることからずっと。夫がいなくなってから、自分のことでいっぱいいっぱいで、あの子のこと・・・」

 彼女の目から一筋の涙が零れ落ちた。鼻をすする音が部屋の中をこだまする。


「いいわ。もうこれ以上、目をそらし続けることはできない」

 恵美氏が俺のことを真っすぐ見つめて言った。


「行きましょう。あの子の部屋へ」


          〇


 最悪の場合、徳治氏との関係を秘密にすることを条件に部屋を見せてもらおう。そんなことを考えていた自分の浅はかさに、俺は自戒の念を禁じ得なかった。そして、ここにきて夕香ちゃんの調査を半ば安易な気持ちで引き受けてしまったことを少し後悔していた。


 この仕事は多くの人間の機微に触れることになる。推理小説のように第三者の目線から楽しむのとは訳が違うのだ。俺はゆっくりと立ち上がって、恵美氏の後に続いた。亜美ちゃんの部屋は廊下を出てすぐ横にあった。ドアには何の装飾もなされていない。数年前、父親が多額の借金を抱えて失踪して以来、彼女は少しでもお金のかかるようなものは一切好まなくなったそうだ。


 どうぞと言われてドアノブに手を伸ばす。しかし、俺はそれを一瞬ためらった。ドアノブにうっすらと埃が積もっていたのだ。恵美氏は本当にこの半年の間、一切彼女の部屋に入ることは無かったのだろう。


「開けます」

 俺は改めてドアノブに手をかけ、音をたてないよう丁寧にそれをひねってドアを開けた。これから死者のプライベートに土足で踏み込むことへのせめてもの罪滅ぼしだった。


 中はカーテンが閉められており、想像以上に暗い。窓が北向きということもあって、廊下とはだいぶ温度差がありそうだ。後から入ってきた恵美氏が明かりをつける。白い壁、水色のベッド、至って普通のフローリング、そしてそこに敷かれたピンク色のラグマットの上には小さなちゃぶ台が置いてある。入って左手側には押入れがあり、そこは閉ざされていた。  


 女子高生の部屋というには少し味気ないように感じる。父親の借金のことを相当気にかけていたのだろう。俺は恵美氏に断って、押し入れを開けた。下の段は本棚、上の段は衣服の収納スペースになっている。本棚に目をやると、鬱やら死などの単語が入った暗いタイトルの本が敷き詰められていた。家庭環境や親子関係から察するに、彼女はどこかに救いを求めていたのかもしれない。


「ちょっと拝見してもいいですか」

 うなずく恵美氏を見ると、彼女は初めて見たのであろう娘の持つ数々の本を、額に手を当てて見ている。俺は一冊一冊、慇懃(いんぎん)に本を取り出して、パラパラとページをめくっていった。これが小説の中の出来事なら、どこかに何かのメモでも挟まっているはずだ。そう信じて丁寧に本の中を調べていったのだが、ついに最後の一冊を閉じ終えて、それが徒労であったことを思い知った。


 諦めきれず、少し部屋の中も見させてもらうことにした。この質素な空間の中に、一連の出来事の手がかりが隠されているとは少しも思えなかったが、俺は注意深く部屋を観察した。ちゃぶ台の裏、ベッドの下、カーテンを開けたりもしたが何もない。しかし、念の為と思って布団をめくった時、俺はそこに気になるものを発見した。


 ベッドのすぐ横の壁紙が若干浮いている。

 

 壁紙のつなぎ目のような部分だったので、気のせいかとも思ったが、ここまで来て見過ごすわけにはいかない。俺が振り返ると、恵美氏も何か違和感を覚えたようだった。さすがに壁紙をめくるのは住居破壊行為になりかねないので、俺は恵美氏に聞いた。


「ここ、めくってみてもいいですか」

「ええ、お願いします」

 俺は壁紙が破れたりしないよう、慎重にそれを手でつまむ。そこには鉛筆のようなもので乱雑に何かが書かれていた。最後までめくりあげて、俺はようやくその内容を理解することができた。


『わたしはあのこになれない』


 俺と恵美氏はそのまましばらく固まっていた。


          〇


「あなたが来てよかった」


 俺が加藤家を後にしたとき、彼女は最後にそう言った。俺はまだ、自分のしたことが彼女にとって正しいことだったのかどうかわからない。だが、感謝をされたということは、彼女の中で何か整理がつくきっかけにはなったのだろう。

 帰りの車で、俺は壁に書かれた文字を反芻していた。


「わたしはあの子になれない、か」


 亜美ちゃんは夕香ちゃんになりたかったのだろうか。いや、そんな直接的な意味合いではないだろう。これはきっと、優しい父と母がいる円満な家庭、その上、金銭的にも余裕があり、祖父は企業の創業者という、絵にかいたような夕香ちゃんの理想的な家族像に対する憧憬だったのだと思う。亜美ちゃんはそれを毎日使うベッドの横、それも顔のすぐ近くにある壁に書いていた。あの部屋にはなかったが、ノートの切れ端や学校の机なんかにも同じような文章を書いていたのではないだろうか。仲の良かった夕香ちゃんは、不幸にもそれに気が付いてしまった・・・


「違うな」


 亜美ちゃんの部屋にあった本を思い返す。彼女はどうしようもできない自分の境遇に打ちひしがれて、絶望していたわけではない。救いを求めていたのだ。つまり、あのメッセージも誰かに救いを求めるためのものだった。亜美ちゃんはむしろ夕香ちゃんに気付いてほしかったのだ。自分が発しているSOSに。


 しかし、夕香ちゃんがそれに気付いた頃には、亜美ちゃんはもうこの世にいなかった。彼女はきっと、これまでの人生を振り返ったはずだ。一九二六年に失踪したアガサ・クリスティーのように。


 これまでの人生を振り返る・・・


 俺は『春にして君を離れ』の主人公ジョーン・スカダモアのことを思い出していた。彼女は確か、友人のたった一つの発言から、自分の人生全てに疑問を抱くようになった。これは夕香ちゃんにも同じことが言えるのではないだろうか。親友のたった一つのメッセージ。そこから彼女は自分の人生を全て振り返っていったのだ。あの小説と異なる点は、ジョーンが旅行中だったのに対して夕香ちゃんはそうではなかったということ。彼女はそれらの疑問について頭の中で回想するだけではなく、いくらでも調べ上げることができた。

 知ってしまったんじゃないだろうか、自分の父親の浮気を。


 それまで家族みんなで幸せに暮らしてきた。心優しいお父さんにお母さんに育てられ、彼女はすくすくと成長してきた。本当に理想的で、誰もが羨むような家族だった。


 それなのに。それなのに、父親はよそで女を作るほど、それも相手が親友の母親という多大なリスクを冒してまで、自分の家庭以外の場所に居場所を求めていたのだとしたら。父と母の自由な恋愛を自分が邪魔していたのだとしたら。自分が送ってきたこの人生が他人の不幸の上に成り立っているのだとしたら。それが原因で親友が自殺してしまったのだとしたら。


 夕香ちゃんははそんな風に自分を追い込んでしまったのかもしれない。彼女の死体はまだ見つかっていない。しかし、失踪から既に三ヶ月以上は経過している。どこかに潜伏でもしていない限り、生きている確率は非常に低いだろう。彼女が最後に去ったと思われる夏目湖。消えた数珠。そして丘に落ちていた銅鈴。そこに何かヒントが隠されているかもしれない。俺は車のナビを自宅からオフィスへと変更した。今日は徹夜で()()()を徹底的に調べるつもりだ。


          〇


オフィスに着いてから、親父に今日は自宅に帰らない旨を連絡した。


「気張るのはいいが、あまり無理をするなよ」

 親父は優しくそう言った。だが限りなく真相に近づいている今、ここが正念場だ。

 荷物を置いて、椅子に腰掛けると俺は例の本を取り出した。


『曲神のひとびと』

 

 月待と名乗った少女から又借りしたこの本を、俺はまだ半分も読めていない。全て読みきるには体力が持たないので『夏目湖』が関係する伝承に焦点を絞って、俺はその本を読み進めた。

 

 ひたすら文字を追ってページをめくり続ける。ひとつ、ふたつとその単語が出てくるが、いずれも鈴とはまるで無関係の話だった。あの少女は、この鈴が本来ここにあるのはおかしいというようなことを言っていた。あれはどういう意味なのだろうか。俺が持っていてはいけないということか、それとも・・・


「どこかちゃんとした置き場所があるってことか!」


 俺は思わず声を上げた。あの少女は知っていたのだ。この鈴が本来おかれているべき場所を。

それがこの本の中に書いてある。俺は急ぎつつも、決して見逃さないよう冷静にページ一枚一枚に目を通していった。時間が経つのも忘れ、俺は血眼になって『夏目湖』を探し続けた。そして、それは突然のことだった。


俺が1015ページを開いたその時、



『龍と土封鈴(つちふうりん)

 古来より龍は水の支配者とされ、川や湖との親和性が非常に高い神として祀られてきた。その伝承は全国各地に残されているが、夏目湖も例外ではない。その一つが山代集落に伝わる伝承である。


 山代の民は雨乞の折、紫水晶の数珠とともにこの鈴を使い、夏目湖から龍を呼び寄せたと伝わる。鈴の名は土封鈴といい、その音色は湖の奥深くまで届いたそうだ。土封鈴は夏目湖畔にある見入山(マミイル? マミル?)の頂から生じるとされ、祭りを行う前日になると村民によって掘り起こされた―――――


「あった・・・」


 開始から約五時間。日付はとっくに回っていた。途中、集中力が途切れることもあったが、なんとか持ちこたえた。見入山とは夕香ちゃんの自転車が見つかったあの丘のことだろう。この鈴は、本来あの山の頂上に埋められていなければならないものだったのだ。俺はようやく月待ミコが言っていたことの真意を知った。天井を見上げ、目頭を押さえる。しかし、喜ぶにはまだ早い。俺は伝承の続きを読み進めた。


―――――ある年の夏、連日の如く日照りが続いたことで田畑は枯れ、村民は飲み水にさえ困り果てた。日照りはあまりにも惨いもので、山代の民が雨乞を行っても焼け石に水だった。そこで彼らは、龍神に贄を捧げることにした。その効果は計り知れぬもので、村にはたちまちかつての潤いが取り戻された。


 だが、翌年になると龍神は鳴りを潜め、その神徳はやがて薄れていった。村民はやむを得ぬと再び贄を捧げた。すると龍神は瞬く間に村へ潤いを(もたら)した。そんなことが何十年、何百年と続けられていった。以来、鈴は龍神を呼び寄せるための物ではなく、贄を捧げる際の合図となったそうだ。

 村人にとって贄となることは、人々を苦しみから解放するための名誉ある行いだった。


 一九五六年 九月某日 山代台・日田文江



 これで夏目湖、数珠、同鈴の三つの点が一本の線によって繋がれた。全ては龍神を呼び、雨ごいの施しを受けるための儀式だったのだ。


 親友の自死により、これまでの人生が振り返った夕香ちゃんは、その中核を為していた家族と親友の二つが虚構であったことを知ってしまった。そして、彼女はせめてもの償いとして自らが龍神の生贄となり、親友の亜美ちゃんを救う存在へと昇格しようとしたのかもしれない。


 今、家へ帰っても俺は寝つくことができないと思う。自分でもよくわからないくらいの高揚感が俺の中を駆け巡っている。いっそのこと、今すぐにでもあの湖へ行ってしまおう。長時間の読書で頭が披露していたのも手伝って、気づけば俺は椅子に掛けていたスタジャンを身に付け、車のキー片手にビルの外へ飛び出していた。


          〇


 つい四日ほど前に行ったばかりだったので、道順はだいたい憶えていた。夏目湖にはすぐ着くだろう。そんな風に考えていたのが、昼と夜で山は全く違った顔付きをしている。行き方はわかっていたのだが、ダム管理棟に着くまでの山道はどこまで続くのかと思うほど長く感じられた。いち早くあの場所に辿り着きたかったので、誰もいないのをいいことに俺は駐車場を通りすぎ、丘の下まで遊歩道の上を車で走っていった。月明かりに照らされ、随分と明るい夜だったのを憶えている。


 俺は車を降りると懐中電灯も持たずに、足早に丘の上へと向かった。風もなく、ただしんと静まり返った空気だけが身を切るように冷たい。丘を登るにつれ、群青色の空の中にポツンと佇む満月が顔を見せた。


 頂上に辿り着くと、俺はあり得ないものを目にした。先ほどまでの興奮が一気に落ち着き、だんだんと冷静さが取り戻されていく。荒々しい自分の息遣いだけが頭の中に響き渡っていた。


 ブナの木のすぐ傍にあるベンチ。そこに小柄なシルエットが見える。ただでさえ辺りが真っ暗な上に、月明かりで逆光になっていてよく見えない。目を凝らすと、それがどうやら女性のようだということがかろうじてわかった。

 

 まさか夕香ちゃん・・・!


 そう思って、俺が恐る恐る近づくと、その月影はくるっと俺の方を向いた。


「ずいぶん遅かったわね、探偵さん」

 聞き覚えのある声だった。その人影はすっと立ち上がると、棒立ちの俺を気にも留めず、こちらに近づいてくる。


「もうちょっとで凍え死ぬところだったわよ」


 骨董屋で出会ったあの少女がそこにいた。


          〇


「君は確か、月待、」

「月待ミコ。憶えててくれたのね」

 憶えているも何も、こんなに印象に残る女子高生を忘れられるはずもない。


「なぜ君がこんなところにいるんだ」

「いやね、最後に答え合わせをしてあげようと思って」

 ミコは相変わらず、妖艶な微笑を浮かべて答えた。俺は目を見開く。


「夕香ちゃんの居場所がわかるのか」

 それに対してミコは、ええと声を落として湖の方を指さした。


「夕香さんは、あそこよ」


 雲一つない夜空を照らす月の下、その光を反射して夏目湖の水面はまばゆいほどに輝いている。陽炎のようにゆらゆらと揺れる湖上に、小さな少女の人影が見えた。水深がどれほどあるのかもわからないその湖の真ん中で、両手を組み、祈るような姿勢でじっとそこに浮かんでいる。その手首には紫色に輝く数珠が着けられていた。


「あれは、」


「酒井夕香さん。あなたの探していたひと」

 

 あれが・・・夕香ちゃん、なのか。

 

 あまりに現実離れした光景に俺は愕然とする。だが、彼女のこれまでの行動とその身に降りかかった出来事、そしてあの謎めいた伝承とが結びついて、それを自然に受け入れようとしている自分がいた。


「あなた、ここへ来たとき何か気づいたことがあるんじゃない?」

 ミコのそんな問いかけに俺はハッと我に返った。

 彼女は俺の方を見ながら、ベンチの背もたれをトントンと叩いている。


「ベンチ・・・、ベンチがずれていた」


「そう、正解」

 彼女はそう言うと、ベンチを両手で掴んでそれを勢いよく後ろに倒した。


「このベンチが置かれていた場所はね、もともと生贄を捧げるための神域だった」

 俺は先ほどまでベンチがあったその場所の土が、若干赤味を帯びていることに気付いた。


「それを・・・誰が置いたんでしょうね、まるで隠すかのようにその上にベンチを設置した」

 俺は徳治氏にもらったあの写真を取り出した。

 写真の中のベンチはブナの木より後方に位置しており、神域と思われる空間がぽっかりとあけられている。


「この件を調べてから、急いでこの場所に来たわ。そしたらびっくり。贄の神域が開かれているんだもん。このままだと危ないと思って、とりあえずベンチは元の場所に戻しといた。でも鈴がどこにも見当たらなくて・・・」

 まさか、あのご両親が持ち帰っていただなんてね、とミコは遠い目をして言った。


 夕香ちゃんはきっと、その場所に立って鈴を鳴らしたのだろう。自ら龍の生贄となるために。

 俺はどこか感慨深いものを感じていた。これはあまりにも悲しすぎる話だ。


 そんなことを考えている俺をよそに「ところで」とミコが続けた。


「これは言うべきかどうか迷ったけど一応伝えておくね」

 ミコは後ろに手を組むと、俺を中心に円を描くようにしてゆっくりと歩き出した。

 

 なんだ、この感じ・・・

 俺の背中をなにかゾワゾワとしたものが撫でていった。


「亜美ちゃんのお父さん、元々は地元で小さな建設会社を経営してたみたいなの。なかなか事業も順調で、加藤家はあなたが訪れた酒井家の斜向かいにある一軒家で幸せに暮らしていた。でも、」

 ミコは俺の横を通り過ぎ、背後に回っていく。


「バブルの崩壊で会社もろともパー。大量の借金を抱えて家を出て行ってしまった。残された一軒家はもちろん差し押さえられた。あなたの勤めていた銀行にね」

 行員時代のあの地獄のような日々がフラッシュバックする。視界の横に再びミコの姿が映り始めた。


「そうして恵美さんと亜美さんは、今のアパートに越してきた。でも、それからほどなくして恵美さんの元から亜美さんは消えた」


 そう言い終えると、ミコは俺の目の前で立ち止まった。最初に出会った時と同じ、何かを見通しているかのような澄んだ瞳で、まじまじと俺のことを見ている。

 そしてミコは最後にこう告げた。


「ねえこれって一体、だれがいけなかったんでしょうね」


          〇


 それから数日後、俺は全てを信明氏に報告した。彼は最初こそ冗談はやめろと笑っていたが、俺があまりにも真剣に語るその表情に最後には口をつぐんだ。結局、そのことは徳治氏や真紀子氏にも伝えられ、徳治氏の浮気はその後すぐに発覚してしまった。彼から何十件と鬼のように電話がかかってきたが、着拒にしてすべて無視した。もう、すべてがどうでもよかった。


 俺はあれからずっと考えている。今回の調査で明らかになった夕香ちゃんの失踪とその親友、亜美ちゃんの死の要因。それらは全て、あの歴史的な経済危機であるバブル崩壊が裏で糸を引いていたのだ。俺は銀行員として間接であれ、それに大きく加担してしまった。これは氷山の一角だ。こんなことがこの街、いや日本中の至る所で起きているのではないだろうか。それなのに、俺はこんなのうのうと普通に暮らして、普通に生きている。そんな資格が俺に果たしてあるのか。


 ずっと、ずっと考えていた。もう何日もそうして部屋に引きこもっている。

 心配する両親に俺は何も打ち明けられずにいた。


 ある夜、そんな俺を親父がドライブに誘ってきた。車に乗り込み、目的地なんか決めないで自由気ままに夜の街を走り抜ける。小学生の頃、親父の休日によくそうやって連れ出してもらっていたことを思い出した。だが俺は何も言わず、ただ外の景色を眺めていた。


「圭一、次どっち行きたい?」

 信号待ちをしていた時、そんな風に親父が訪ねてきた。


「どっちでもいいよ」

 そう言いかけた俺は正面の案内看板を見て、一瞬思考が停止した。



『夏目湖ダム ↓3 km』



「左」

「え?」

「左に行ってくれ」


 俺のただならぬ様子に親父は困惑しつつも車を左折させた。何も言わない俺を親父が心配そうに見つめている。道を進んでいくにつれて、周りに民家はなくなり、うっそうとした木々が道を覆い始めた。見覚えのある道だった。


 勾配が急になってきて、エンジンの唸る音が次第に強くなっていく。対向車とは一台もすれ違わなかった。やがて俺達を乗せた車は、ダム管理棟の前までやってきた。


「もうこれ以上はいけんよ、帰ろう」


 そう言う親父を無視して、俺は車を飛び出すと丘に向かって全速力で走り始めた。俺を止めようとして、親父も車を降りてきたがそんなこと気にもならなかった。


 今は一月上旬。謎の少女に出会ったあの日に比べて、格段と気温は下がっているはずなのだが、俺は全く寒さを感じなかった。丘を這いつくばるようにして登っていく。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、」


 白い息が断続的に俺の口から漏れ出す。後ろから親父の呼ぶ声が聞こえてきた。俺はそのままベンチまで歩いていくと、それを思い切り蹴飛ばして横へずらした。赤黒い土が月明かりに照らされて姿を現す。俺はその土を固く踏みしめ、深く息を吸い込んだ。湖の上に、祈る少女の姿が目に入る。


「もう、終わりにしよう」


 俺は静かに鈴を鳴らした。

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