灰の花嫁 3
幸せ屋は一度店を去った。
午後からまた、初めて会う男性とデートの予定が入っているのだ。
ミリアは鏡の前で入念に髪を整えていた。小さな帽子を斜めに被り、淡い青のワンピースの裾を撫でる。
棚の上には倒された写真立てと錆びた懐中時計があり、その隣に投げ出されていた手紙を手に取った。『一二時、広場、リチャード・フェイン』今日のデート相手のことが書かれている母からの手紙。
「……カイ……」
□
「この移動劇団が来るの、実はずっと楽しみにしていたんです」
待ち合わせの時、リチャードはそう言って、少し気恥ずかしげに笑った。
厚手のコートに身を包んだ彼は花屋の常連客だった父の影響で花の名前をいくつか知っているらしく、ミリアに対して丁寧な口調で接してくる。付かず離れず、初対面の関係にあるべき距離感を彼はうまく演じていた。
不躾に近づかれるのは嫌いだったが、過去を重く受け止められすぎて遠すぎるのもうんざりしていた。
その普通だけでミリアにはありがたかった。
□
グレイム一座。旅の旅団。
炭鉱の街の娯楽といえば、酒場か市場くらいのものだった。だから華やかな衣装と舞台、大袈裟な台詞回しを売りにする彼らの演劇は子供から老人までが心待ちにする一大イベントだった。
簡素な席。簡易な舞台。それでも人を集めるには十分だった。
ミリアとリチャードは席につき、まもなく幕が上がる。
「本日の演目はーー『硝子の谷の誓い』!」
舞台上。
薄暗い鉱山の村を舞台にした、ある兄妹の物語。
兄は家の中で寝たきりの病弱な妹のために硝子細工を作り続ける貧しい職人だった。そこに王族の使いが現れ、兄の才能に目をつけ都へ招くという。だが兄が村を去れば、妹はひとりになる。
「どちらかを選ばねばならぬとき、お前は何を捨てる!」
問いかけられた兄の口が、黙って閉じられる。
ミリアは劇に集中しようと努めた。
ふと隣を見ると、リチャードの顔が見える。まっすぐ舞台を見つめる目。笑うと頬に細い皺が寄る。
彼は誠実そうだ。礼儀正しく、下品でもない。
そう、ちゃんとした人だ。
誰かと幸せになるべき人だ。
舞台上。
兄は王都に行くことを決意する。
「この技術は王国を変えるかもしれない。私がいなくともお前は強く生きられる。村の皆もいる、誰も優しくお前の力になってくれるだろう!」
兄の言葉に妹は頷く。
「お兄さま、行って! あたしはここにいる。ずっと、ここで待ってる!」
照明が兄の後ろ姿を切り取り、暗転。
ミリアは視線を落とした。
待つ者と旅立つ者。
どちらも苦しい。どちらにもなりたくなかった。
けれど、今の自分はきっと待つ側だ。
カイを失って、いまだ心がそこに縛られたままなのだから。
兄は帰るだろうか。
兄を想う妹は、兄が帰るまで生きるだろうか。
その結末は描かれず、劇は終わった。
拍手が巻き起こる。リチャードもまた控えめに拍手をしていた。
「なかなかよかったですね。あの兄妹の話、少し考えさせられました」
ミリアは、小さく頷いた。
「ええ……とても、よかったです」
言葉が上滑りしているのが自分でもわかった。
劇が終わり、人は散っていった。
リチャードはミリアが立ち上がるのを待ってくれた。
覚束ない歩幅にも合わせて歩いてくれた。
口を開き、何も言わないまま彼の口が閉じられるのを何度か見た。
余韻に唇を震わせている。語りたい口を必死に閉じているのがわかってしまった。
彼は優しかった。
今まで会った誰よりも、この人となら一緒にいたいと思えた。
この人の前で笑っていたいと思った。
「あの、」
今日、初めてミリアから口を開いた。
思いが、言葉が胸から迫り上がってくる。
「どうしました、ミリアさん」
「リチャードさん、私ーーっ」
喉の奥に、急に重い膜が張られたようだった。
ミリアは言葉を詰まらせて咳き込んだ。
壁に手をつき、背中をリチャードがさすってくれる。
ミリアは劇の続きを想像した。
硝子細工の技術は瞬く間に王都に渡しられ、降って止まない名声と財に兄は溺れた。居城も食事も快楽も何一つ不自由ない生活の毎日に、やがて置いてきた妹のことを忘れていく。
そして妹は、日を追うごとにみるみる元気になっていった。彼女の病弱は、実は兄のせいであったのだ。家の中に閉じ込め、自分がいないと生きていけないとずっと思い込ませていた。しかし兄が去り、直接顔を合わせたことなどほとんどない村の人々は涙を流して尽くしてくれ、健康を取り戻していった。非道な兄のことは、恨むでもなく忘れていった。
……なんて、酷い結末だろう。
お互い幸福を得ているのに、はたから見たら薄汚れた話だ。
彼らからしたらそれでいいはずなのに、なんで。
考えて、ああ、と思い知る。
これは自分だ。私の物語で、許されざる結末だからだ。
自分はまだ、兄妹の再会を望んでいるのだ。
決して叶わない夢物語を望んでいるのだ。




