灰の花嫁 5
「お隣、座ってもいいですか?」
声に顔をあげると、そこにいたのは幸せ屋だった。
「ええ、どうぞ」
だいぶ長い時間座っていたのだろう、ミリアは無意識に手のひらを擦り合わせていた。
一人分の間をとって幸せ屋はベンチに腰掛け、何も言い出しはしなかった。
「……今日、彼と通りのカフェに行ったの。洋梨のパイが有名だって、連れて行ってくれた」
「はい」
「それからお店を見て回ったわ。彼はブローチを勧めてくれたけど、買わなかった」
「はい」
「それで、別れてきたの」
「……はい」
幸せ屋はそれ以上の言葉を決して言おうとしなかった。
「最初は嫌々だったけど、いざ家を出たら向き合ってみようと少しは思えたの。ちゃんと身だしなみも整えて行ったわ。カイのことを忘れて、新しい気持ちになろうって、そう思ったの。でもね、ダメだった。いつもそう。誰の横顔を見てもあの人と重なってしまう」
ミリアの方が震える。目には涙が滲んでいた。
「彼は優しかった。私のことを楽しませようってちゃんと考えてくれてた。でも私の中に誰かいるって、気づいてた……ずっと気づいていたんだと思う」
「ミリアさんは、優しい人ですね」
幸せ屋は優しい声でそういった。
「…………幸せ屋さん」
「はい」
「私、カイのこと忘れたい……でも、本当は忘れたくない」
沈黙。
短い風が一際強く吹いた。
「でも、思い出すたびに辛くなるのも嫌。体の奥が冷たくなって、息が苦しくなる。眠れない夜が何百回あったかわからない。花束を結ぶたびに、あの人が『綺麗だね』って笑った顔が浮かんで……でももう、あの人はいないのに、私は……!」
彼女の声は、やがて嗚咽に変わった。泣き声ではない。深く削れていくような、苦しい音だった。
幸せ屋は彼女の手に自分の手を添えた。
「ねぇ幸せ屋さん。あなたの魔法で、あの人の記憶を全部……消せるの?」
幸せ屋は少しだけ目を伏せた。
「はい、できます」
忘れたくなくても、その身を滅ぼしてしまえば同じこと。
ならいっそ、忘れてしまったほうが失うものは少なくて済む。
すべてを忘れて生きればいい。苦しいのはこの一瞬だけ。
もう一度、消してと、彼女にーー
「でも、わたしは簡単にそれをしてしまいたくありません」
「どうして」
「ミリアさんが心からそう願っていないからです」
「ーー!」
大粒の涙が溢れ、ミリアは両手で顔を覆った。
これは物語の中の話ではない。
もしかしたら兄は名声を投げ出して村に戻り、妹を救うかもしれない。
もしかしたら妹は、苦しみながらも兄が戻るまで耐え抜くかもしれない。
でもカイは死んだ。もしかしたらはあり得ない。
夢はない。酷く薄汚れた、現実を生きるのが幸福に違いない。はずなのに、
「思い出が苦しみに変わるのは、それだけ大切だったからです」
どうしてそれを、選びたいと思えないの。
「一つだけ、方法があるかもしれません」
厳かに告げる幸せ屋に、ミリアは嘆きを止めた。
ずっと抱え込んで離せなかった、愛おしくも痛く苦しいこの気持ちを。
「少し、時間をもらえませんか?」




