1-12.四
時はアリスが意識を取り戻すよりも、若干遡る。
アリスが異端を宣告されてより、2日が経つ。リリスフィーは誰へも告げずにこの地へ来た。
異端となった娘が監禁されている場所は些細教えられていない。しかし、娘に授けた指輪がリリスフィーを導いた。
翡翠色の魔石に込められるのは欺瞞、追跡、看破。その指輪は追跡の効果を付与された魔道具であった。
リリスフィーは郊外にぽつりぽつりと建つ建屋の中、その1つの前に立つ。誰ぞ見ているやもしれない。リリスフィーは自身の存在を眩ます幻術をかけ、なおも細心の注意を払って建屋に入った。
娘が閉ざされている部屋の前に来た。部屋の内外に幻術をかけ、何が起ころうとも異常が外へ伝わらないようにする。
そうしてから扉にかけられている錠を魔術で壊し、リリスフィーは部屋へと入った。
「っ―――!」
思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。いかに幻術をかけているとはいえ、上げないに越したことはない。ぎりぎりのところで理性が働き、リリスフィーは驚きを飲んで口を噤んだ。
彼女を驚かせたのは血に染まった内装である。灯のない部屋ではあるが、小窓より漏れてくる遠い明かりさえあれば、夜目の利く吸血鬼にとって十分である。
「っ、アリスちゃん…っ!」
この部屋の中にいる者は1人しかいないはず。リリスフィーは娘の名を小さく叫び部屋へと入る。
娘の姿はすぐに見つけられた。部屋の奥、壁際に倒れる娘を見つけ、慌てて駆け寄る。
「っ―――」
首を中心に鮮血が広がっている。リリスフィーは最悪の想像をしながら娘の身体を抱き上げた。
「…、……」
しかしリリスフィーは静かに胸をなでおろした。そこには首から血を出しているものの、首と胴は繋がっている娘の身体があった。
吸血鬼が死ぬ方法は限られている。陽光を浴びる、魔素を全て放出しきる、胴と首を分かつ、心臓を穿つ。その4つだけである。
それで言うと今回、娘は首より大量に血を流しているものの、失われたのは血の中にある魔素だけであり、魂に込められている魔素は失っていない。3カ月も意識が戻らなかったあの時より、状態としては極めて良い方である。
「アリスちゃん…! アリスちゃん…っ!」
それでも不安はこみ上げる。リリスフィーは首の傷を手巾で押さえながら娘の身体を揺さぶった。
「……? 母、様?」
娘は目を覚ました。そして顔を見上げ、自分のことを母と呼ぶ。
「ああ、アリスちゃん…! 良かった、気が付いたのね」
そうしてリリスフィーは娘を二度と離すまいと強く抱きしめ、緩んだ目尻を裾で拭った。
「どうして……私、死ねなかったの……?」
「…吸血鬼が首を切ったくらいで死にはしませんよ、もう―――それにしても、やっぱり死のうと思っていたのね。悪い子」
「っ―――申し訳ございません、母様…でも―――」
娘の言葉を、軽く手を添えてとどめる。今は少しでも時間が惜しかった。
「『でも』は今はなしよ―――アリスちゃん。私と一緒に逃げましょう」
「……え?」
娘の口より、驚きの息が漏れる。
「12時間後に陽が沈むわ。今から急いで地上へ登れば、丁度沈む頃に出られるはずよ」
「………」
娘はリリスフィーの言葉を理解できないのか、口を開け閉めするばかりで言葉を紡がない。
絶望により死を受け入れた娘へは、言葉による説明だけでは心を動かせないと悟る。
「…アリスちゃん」
だからリリスフィーは娘の目をしっかり見つめ、己の心を晒して夢を語った。
「地上へ出たら、遠くに行きましょう。もっと地上へ出やすい洞窟を見つけて、そこへ家を建てましょう。昼に寝て、夜には空の下で過ごすの。
自由に暮らすのよ。たまには家を離れて、冒険に出ていきましょう。世界には私だって知らないものがたくさんあるわ。それを見聞きして、色んな事を分かち合って……普通の親子として生きていきましょう」
それは女王としてではない。ひとりの女、そしてひとりの母としての、本心であった。
彼女は前世において、貴族の娘であった。不自由なく生を謳歌できるはずであった彼女の歩みは、生まれながらの病によって閉ざされた。
寝ても覚めてもベッドの上。外へ出歩くことはおろか、定められた部屋以外の出入りを長く禁じられていた、
彼女の生における楽しみは、窓から覗ける外の景色と読書の時間だけであった。外の景色は大きく変わり映えしないが、それでも時折事件を目の当たりにする―――それは事件と形容するのもおこがましいほど些末なことであったが、彼女にとっては通りすがりの婦人が果実入りの袋を落としただけでも大事件だったのだ。
そして読書。本は高価であり、家の主たる父の気に入ったものしか手に入らなかったが、それでもねだって借り、それらを読み漁った。
まだ見ぬ世界、知らぬ社会の話。冒険譚やおとぎ話、学術書から魔術書など、ありとあらゆる本を読んだ。
食べたことのないもの、想像もつかないこと。彼女が手に入れられたものは全て空想の産物であったが、それでも胸の中は満たされた。
そのような生活を十数年と過ごし―――やがて政界の争いに負けた父が位と家を失い、彼女は奴隷として売りに出された。
元々健やかなる身体も美しき容姿も持っていなかった彼女は過酷な奴隷市場の中で生き残れなかった。買い手がつかないままあちこちの市場をたらい回しにされ、そのうちに病を悪化させ、奴隷馬車の中で息を引き取った。
―――そして吸血鬼として転生し、環境も己が身の才も容姿も、すべてが恵まれた生となった。前世でたくさん我慢したから、神様が幸福を与えてくれたのだと喜んだ。
しかし、他の吸血鬼に聞いても自分より不幸な人生を歩んできた者は多い。であれば、自身の感じる幸せを他者にも分け与えようと彼女は振る舞った。
女性最強の名を冠しながらも、慈愛溢れる吸血鬼。彼女は若くして頭角を現し、やがてアーデルセンの目に留まり、婚姻を結んだ。
その間に生した子は、珠のように可愛い娘であった。慣習に従い夫と自身の【名】をそれぞれ継がせ、アリスと名付けた。
この子もきっと前世のつらい記憶に苦しんでいるに違いない。たくさん話し、ともに生きていこうと誓った、出産の日。
しばらくして、娘に前世の記憶がないと判明した時、彼女は衝撃を受けるとともに自分の使命を見つけた。この子はほかの誰でもない、自分の子であると。
前世の記憶がないのであれば、この子にとって親とは自分しかいないのだと。守り、育て、愛し、慈しむことが出来るのは、この世において自分しかいないのだと。
気づいてから、リリスフィーは娘をたくさん愛した。たくさん愛を与えた。それは親と王の2つの顔を持たなければならない夫には出来ない、自分にしか出来ないことだったからだ。
しかし、運命は彼女と娘を引き剥がした。娘は血を飲めず、このままでは異端宣告されるのを待つ身であった。
そんな絶望的な状況の中で、娘へ救いの道を与えたのは母の慈愛でも、女吸血鬼最強としての力でもなかった。
『どんな手を使ってでも、例え娘に恨まれようとも、必ず血を飲ませてみせる…!』
それは父、アーデルセン。律する心を強く持った彼であった。
―――それでも今、彼女は娘を救わんと手を伸ばす。
今思えば、あの時の選択は間違っていたのだろう。夫とともに先の見えぬ望みに縋るのではなく、違う行動を取っていれば娘をここまで追い込まず、傷つけずに済んだはず。
そしてそれは、今からでも遅くない。まだ間に合うはずであった。
「アリスちゃん。私は、あなたと一緒に生きていきたいの」
「…どうして、ですか?」
娘が問う。その声音は震えていた。
「…どうして、私なんかと、生きていたいと―――」
「それはね、アリスちゃん」
娘の震える身体を、より強く抱く。
「私にとってアリスちゃんが、誰よりも何よりも大切だからよ」
「……っ」
びくりと、腕の中が震えた。リリスフィーはその背中を、優しく撫でた。
「―――ありがとう、ございます…」
やがて腕の中から小さくぽつりと、声が聞こえてくるのであった。
「―――母様、地上へ出る前に1つだけ、お願いしたいことがございます」
娘の震えが止まるまで抱き続けた後。
娘より懇願が1つ届けられる。
「何かしら?」
「旅立つ前に父様とお話させて下さい」
「………」
娘が口にした願いに、リリスフィーは困惑を沈黙で返す。
「―――父様はダメよ、アリスちゃん。この件は私が独断で起こすもの。父様へ事前に話をしてしまえば、何かあった時に父様が疑われてしまいかねないわ」
「それは、このままお会いしなくても一緒なのでは?」
「それでもなの」
娘の言い分に、しかしリリスフィーは折れない。
「それでは、父様も一緒に逃げればよいではないですか」
「っ―――」
しかし娘からの更なる追及に、リリスフィーはたじろいでしまう。
夫も一緒に連れていくべき。むしろ、一緒に地上へ出て一生を共に暮らしたい。そう、今でも思っている。
しかし、迷う。アリスが異端であると追及された時、夫は父ではなく王を優先させた。
そんな夫に、王としての責務も民からの信頼も全て捨て、地上へ共に逃げようと言ってしまっていいのだろうか。止められやしないだろうか? それどころか娘と金輪際会わせないように策を弄されはしないだろうか。
今まで長い間愛してきた夫だからこそ、苦悩も分かる。分かるが―――女王であることを捨てた自分と、王であることを優先させた夫。
このまま何も言わずに道を違える方が良いのではないか。むしろ、それこそが信頼の証ではないかと。そう思い込ませようとしてきた。
それを娘から指摘されて、彼女を苦悩が再び襲う。
「―――母様。一度父様とよくお話された方がよいのではないでしょうか?」
「………」
諭すような声音が、胸の内から聞こえる。
気が付くと腕が回され、優しく背を撫でられている。
腕の中で娘が仮面を被るかのように表情を変えたことに、リリスフィーは気づけない。
「大丈夫です。きっと父様も母様と同じ気持ちでいらっしゃるはずです」
「…そう、かしら…?」
「ええ、きっと―――ですから、結果が分かれ道になろうとも、話すことは良いことなんだと思います」
「………」
確かに、そうだ。今まで十数年来、共に歩んできた自分達だ。ましてや、あの夫のことである。
どんな道を選んだとしても―――娘にとって悪い選択をあの人が取るはずがなかった。
「…そうね。私、ちょっと焦ってたみたい」
そうしてリリスフィーは立ち上がり、裾をはたいて小窓の向こう―――ナトラサの中心街モーベを見た。
「アリスちゃん、ごめんなさいね。ちょっと私、父様とお話ししてくるわね」
「はい、母様」
「そうしたらどんな結果になっても父様を連れてくるから―――少しの間、待ってて頂戴ね」
「分かりました、母様」
それじゃあと、リリスフィーはアリスに背を向け、扉を開ける。
「あ、それと。地上に出たらその母様っていうのはやめましょう。私達は女王でも姫でもなんでもない、ただの普通の親子になるんですから」
「……分かりました、母さ―――お母、さん」
「ふふっ、まだいいのよ。じゃあね、アリスちゃん。アリスちゃんのことは、命に代えても守ってあげるから」
そう言って、リリスフィーは部屋を出る。
目指すは自宅―――王の住まう、邸宅である。
「………」
そうしてひとり残されたアリス。
彼女はしばしの間黙して待ち、やがて歩き出した。
目指すは扉。自分の爪では裂くこと敵わない、分厚い鋼の扉である。
「………」
固く閉ざされていたその扉は今、簡単に開いた。目論見通り、アリスは地に落ちていた壊れた錠を見て、笑った。
「ありがとうございます、母様」
そして、ごめんなさい。
アリスは歩き出す。彼女が目指すは地上―――陽光照らす、死の大地である。
【Tips】名
子に名前をつける時、名付けの慣習のある種族が存在する。
例えば吸血鬼。彼らには姓がない為、生まれた子に継がせるのは男児であれば父から2文字、母から1文字の名。女児であればその反対。
その慣習はナトラサが拓かれる前から続く仕来りである。例外は基本的に認められない。




