灰の花嫁 8
温泉に着いた頃には日が落ちていた。
気分転換のつもりで誘ったテニスだったが、ミリアが思いも寄らない才能の片鱗を見せたことで、当初の予定の何倍にも長引く結果となった。
交代の時間になってもレーロースに逃してくれる気配はなく、まだ時間が残っているからと自らのコートに招こうとした。連れの男性は諦観の表情ですべてに二つ返事をし、幸せ屋は応えられる状態になかった。
そしてこのときだけは、ミリアも遠慮より高揚感を優先した。
しかし、元はと言えば、ただの街の花屋の娘である。
いきなり身体を酷使すればどうなるか、火を見るより明らかだった。
「ごめんなさい。ほんっとうにごめんなさい。いい年なのに、年下の女の子に背負われるなんて信じられないわ……」
ミリアは幸せ屋におぶわれていた。
鉱山鉄道を降り、目的地に向かう道中。石の混じった赤土に一人分の足跡を残して進んでいく。
道という道はなく、風で飛んできた赤土が時間をかけて岩場に積もったという様子だった。灯りも、人通りも二人以外にはない。
向かう先はミリアが教えてくれた。当初は街で一番の浴場に行くつもりの幸せ屋だったが、良い宛てがあるのだと。
「ここよ」
幸せ屋はそれを大きな水溜りだと思った。
岩場に一際大きくできた窪み。一杯に溜まった鉱泉。隙間から流れ出た水分が育む僅かな苔と野草たち。
屋根も囲いもない、自然の秘湯。
入りましょう、とミリアは幸せ屋の背から降り、岩場で衣服を脱ぎ始める。月と満天の星々の逆光に照らされ、ミリアの豊かで括れたシルエットが浮かび上がる。
嫋やかな指先に招かれ、幸せ屋はミリアに倣う。トランクケースを横に寝かせ、赤いマントケープを畳んで上に置いた。アイボリーのワンピースドレス、ロングブーツ、靴下、シャツ、下着。
すべてを脱ぎ終えると、幸せ屋は寒さに両腕で身体を抱いて温泉に指先を浸けた。唇を内側に巻き、熱に侵される境界線を確かめながら、ゆっくりと身体を沈めていった。
「カイが連れてきてくれたのよ。いい場所を見つけた、誰にも言ってない二人の秘密だ、って」
熱で強張った全身から力を抜き、ようやく深く息を吐き出したところで、髪を丸く結い直したミリアが遅れて入ってくる。
「いいんですか? わたしに教えてしまって」
「いいのよ……それに、一人で来るのは少し怖かったの。カイと二人きりの思い出の場所だから、どうしても誤魔化せないでしょう。だから貴女がいてくれてよかった」
言われて、幸せ屋は頬を綻ばせる。
言葉通りの意味でも、彼女がそう話してくれた心境の変化にも、嬉しくなった。
相変わらずの星空だったが、途中から雪が降り始めた。冷たさを感じない優しい雪は薄く岩肌に積もっていく。
「ねぇ幸せ屋さん。今回の依頼、キャンセルできるかしら」
もちろん報酬は払うわ、とミリアは言った。
「それがミリアさんにとっての幸せになるのなら、断る理由はありません」
「そうね……幸せになれるかどうかは、正直何とも言えない。でも、苦しくはなくなったの」
朝起きても、夢の中でも彼の姿を見た。
他人の指先の動き一つでさえ彼の姿を重ねずにはいられなかった。
世の中の全てに敏感になって、ずっと苦しかった。
「周りはなにも変わってないはずなのに。不思議よね。今は落ち着いて悲しめるくらいにはなってるのよ」
「周りは変わらなくても、見えるものは変えられますから。他のものに目を向けることは、今見ているものから目を背けることにはなりません。未来を見て笑いながら、過去を想い返して泣いてあげられるとわたしは思っています」
「ええ、そうね……貴女のおかげで、ようやく見ることが……できたわ」
隣から聞こえてくる声が、少しくぐもって聞こえた。
幸せ屋が様子を窺おうとしたとき。
「幸せ屋さん、上を見て。星が、とても綺麗に見えるわよ……」
「はい。さっきから見えていますが……」
言われて天を見上げた幸せ屋は、ミリアが泣いているのに気付いて、そのまま星を数え始めた。
「本当に、ずっと見てしまいます」
□
報酬は受け取らなかった。
その代わりに次の街までの移動費と、押花が入った栞をミリアから受け取った。
「では、お元気で」
「ええ。長旅気を付けてね」
初めて会った日よりずっと顔色が良くなったミリアが車窓越しに手を振ってくる。
次の依頼先まで列車で丸二日。長距離長時間の移動は最早慣れっこだが、腰と背中の痛みを思うと口の中が苦くなる。
「黒猫さんも、いい子でいてくださいね」
「んな」
ミリアの傍らで行儀よく座る黒猫は、幸せ屋に言われるとすぐ目を逸らした。
やがて汽笛が鳴る。鉄道列車の心臓が鼓動を始める。
「それでは」
「ええ。さようなら」
その日の夜、夢を見た。
ミリアに魔法は使わなかった。
だからこれは偶然見た夢。
亡き人を想う依頼人に出会う偶然が招いた、偶然の偶然。
村が燃えている。
家が燃えている。
柵が燃えている。
人が燃えている。
逃げ惑う人間を、黒いマントケープを着た者たちが殺している。
目の前で子供が捕まっている。
首を掴まれ、地につかない足を暴れさせている。
こっちを見ている。
こっちを見ている。
助けてと言っている。
「助けて! 助けて! 殺さな―—」
悲鳴が消える。
血が飛ぶ。内臓が散る。
目の前に身体と別れを告げた頭が転がる。
こっちを見ている。
□
「——はぁっ! はぁっ……! ……っ」
目が覚めた。
列車の個室。車窓の外は真っ暗だった。
車窓に室内の明かりが反射して自分の顔が映る。
ひどい顔だった。モノクロに映るその顔が、本当に自分の顔色かと思えてしまうくらいに。
下着はぐっしょりと濡れて気持ち悪い。
窓は閉めているはずなのに寒くて堪らなかった。
これは偶然。偶然の偶然。
忘れたい記憶。忘れてしまいたい過去。
「ごめんなさい。ごめんなさい……みんな」




