夏、少女。 前篇
夕刻、読んでいた本を閉じてため息を漏らす。アルミサッシの窓枠がオレンジ色に染まっている。そこから射しこむ鋭い陽光に、今日がもう終わってしまうのだとそう感じた。祖母の家から持ってきた振り子式の時計が、カチ、カチと音を立てながら時を刻んでいる。結局、今日も仕事の依頼は一件も来なかった。俺はすっかりぬるくなってしまったコーヒーを一口すすった。
こんなはずじゃなかった。
思わず、そんな言葉が脳裏をよぎる。大学を卒業したあと、俺はとある都市銀行へと就職した。両親は、全国でもトップレベルだと言われていたその銀行に、まさか自分の息子が入行することになるとは微塵も思っていなかったらしい。内定を伝えた時の両親の顔は今でも忘れない。
親父は某自動車メーカーの下請け会社を経営していて、日がな一日、家の近くの工場で油まみれになって働いていた。お袋はそれを財務管理の面から支えるため、俺が生まれてから簿記の資格を取ったらしい。就職活動で金融機関を志望したのは、そんな数字に強い母に育てられたことが一つの要因だと思う。
小学生の頃、親の仕事に関する作文を書いてくるように言われた。クラスメイトのほとんどが自分の父親はどこどこに務めるサラリーマンだと鼻高々に発表する中、俺は小さな町工場で働く両親を誇らしげに語った。もちろん中にはそれを馬鹿にするやつもいて、子どもながらの純真さに心が傷ついていた。だがある時、そんなことがまるで気にならなくなった。
それは夜中に用を足そうと一階に下りた時のことだ。ドアの隙間からその作文を見てすすり泣く親父の姿を見た。その時から、俺はどれだけ両親のことを馬鹿にされようとも、全く意にも返さなくなった。そして、俺は工場で働く両親を見るたびに必ず恩返しをすると、必ず両親にとって自慢の息子になるとそう誓ったのだった。
銀行員になってから、俺は配属の関係で地元を離れ、とある地方都市へと移り住んでいた。遠方で暮らす両親は俺のことを心配して、よく連絡をくれていた。当時は携帯電話なんてものはなく、また多忙で家を不在にすることが多かったため、俺のいる支店にこっそり電話をかけてきていた。親父は愛煙家で声がかすれていたので、少々老けて聞こえたのだろう。営業課の俺のもとには高齢者からの連絡がよく来ていたので、誰にも怪しまれることは無かった。
「お前、最近はどうだ」
「ああ、おかげさまで元気にやってるよ」
「そうか・・・そういえばな、お前ンとこの銀行さんが家に着て、借り入れをうちに変えないかって話を持ってきたんだが」
うちみたいな小さい会社にも都市銀行が借り入れの勧誘をし始めているということに、俺は若干の違和感を覚えたが、最近は銀行の大企業離れも加速していると聞くし、資金力のある都市銀行がバックにいるとなれば、親父の会社も少しは楽になるだろう。それに親父のことだから、息子の俺が同じ銀行に勤めていることを担当者に話してしまっているに違いない。恩は売っておいた方が、後々何かの役に立つ。俺はそう思って、借り入れ先の乗り換えを容認した。
事態が一変したのは数年後のことだった。
日銀の金融引き締め政策によって、株価や不動産価格は急落。企業への融資は土地を担保に行われていたので、その影響で金融機関は嫌がらせのように貸し渋り、貸しはがしを行った。無論、親父の会社もその対象となった。親父からの連絡はパタリとなくなった。
だがもし連絡が来ていたとしても、俺には親父に構っている余裕なんてなかった。営業課に所属し、銀行員として大勢の顧客に大量の融資をしていた俺は、連日連夜その回収に追われていた。今思えば、土地神話なんて在りもしないものをみんなが信じて行った融資だ。そんなもの回収できるはずがなかった。当たり前だが、回収できなかった場合は、担保である土地や物品を差し押さえることになる。
俺は親父のようなバブルの犠牲者をたくさん生んだ。なので、かまっている余裕がないなんて言うのは建前だ。本当は親父に何と言ったらよいかわかなかった。
一九九九年、日本のバブル経済が完全に崩壊しきったその年。俺は銀行を辞めた。うちに帰った俺を待っていたのは、依然会った時よりも一回りも二回りも小さくなって、やせ衰えた両親だった。工場は既に跡形もなく取り壊されていた。もう、何も残っていやしない。
それなのに両親は俺のことを温かく迎え入れてくれた。
「おかえり、圭一」
両親のその言葉に、俺は涙があふれて何も返せなかった。
それから数か月後。俺は地元での再就職を目指し、中途採用の試験や面接に奔走していた。結果は空しいものだった。当たり前だ。元々働いていたあの銀行でさえ、合併吸収されてしまうような不況の中、俺を雇ってくれる会社などどこにもなかった。
それなら自分で開業してしまえばいい。開業に手間もかからないし、まとまった資金も必要ない。それに昔から推理小説が好きだったということもあって、俺は探偵を始めることにしたのだった。疲労と困窮で頭がおかしくなっていたのだろう。
早速、開業届やら探偵業開始届とやらを所定の機関に提出し、その翌日から営業を開始した。
『大田探偵事務所』
それが俺の屋号だ。オフィスは近くのビルの二階を借りた。不況で借り手が全くいないのか、大家が破格を提示してくれたので即決だった。親父やお袋は最初こそ動揺していたが『自分たちは年金で何とかやっていけるから、お前の人生はお前が決めなさい』と背中を押してくれた。親父はこれまでの伝手を使って、探偵業の広告さえしてくれた。
〇
それが今から一週間前のこと。仕事の依頼はまだ一件も来ていない。俺はというと、朝から晩までミステリー小説を読み漁る日々を送っていた。今日読んだのはクリスティーの『春にして君を離れ』。円満な家庭を築き、三人の子どもを立派に育て上げたある女性が、旅の途中で出会った友人の一言からこれまでの人生に疑問を抱き始めるというストーリーだ。自分が正しいと思ってやってきたことの数々、それを思い返せば思い返すほど、自分は本当に良き妻だったのか、良き母だったのか、そして人として正しいことをしてきたのかと自問自答することになる。彼女のアイデンティティが揺らいでいく様になんとも言い表せない美しさを感じる一作だ。
ある説によると、これはクリスティーが彼女自身のことについて描いた作品だとも言われているようで、確かにその内容は彼女の失踪時期の出来事と重なるところが多い。まあ、作中には事件が一切出てこないので、探偵をする上で何か学ぶものがあるのかと言われれば疑問が残る。
さて、こんなことをしていては食い扶持に困るのではないか、親の脛をかじって恥ずかしいとは思わないのかと思われかねない。実を言うと、幸いにも銀行員時代の貯金が相当な額あったので、食うには困っていなかった。だが、いつまでもこのままというわけにもいかない。わかってる。わかってはいるが、焦ったってなにもできない。探偵は自分から仕事を売り込みに行くことが出来ない。ただただ待つことしかできない。銀行員時代の経験が全く生かせない。それがもどかしかった。
ジリリリリリリン―――――
突然、けたたましいベルがデスクから鳴り響く。電話なのだから突然なのは当たり前なのだが、何しろ一週間まるまる黙りこくっていた黒電話だ。紛れもなく、それは突然のことだった。驚いて跳ね上がった心臓を落ち着かせ、俺はそっと受話器を手に取った。
「はいもしもし、大田探偵事務所です」
「あっ、大田さんですか。お久しぶりです酒井です。酒井信明です」
ほらあの酒井工機の、と電話の向こうの相手は続けた。すぐにピンときた。銀行員時代のお得意様だ。バブル崩壊前の絶妙なタイミングで会社を売却し、それからは隠居生活を送られていたお客様だったので、恐らく俺に対する印象が損なわれていないのだろう。
「あ、これはどうもご無沙汰しております、酒井さん」
自分を憶えてくれていたのがそんなにうれしかったのか、信明氏は早口で昔話を始めた。俺も家族以外の人間と話すのは久しぶりのことだったのでそれに応じる。初めて会ったときはこんなに頑固な人は世の中に二人といないと思っていたが、めげずに真摯に向き合い続けたところ、心から信用を得ることができた。一度、「君を息子のように思っているよ」と夕食の席で言っていただいたこともある。忘れるはずもない。
「いやァ、あの景気の良かった頃が懐かしいですよ」
「本当ですね。あれからずいぶん世間も変わってしまいました」
「まったくだねェ、いやはやほんとに・・・」
一通り挨拶を済ませると、信明氏は声のトーンを落として本題に入った。
「大田さん、噂で聞いたよ。あんたァ探偵はじめられたんだってね」
ええ、まあと曖昧に返す。探偵を始めたと言っても、まだ探偵らしいことは何一つしていない。
「そりゃあよかった。それじゃあ大田さんね、ちょっと一つ頼まれてほしいんだが」
信明氏は少し間をおいて続けた。
「うちの孫娘を探してやってくれないか」
〇
その子の名前は夕香ちゃんというらしい。三ヶ月前の土曜日、夕香ちゃんは図書館へ出かけたきり、家に帰ってくることはなかった。その日の夜には捜索願が出されたが、警察の捜査も虚しく、夕香ちゃんはあえなく行方不明となった。
「急ですまないんだが、詳しいことはうちの倅に聞いてもらいたい。明日にでも連絡を寄越すよう伝えておくから」
と信明氏は続けた。
翌日、開業時間ぴったりの朝九時に電話がかかってきた。親父さんに似て、几帳面な息子さんなのだろう。電話口の男は丁重に挨拶を済ませた上、俺に住所を教えた。ここから車で一時間ほどのところだった。チャイムを鳴らすと、四、五十代くらいの女性が俺を出迎えた。
「あら、随分とお若い方ね」
その女性は優しい目をしてそう言った。女性は夕香さんの母親・真希子氏だった。靴を脱ぐと真希子氏は俺を連れて廊下を進み、一番奥の扉を開けた。その部屋には、四角い黒縁のメガネをかけた男性が一人、ソファに腰掛けていた。男性はこちらをみると立ち上がって軽く頭を下げた。
「どうも、酒井の息子の徳治です」
徳治氏はそういって名刺を差し出す。そこで俺は自分の名刺を持っていないことに気がついた。すっかり失念していた。あんなに時間があったのだから発注しておけばよかった。
恥ずかしさから赤面する俺に徳治氏は「大丈夫ですよ」と優しく微笑んだ。信明氏をはじめ、徳治氏も真紀子氏も、酒井家の人間はみな本当に人柄がいい。前職の関係で人を見る目は相当養われたが、酒井家は誰もが羨む理想の家族なのではないだろうか。そんなことを考えながら席についた俺の元へ、真希子氏がお茶を持ってきてくれた。すると徳治氏は胸ポケットからタバコを取り出して火をつけて、俺に話し始めた。
「いきなりお呼び立てしてしまい、申し訳ございません」
徳治氏は深々と頭を下げた。
「親父からすでにお聞きになっているでしょうが、娘を探していただけませんか」
信明氏から聞いて大枠は知っていたが、話を聞くと、ところどころ妙なことが明らかになった。まず、夕香ちゃんには行方不明になるような動機がなかったということ。警察は自殺の線もあると踏んで捜査を進めていたようだが、ご両親曰く、夕香ちゃんにそんな様子は見られなかったという。また高校は推薦が決まっていて、悩むことは何もなかったはずだと徳治氏は続けた。
「そうですか・・・他に何かありますか」
俺の問いに徳治氏は煙を吐いて続けた。
行方不明になってから一か月後、夕香ちゃんの自転車が夏目湖の近くで発見された。それはまるで、昨日まで自宅にあったかのように綺麗な状態だったらしい。近くで自転車に乗った夕香ちゃんを見かけた人がいたそうだが、それ以外に何も手掛かりはなかった。もちろん湖の中や周辺の山林も捜索されたが、夕香ちゃんは見つからなかった。また自転車には夕香ちゃん以外の指紋が残されていなかったことから、警察は事件性がないとみて捜査を打ち切ったそうだ。
「大田さんもこの辺にお住まいならおわかりでしょうが、夏目湖はここから曲神山の方へ少し上ったところにありますでしょう? なんだか妙だなァと私思いましてね」
何か自分たちにもできることはないかと、徳治氏は自転車の発見場所へとすぐに行ったのだという。そして、そこで徳治氏は奇妙なものを見つけた。
「それが、これなんですが・・・」
それは直径6センチほどの銅色の鈴だった。随分と古いもののようだが、特に模様は描かれておらず、緑青が発生して若干緑がかっている。神社の屋根みたいな色合いだった。
「警察にも持って行ったんですが・・・」
「娘の件とは関係ないだろうって」
真紀子氏が虚ろな目をしてそう答えた。
「わかりました。ありがとうございます」
そこで、俺はあるものに気付いた。
「あの、それはなんですか?」
二人が後ろを振り返る。
そこにはピンク色の包装紙で綺麗にラッピングされた小さな箱が置いてあった。
「ああ、これ」
真紀子氏がそれを手に取って俺に見せた。
「これは娘が欲しがっていたものなんです」
真紀子氏によると夕香ちゃんが失踪した日の翌日、八月二十七日は彼女の誕生日だった。その日は自宅で誕生日会を予定していて、すでに友人を何名か招待していたそうだ。
「そうですか。ちなみに中身はなんですか」
俺の問いかけに真紀子氏が間髪入れずに答える。
「数珠です」
意外な答えに驚きが顔に出てしまったのか、真紀子氏は笑って続けた。
「あの子、小さい頃から変なものを欲しがるんです。あれはいつだったかしら、小学生くらいの時分に、このくらいの大きさの招き猫をねだられて・・・」
真紀子氏が両手で軽く円を描く。そんなこともあったなぁと徳治氏も口元を緩ませた。
「よその方は変に思われるでしょうけど、私たちはいつものことだと思って買ってあげたんです」
なるほど。それならなにもおかしいことは無いか。そう思ったが俺は念の為、中身を確認したかった。何がヒントになるかわからない。推理小説でもよくある展開だ。
「あの、こんなことをいうのは大変恐縮なんですが、中身を見せていただいてもよろしいですか」
俺のお願いに、二人は目を合わせて答えた。
「私たちも、これまで何度も開けようかと悩んだんです。でも、」
「いや、大田さん。いいです、開けてください」
タバコが灰皿に押し当てられて、ジュッと音を立てる。
真紀子氏のためらいを退けるようにして徳治氏が俺に箱を差し出した。
「娘が見つかる可能性が少しでも高まるなら、俺は何も厭わないつもりです」
「ありがとうございます。しかし傷をつけてはいけないので、徳治さんか真紀子さんどちらかに開けていただいてもいいですか」
途端、真紀子氏が泣きだす。無理もない。これはもしかしたら娘への最後の誕生日プレゼントなのかもしれないのだ。徳治氏は固く口をつぐんで頷くと、後ろの棚からカッターを取り出して、ラッピングを解き始める。
「ん?」
徳治氏の手が止まる。
「おいお前、これ一度開けたのか?」
真紀子氏が目を丸くして答える。
「いえ、私は何も・・・」
徳治氏は眉をひそめると、素早くラッピング用紙をどけて箱を開けた。
「・・・なんだこれは」
箱の中に数珠はなかった。正確には数珠が置いてあったであろう詰め物の上に、河原で拾ってきたような石が置かれている。真紀子氏は驚いて声も出ないようだった。
〇
結局、数珠は見つからなかった。真紀子氏曰く、包装は自分で行って、その前に何度も中身を確認したので入れ忘れることなどないとのことだった。それにちゃんとした宝石店で購入したのだろう、鑑定書らしきものが敷物の裏に入っていた。
数珠は恐らく、夕香ちゃんが持ち出したのだと思う。それが事件と何の関係があるのか。今はまだわからない。俺は徳治氏から自転車が見つかった場所の写真と、関係ないとは思いつつも、念の為、銅の鈴を預かって酒井家を後にした。家を出る時、徳治氏が俺に声をかけた。
「あの、大田さん」
「はい、なんでしょうか」
振り向く俺に、徳治氏は少し言いにくそうに門の外まで出てくると、静かにこう告げた。
「くれぐれも娘以外のことは何も詮索しないでください」
何を当たり前のことを思ったが、俺はその言葉の意味をすぐに知ることとなる。
カバンに入れた鈴が静かに震えた気がした。
〇
俺がまず向かったのは夕香ちゃんが最後に出かけたとされる図書館だった。車を駐車場に停め、入口に目をやる。
『雨乞町立第二図書館』
図書館の名前がデカデカと書かれている。昔よく来た図書館だった。小学生の頃、家だと勉強に集中できなかったのでよくここで宿題をしていた。ウィーンという音を立てて、入り口の扉が開く。図書館の中は本から発せられる古い紙特有のにおいが充満していた。このにおいを嗅ぐとトイレに行きたくなる人も中にはいるそうだ。なんでも紙のにおいがトイレットペーパーのにおいと似ていて、脳がトイレにいると混乱するらしい。けったいな話だ。
図書館に入ると俺は真っすぐ受付に行って、見知った顔に声をかけた。
「よう、元気か」
急になんだと女性が顔を上げる。
「あら圭ちゃん、こっち帰ってきてたんだ」
そこにいたのは幼馴染の大門ちさとだ。
大学は別々になってしまったが、小中高と十二年間一緒だった。
「どうしたの? こんな辺鄙な図書館に来て。思い出巡り?」
ちさとはにこやかに笑って続ける。
「いやな、実は今、探偵をしてて・・・」
分かってはいたが、そこから夕香ちゃんの話に繋がるまでに二十分くらいはかかったと思う。ちさとは気になったことをそのままにしておくことが出来ない性格だ。洗いざらいこれまでのことを聞かれた。
「へぇ、じゃあ圭ちゃんは今、その女の子を探すのに躍起になってるってことね」
腕組みをしたまま、ちさとは関心関心と呟いた。
「ああ、それでお前に頼みがあるんだ」
「頼み?」
ちさとは怪訝な顔をする。
「まさか、私に相棒をやれって言うの?」
そんなわけはない。俺は呆れて返答した。
「違うって。ちょっと調べて欲しいことがあるんだよ」
「へ?」
キョトンとした顔をするちさとを見て、相変わらず昔のままだなぁと思った。
中学生や高校生の頃から何も変わっていない。でもそんな能天気なところが嫌いじゃなかった。
俺は事情を説明した。行方不明になった夕香ちゃんが最後に向かった図書館。というよりも、両親がその点に何も疑問を持っていなかったということは、夕香ちゃんは普段からよく図書館に行っていたはずだ。つまり、ここに何か手がかりがある。だから、彼女が最後に読んでいた本について知りたい。そんなことを一通り話し終えるとちさとは「伊達に探偵してないねぇ」と俺をおちょくった。
「いいよ。ちょっと待ってて、すぐ調べるから」
ブラウン管テレビのような見た目をしたパソコンに向き直ると、ちさとはカタカタとそれをいじった。
「ん、あった。これかな」
ちょっとこっち来て、と言って彼女は俺に手招きをした。
カウンターを回って、俺はちさとの横で腰をかがめて画面を見る。
【貸出・予約状況照会】
利用者情報・サカイ アカネ(十四歳)
貸出予約・該当ナシ
「これだこれ、ちょっと印刷お願いしてもいいか?」
「いいよーほんとはダメだけどー」
ちさとがマウスを使って何やらクリックすると、後ろのコピー機がガコガコと動き出す。
しばらくすると一枚の紙が吐き出された。
「あいよっ」
「ありがとう、恩に着るよ」
受け取ってすぐにその記録に目を通す。貸出は過去十二回行われている。そのうちの五回は小説、四回は何かの参考書、二回は女性雑誌のようだった。
そして最後の欄に書かれたその名前に俺は顔をしかめた。
曲神のひとびと 本郷公孝
八月二十一日・貸出 八月二十六日・返却
この中で明らかに異彩を放っている一冊があった。何かの学術誌・・・だろうか。小説や参考書の類ではなさそうだ。とにかく今すぐにでもこの本が見たい。
「なあちさと」
「ん、なに?」
「ここに書いてある“曲神のひとびと”って本、今借りられるか?」
ちょっと待ってねーとちさとがキーボードを叩いた。
「あっ」
「あったか!」
「あぁー」
ちさとは静かに首を横に振った。
いかにも図書館に何十年も眠ってますよとでも言いたげなタイトルをしているというのに、そんなに有名な本なのだろうか。落胆する俺に、ちさとは予約するかどうかを尋ねた。予約するに決まっている。俺は即答した。
「ちなみになんだが、この本って結構人気あるのか」
「え? いや全然ないよ。貸出回数4ってなってるもん。しかもこの本、ここら辺じゃうちの館にしか置いていないのに他所からの予約も一件も入ってないわ」
なんでこの子、こんな本読んでたんだろうねとちさとは続けた。ふとそこで疑問が浮かんだ。
「この本、今借りてる人の情報ってわかったりするか?」
「え、うん。そりゃわかるけど・・・」
ちさとは少し周りを見渡してから声をひそめて言った。
「一応個人情報ってやつだし、最近そういうのうるさいんだから圭ちゃんがたまたま画面を見ちゃったってことにしてよねっ!」
言われてみればそうだ。夕香ちゃんのことは親御さんに許可をもらっているのでともかく、赤の他人の情報を見せるのはちさとも気が引けるのだろう。俺は分かったと答えると、そっと画面をのぞき込んだ。
【貸出状況 曲神のひとびと】
ステータス・貸出中
利用者情報・ツキマチミコ(十六歳)
〇
図書館を後にした俺は、夏目湖に向かうことにした。自転車が発見されたのは、ダムの水力発電施設から程近くにある丘だ。車で十五分とかからないだろう。
運転しながら先ほどのことを思い出す。『曲神のひとびと』そして『ツキマチミコ』・・・。名前からして女性なのだろうか、十六歳とあったのでもしかすると高校生かもしれない。ツキマチという女と夕香ちゃん以外にあの本が貸し出されたのは十二年前と十七年前の二回だけだ。直近の一年、いや三ヶ月の間で二回も、それも別の人物かつ年端もない学生があんな本を借りていたなんて、そんな偶然起こり得るだろうか。何かきな臭い感じがする。俺はハンドルを強く握りしめた。
一度帰宅してから出発したので、夏目湖に到着したのは十三時を過ぎたあたりだった。車を降りた俺の頬を少し肌寒い風が撫でていく。辺りはすっかり紅葉シーズンといった様相だった。しかし、今日は休日だというのに誰も紅葉狩りには来ていない。不景気で観光どころではないとでも言うのだろうか。
堤防からダムに溜められた水を見下ろすと、不気味な音を立てて風が通り抜けた。
自転車が発見された場所は、そこから少し歩いたところにある、遊歩道から少し外れた丘の上らしい。ご丁寧にも、写真の裏には簡単に地図が記されていた。先ほど徳治氏が言っていたように、夏目湖は曲神の山間に位置している。今は十一月下旬。きっと冷えるだろうと思って、寒がりの俺はかなり厚着をしてきたのだが、それがかえって裏目に出た。普通に暑い。丘の上に辿り着く頃には若干汗ばんでいた。
「ここか・・・」
俺は胸ポケットから写真を取り出すと、目の前の景色と見比べた。丘の上には朽ちかけたベンチが一つ。すぐ横に一本のブナの木が生えていて、その枯葉がベンチの隙間に挟まっていた。辺りはうっそうと木々で覆われているが、その正面側は更地になっていて、湖が一望できるように整備されている。今が夏だったら、こんなに休むのに適した場所はないと思った。ブナが日差し除けとなって、ベンチに座ってゆっくりとくつろぐことができる。それにダムに溜められた水が青々と輝いて波打つ様は、見ていて飽きない。
なんとなく、夕香ちゃんはここがお気に入りの場所だったんじゃないかと感じた。
俺はベンチにそっと腰掛けた。家へ帰るのはもう少し景色を楽しんでからでもよいだろう。そんなことを思ってふと写真を見返すと、ベンチとブナの木の位置が若干ずれているような気がする。この写真が撮られた時よりも、ベンチが少し後ろの方へ移動させられていた。横方向から見ないとこの違いには気づけない。まあ恐らく、清掃やら伐採の際に邪魔になって少しずらされたんだろう。そう考えて、俺は駐車場へと戻った。
ダムを出発する頃には、もう十四時になっていた。結局、景色がきれいなことくらいしか手がかりはつかめなかった。丘に行ってから車に戻るまで約一時間。最近、時間の経ち方が異様に早くなったような気がする。もちろんそんなのは気のせいだ。というか気のせいということにしておかないと、それが年のせいになりかねないのでそう思うようにした。
山道を抜けて市街地に入る。信号待ちの時、ふと横を見ると天ぷらそばの写真を張り付けた大きな看板がそこに立っていた。そういえば腹が減ったな。朝から何も食べていなかったので、どこかで遅めの昼食でも取ろうか。そんな風に考えながら、大通りから外れて疎水沿いの道を走っていると、なんだか味のある骨董屋を発見した。
「なかなかいいな・・・」
推理小説に出てくる事件の題材として、美術品や宝石の窃盗というのは定番のテーマだ。俺はそれらの作品に出てくる美術品を実際に目にしたいと考え、大学時代はよく美術館や博物館に足を運んだ。だがどういうわけか、そこから骨董品にハマってしまってしまい、一時期、部屋の中がカッパの置物やら南部鉄器の風鈴やら誰がいつ何をモチーフに作ったのかさえ分からない壺なんかで溢れかえっていた。それを見るたびに、どうして汗水たらして稼いだ金をこんなものを買うために使ってしまったのだという思いと、いやこういうものを楽しむ余裕があってこそ、人生の深みが増すのだという思いが交錯した。そういったギャップを感じさせてくれるところが骨董品の醍醐味なのかもしれない。
就職して以来、骨董屋に行く暇なんてまるでなかったので、俺は嬉々としてその店に入ることを決めた。隣に空き地があって、デカデカと赤字で『ピー』と書いた木の板が立てかけられている。恐らくパーキングの『P』を意味しているのだろうが、カタカナで書かれているので少し滑稽だ。俺は敷かれた砂利が砂ぼこりを立てるのを気にも留めないで、そこに車を停めた。
長屋づくりのその骨董屋は、『新井堂』というらしい。最近流行りのギャラリーやらアンティークなんて安易な横文字を使っていないのが、なおさら俺の好みに合っていた。店に入ると奥の方から「いらっしゃーい」と声がする。何も返さないのも不愛想なので、お邪魔しますと小声で言った。相手に届いているかはわからない。いかにも古めかしい棚には、この世のありとあらゆるものが詰め込まれているようだった。
よく見かけるような達磨、こけし、扇や皿なんかのほかに、真ん中がくりぬかれた何かの石、魚をかたどった陶器、シカの角、阿修羅の木像、小さな化粧箪笥、ブリキの飛行機模型・・・そして、これは恐らく南米かどこかの呪具だろうか。黒地に独特な模様の描かれており、目と口の位置にだけぽっかりと穴の開けられたお面まで置いてある。
「へぇ、すごいな」
思わずそんな言葉が口に出る。
「あんちゃん、何かお探しで?」
後ろから突然声を掛けられてハッと振り向く。銀縁の丸眼鏡をかけた老人がそこに立っていた。身長は低いが迫力のある顔だ。年齢は七十代くらいだろうか。古書のようなものを片手にこちらを上目遣いで見上げている。
「ああいえ、たまたまそこを通った時に気になりまして・・・」
「ほう、あんたァ骨董品に興味あるのかい」
老人は相好を崩してそう聞いた。
「はい、大学生の頃に興味を持って小遣いの範囲で買えるものをよく集めていました」
そりゃ感心だと老人は笑う。
「ちょっと時間があるなら少し話に付き合ってくれよ。お茶くらい出してやるから」
ちょうど調査にも行き詰っていたところだったので、俺はそれを快く受け入れた。
老人は『新井』と名乗った。新井堂というからにはそりゃ新井さんが切り盛りしているのだろう。そう思ってはいたが、いきなり新井さんなんて呼んで間違っていたら恥ずかしいので、それを聞いて俺は遠慮なく名前を呼ぶことができた。新井氏は、なんでもここら辺の地主らしく、近くにいくつも倉庫や物置を所有しているらしい。趣味が高じて集め過ぎた骨董品やら民芸品は、そこに保管されているようだ。
続けて新井氏は骨董屋に置かれた品々の解説を始めた。先ほどのお面はどうやらブードゥー教関連のものらしい。彼がまだバリバリの現役だった頃(といっても何歳の頃かは教えてもらえていない)、西アフリカを横断した際に購入したものだと自慢げに語っていた。そのほかにも私が気になったものを指さすと、新井氏は何でも解説してくれた。
「それは天狗の羽団扇。実際に山から下りてきた天狗に授かった物だそうだ」
まあもちろん真偽は定かじゃあないがな、と言って新井氏はガハハと大きく口を開けた。俺はふと、この人ならあの鈴のことも何かわかるんじゃないかと思った。
「そういえばなんですが・・・新井さん、この鈴って何かわかりますか」
ほォーと新井氏は老眼鏡を外して鈴を受け取った。
「こりゃまた随分と古いもんをお持ちで」
「いえ、預かり物なんです。新井さんならもしかしたらこれが何か知っているか思って」
ウーンとかハハァーとか声を上げて、新井氏はその鈴をくまなく観察したが、最終的には唸るばかりで何も答えは出なかった。
「恐らくだが、鎌倉時代中期かそれ以前に作られたものだろう。だがなァ・・・」
その時代に作られたものは、意匠の凝らされたものが多いらしい。平安時代末期から鎌倉時代にかけて、武士の台頭によってそれまでの貴族文化とは異なる独自の文化がもたらされた。それとともに、源平の争乱によって焼失した寺院を再建する過程で仏教に新たな潮流が生まれた。その影響は建築や絵画、彫刻、工芸など幅広い範囲に見られるもので、現代にもその痕跡が色濃く残されている。もちろん鋳造も例外ではない。中でも鈴は密教の金剛鈴、寺院の梵鐘、魔よけの風鈴など様々な種類のものが派生した。それなのに俺が持ってきた銅鈴は何の特徴もなく、一体何を目的として作られたものなのか判然としないようだ。
「わしにゃあ、そのくらいのことしかわからんなァ」
新井氏は残念そうにそう語った。
「そうですか・・・すみません、いろいろと教えて下さりありがとうございました。楽しかったです」
そう言って店を出ようとしたとき、入り口の扉がおもむろに開けられた。
「ごめんください・・・あら」
そこにはいかにも暖かそうなコートを羽織った女の子が立っていた。
「珍しい、お客さん?」
少女の問いかけに新井氏が答える。
「ああそうだ。十年ぶりのお客様だ」
少女はフフッと笑うと、引き戸を閉めて店の中に入った。
〇
その少女は店に入るなり、新井氏に例の物を取りに来たと告げた。それ聞いた彼は、そうだそうだと手を叩きながら店の奥へと行ってしまった。少女と二人、若干気まずい空気が流れる。場を保とうと俺が話しかけると少女はにこやかにそれに応じた。どこまでも見通しているかのような綺麗な瞳をしていた。
その少女の名前は、月待ミコというらしい。俺はその名前を聞いて、反射的にあの本のことについて尋ねてしまった。
「え、ああ、あの本ね。持ってるわよ」
なんなら今あると言って、少女はくすんだ青い表紙の本をカバンから取り出した
『曲神のひとびと』
間違いない。この本だ。俺はすかさず、この本を少し借りられないかと聞いてしまった。すぐに、これは図書館から借りたもので又貸しはできないじゃないかと思い直すが、少女の返答は意外なものだった。
「急を要するのね。いいわ、貸してあげる」
ただし、読み終えたらあなたから図書館の返却ポストへ入れといてね、と少女は続けた。
「ありがとう。助かるよ本当に」
これでまた一つ手がかりが手に入った。今すぐにでも中身を知りたい。そう思って、店を出ようと俺がそれを脇に抱えたとき、少女が俺の手をじっと見つめているのに気が付いた。
「どうかしたの?」
俺の発言が聞こえていないのか、少女は返答しない。なにか悪いことをしてしまったのだろうか。
俺が返事を待っていると、少女はぼそりと呟いた。
「・・・して」
「ん?」
「どうしてそれをあなたが持っているの」
少女は目を見開いて俺を見つめている。
「ああ、これは預かり物で・・・」
「違う」
にべもなく、少女はそう言い放った。違うというのはどういうことだろう。言葉に詰まる俺をよそに、少女は俺の手から鈴を取り上げた。
「これは、ここにあってはならないものよ」
途端、少女の目つきに鋭さが増す。
「訳を話しなさい。なぜあなたがこれを持っているの」
その気迫に圧倒されて、俺は後ずさりした。
後ろの棚に太腿が当たって、陳列された品物が一斉に揺れ出す。
コトン、コトン、コト、コトコトコトトト・・・トン―――――
最後の揺れが収まるのと同時に、俺は恐る恐る口を開いた。
「そ、それは酒井さんという方から預かった物なんだ。本当にただの預かり物で・・・」
そして俺はこれまでの経緯を話した。行方不明になった夕香ちゃんのこと、信明氏からの依頼のこと、そして酒井家への訪問のこと。少女はそれを聞くと、少しずつ顔を緩ませた。
「なんだ、そういうことだったのね」
少女の語気に先ほどの落ち着きが戻る。それに安堵して、俺の口から安堵のため息が漏れだす。何だったんだ今のは、とそんなことを考える余裕さえ生まれた。
「そう、あなたがね・・・」
少女が一歩、また一歩と俺に近づいた。
「じゃあ、いいことを教えてあげる」
明後日の夜八時から九時の間、ホテル『ニューマエサキ』の入り口を見張っておきなさい―――――
少女は微笑を浮かべて俺にそう言った。何のことやらわからず戸惑う俺に、少女は行けばわかるとだけ付け加えた。
「待たしちまって悪いねェ、ほいこれ」
そこでちょうど戻ってきた新井氏が少女に風呂敷に包まれた箱を手渡す。藤色のいかにも上質そうな風呂敷だった。
「どうもっ」
少女は丁重にそれを受け取った。
それを固まったまま見届ける俺と少女を、新井氏が交互に見る。
「なんだい、なんかあったのかい?」
その優しい問いかけに、俺はただ首を横に振って店を飛び出した。




