とある本のハナシ
僕は至って平凡な高校生である。
少々、人よりも小説や漫画が好きなだけのどこにでもいる普通の高校生だ。
ある一点を除いてだが…。
◇
「なぁ、その本なんなん?」
嫌悪感を前面に押し出した表情で彼女は僕にそう言った。リビングで椅子に座る僕の背後に立つ一人の女子高生。容姿端麗な「自称」美少女女子高生、幼馴染の香織だ。
僕は首だけを後ろに回してその問いに答える。
「ホンマにわからんねん…。昨日帰ってきたら鞄の中から出てきたんよ…」
「なにそれ、気持ち悪い…。捨ててまいーなぁ…」
「もちろん、そう思たで。思たんやけどな…」
「思たけど、何?」
「捨てたんやけど、帰ってきたら鞄の中から出てきた…」
「いやいや、それ完全に呪われとるやん…。早よ、遥陽さんに相談しぃ!」
香織は僕から距離をとる。あれは完全にひいている、巻き込まれるのを恐れている目だ。
僕は困った顔で香織をみつめる。
「それが、仕事でこっちにいーひんのやって。だから、数日待って欲しいらしいんやわ…」
「うわぁ…、それは厳しいなぁ…」
「そんなわけで、気持ち悪いと思うし数日は離れてた方がええで…」
「わかったー。ここのソファで寝転ぶのもお預けになるんかぁ…。ここのソファで寛ぐの日課なんやけどなぁ」
「心配してんのそこかよ!」
「あんたのことはもちろん心配してるけど、ソファ大事やん?」
香織はそう言うと満面の笑みを向けてくる。僕はそれ以上つっこむ気が湧いてこず「せやな」と返事した。
香織が自分の家に帰った後、僕は「例の本」を手に取る。今のところ気味が悪いだけの本で何の実害も出ていない。
全体的に色褪せ汚れておりその本が古いモノである事を窺わせている。深い緑色の表紙、表紙はおろか裏表紙や背にも文字や絵がなく、これがなんの本なのか全くわからない。
僕は何の気なしに表紙をめくる。中の紙もところどころに染みがあったり色褪せたりしていた。
中にも題名らしきものはない。僕はさらにページをめくる。何も書かれていないページが続く。ざっと確認してみたが最後まで何も書かれてはいなかった。
「何やこの本。意味が全くわからへん。取り敢えず、様子見するしかあらへんな」
僕は本を閉じるとそれを鞄に戻し、ソファに寝転がる。これ以上考えても無駄だと判断した僕はこの後いつも通りの日常を過ごした。
そして、僕はこのまま数日間に渡りこの本を放置した…。
◇
僕は完全に油断していた。実害がなかったのも原因の一つではあったが、これは普通の本ではない。
何もないまま終わるはずなどなかったのだ…。
僕は昼休みの教室であの本を手に取っていた。
「もうちょい気をつけるべきやったな…」
「どうしたん?」
「あぁ、この本のことや」
「それな。それ、いつ解決するん?」
「あと二、三日で遥陽さん帰ってくるらしいで、それからやな。でも、そうも言ってられんかもしれんのや」
「どういうこと?」
僕は「これ見てや」と言い本を開く。香織は嫌そうな顔をしながらも開かれたページを覗き込み嫌悪感を露わにする。
「何なんこれ?」
そこには黒と朱の二色の線や点でナニカが描かれている。パッと見ただけならただの落書きにしかみえない。
「これだけやとわからんのやけどな、ページを順番に見てや」
ペラ…。
「おぅ…」
ペラ…。
「うわぁ…」
ペラペラ…。
「あぁ…。うん、これは呪われてるわ」
香織がそう言うのも仕方がない。最初のページは落書きにしか見えないが、ページをめくる度にそれが何かわかってくる。
香織が最後に見たページではソレの姿がハッキリと描かれており、僕の方に向かってきているのがありありと分かるのだ。
「これはさすがにやばいよな…。こいつが出てくるのが先か、遥陽さんの到着が先かって、とこよな…」
「そんな感じやな…。その絵が限界まで来たら言うてな。私、そっから数日はソファ諦めるし…」
「そこでもソファ!」
実は香織は次の日からも毎日僕の家のソファで寛いでいた。僕との距離を取るだけで日課はやめられなかったらしい。
微笑む香織に僕はそれ以上何も言うことはなかった。
◇
この日から僕の本を確認する日々が始まった。
朝起きると机の上に置いた本を開き中を確認する。最初のページから最後まで1ページずつ目を通す。昨日と変わっているところがないか慎重に確認していく。
「昨日までのところに変化はないか。変わっているのは新しいページが増えていることだけやな…」
僕が見ているページには一つの絵が描かれている。文字はない。
黒い中折れ帽に黒いスーツの一人の男。僕がそう思っただけで、それが男性なのか女性なのかは定かではない。顔は黒い球体で描かれており表情はわからず不気味だ。
「最初は遠くにおったけど、もう上半身しか描かれてへんのよなぁ。これは、あと数日ってとこかもしれへんなぁ…」
僕は身を守るために御守りと護符である白い札を肌身離さず身につけている。これがどこまで効果があるかはわからないが今はこれに縋る他ない。
「そういや、あの声は何も言うてくれへんな。危険はないってことやろか? それとも、あの声の主にもどうも出来んてことか…」
僕は抗えない不安に苛まれながら、本の男に視線を落とした。
そして、それはついに二日後の夜に訪れる…。
◇
その夜はとても静かな夜だった。物音一つない静寂。夜空には雲一つ見当たらないが月光もない。今宵は新月、世界が闇に包まれる夜。
それは静かに始まった…。
僕は寝息をたててベッドに横たわっている。深い眠りに落ちていてそれには気づかない。
机の上に置かれた「本」。その本の間から少しずつ冷気が漏れ出す。それは、ゆっくりと少しずつ部屋を満たしていく。
本の表紙がゆっくりとひとりでに開いていく。そして、ページが「パラパラ」と音をたてながらめくれていき、あるページでその動きを止める。
ずずずずずずず………………。
開かられた本の中から白い手袋をした指先がゆっくりと出てくる。真っ直ぐに天井目掛けて出てきた手は、手首が出たところで机を掴む。
「うーん、何か寒いな…。んん?」
僕はここで異常な寒さによって目を覚ました。そして、その異様な光景を目にしたのだ。
「手ぇ出てきてるやん…。これはいよいよってやつやな…」
そんな事を考えているうちに、もう片方の手も出てきて机を掴んでいる。そして、本の中から手に続いた腕が出てきたと思ったところであの帽子が姿を現す。
そして、ゆっくりゆっくりと「あの顔」が出てくる。相変わらず顔のパーツはない。ある一点を除いて。
「なんやあれ…、口か? 笑とるんか…?」
球体の下部、真横に向かって横に長く開かれた口のようなものはがある。それは左右の口角が上がっているように見える。
そのニヤッとした笑みは他のパーツがないのと相まってとても不気味に見える。
そうこうしている間に上半身が全て出てきた。
この異様な状況に僕の背中はビショビショだ。パジャマが肌に張り付いてとても気持ち悪い。しかし、そんな事を気にしている場合ではない。
「さて、どーしたもんかなぁ…」
僕はこの状況を打開する術を持ち合わせていない。御守りと白い札だけだが頼みの綱だ。
部屋から出ようにも扉にたどり着くにはあの男の前を横切らなければならない。横切れたとしても扉が開く保証はどこにも無い。
僕にはそんな賭けに出る勇気はなかった。
無い知恵を絞っている間にもスーツの男は部屋に顕現していく。
そして、その男はついに部屋へと降り立つ。
真っ直ぐ姿勢正しく直立するスーツの男。帽子の鍔を触り軽く位置を直す。
身だしなみに満足したのか僕の方にゆっくりと視線を移し、あの口がニタッと嗤う。
「ロックオンて感じやな…」
スローな動きで一歩ずつこちらに進むスーツの男。足音も服の衣擦れの音も一切しない。
美しいとさえ思わせるその所作から僕は目を離せなかった。
そして、スローなその男から自力で逃れられる事は出来ないと僕の本能が悟っていた。
僕はただベッドに腰掛けたまま動く事は出来ない。
僕に近づき見下ろしながら嗤うスーツの男。ゆっくりとしゃがみ、額に汗を浮かべ硬直する僕の顔を覗き込む。僕と男の顔は数センチメートルという距離まで近づいている。
スーツの男は球体の顎の位置に手を当てて首を傾げている。何かを値踏みしているかのようだ。
ポタポタと僕の顎から流れ落ちる滴。僕の顔はきっと恐怖に歪んでいるに違いない。
どれほどの時間見つめ合っていたかはわからないが、突然スッと立ち上がるスーツの男。
男は手を伸ばすと僕の左肩をポンポンと叩いたあと数歩後ろに下がる。そして、帽子を取り胸に当てると片腕を伸ばしてお辞儀をする。映画などで紳士がやるようなあれだ。
そして、姿勢を正し振り返った男は闇の中に溶けるように消えた。
僕は男が消えると同時に大きく息を吸った。先ほどまでは息をするのを忘れていたかのようにたくさん呼吸した。
そして、僕の全身はずぶ濡れだった。ぐっしょりと濡れたパジャマを気怠そうに脱ぎ、それで顔の汗を拭い床に落とす。
「結局、何やったんや?」
僕はそんな疑問を抱えたまま机に向かって歩き出す。本の中身が気になったのだ。しかし、机の前に立った僕の目にあの本が映ることはなかった。あれが幻であったかのように本は消えていた。
「消えとるやん…。あの男は僕の肩触っても御守りとかは反応せんかった。害意は無いってことか…。味方、なんやろか?」
「大丈夫です…」
僕の独り言にどこからかそんな声が聞こえた気がした。
◇
翌日の午後。やっと来訪した遥陽に事情を説明したが明確な答えは返ってこなかった。
現物の本がないことに加え、御守りなども反応しなかったので直近で深刻な問題はないと判断したようだ。
彼の雰囲気からそれだけではない気がしたが、僕はそれ以上を問いただす事はやめておいた。おそらく、未だ知ってはいけない事なのだろう…。
取り敢えず、「本の事件」は解決した。
リビングのソファには香織が転がっている。久しぶりのソファにご満悦だ。
「スーツの男」が何者であったのかはわからない。もちろん不安は拭いきれない。しかし、遥陽も問題ないとしている以上、僕にはどうする事も出来ないだろう。
今は、ソファに転がる彼女の笑顔があるだけで良しとしようと思う。




