灰の花嫁 4
「ミリアさん、こっちにいい店があるんです。ちょっとした菓子が評判で」
リチャードの手にはどこか嬉しげな弾みがあった。手には真新しいガイドブックが握られており、今日のために選んだのであろう場所がいくつか折り目がつけられている。
小道を歩き、大通りまで足を伸ばすと、炭鉱から運ばれてきたばかりの石炭を積んだ荷車が通り過ぎた。石炭の黒くて重い匂いが空気に混じる。
ミリアは一瞬、立ち止まった。
カイも、あの匂いをまとって帰ってきた。頬を撫でて洗面台に向かい、服の袖をまくる。その腕に刻まれた傷の一本一本が彼の生き方そのものだった。
「……ミリアさん?」
リチャードの声にミリアは我に帰った。
「ごめんなさい。なんでもないの」
笑顔を作ったつもりだったが、それがうまくいかなかったことは彼の表情を見てわかってしまった。
□
菓子屋では蜜漬けの洋梨のパイを一つずつ注文し、紅茶と共にテラス席で食べた。風が心地よく、冬の寒さが和らいだ日だった。そんな昼下がりの情景が、彼女にはどこか現実味のない夢の中のような感覚だった。
「貴女のことは、ヘレンさんから聞います」
唐突にリチャードはそういった。ヘレン、母の名前だ。
パイを食べかけのまま、ミリアは動きを止める。フォークの先のパイがふと重たくなった。
「……そう。ごめんなさい」
彼が何を言いたいのか、なんとなく分かっていた。
だから、言われるより早く謝ってしまった。
「なんで謝るんですか。一番辛いのはミリアさんなんです、だから……いや、すみません。伝えるべきじゃなかったです」
「いいのよ。今までの人もみんなそうだったから。正直にいってくれた方が、そうされるよりずっと楽」
終わったと、感覚でわかった。フォークの先が急に軽くなる。何も感じない。空気を食べているみたいだった。
「会ったときからずっと、君は遠くを見ていました。君が無理をしているのは、わかります……僕は、君の過去には勝てないようですね」
彼は嗤った。その一言が胸の奥に鋭く突き刺さった。
否定したかった。勝ち負けじゃないと叫びたかった。でも言えなかった。リチャードが感じている疎外感もまた真実で、自分が与えてしまったものだから。
□
夕暮れ、リチャードとは自然と道を分つように別れた。別れの言葉も、形だけの微笑もなかった。ただ風が少し強くなって、帽子のリボンが靡いただけだった。
別れた後、まっすぐ帰る気分になれなかったミリアは広場のベンチで人の行き来を眺め続けた。
陽が落ちるまでは一瞬のことで、ミリアは足元を丸く街灯に照らされ、行き交う人は見えなくなった。




