1-10.3日前 血呑みの儀
アリスたちの前に4人のヒトが並べられている。
黒毛が一人、赤毛が一人、金毛が一人、茶毛が一人。彼らは闘争の儀において彼女たちの前に立ちはだかった生贄であった。それぞれが喜々とした表情で腕の皮膚を切り、目の前の大きな杯に向かって血を流し込んでいく。
それをカネル、リカ、ソーライは神妙な顔つきで見つめている中、アリスだけは鬱々とした目で見やるのであった。
それは遡ること1週間前―――
「…血呑みの儀?」
アリスは困惑を表情に映し、言われた言葉をそのまま問い返した。
「そー、血呑みの儀ー。まだ成人の儀、途中だったからねー」
アリスの声に、見舞いに来ていたリカが答える。
そう、彼らの成人の儀はまだ終わっていない。今年はイレギュラーなことが多く、アリスが意識不明のまま目を覚まさないということもあり、彼女達のパーティーだけ儀式が延期されていた。
つまり、彼らは仕事を割り振られる選別の儀が出来ていない為全員が無職。リカが毎日アリスの部屋に入り浸ったり、ソーライが自身の魔術研鑽に日夜を問わず精を出していたり、カネルが狩りにいく大人たちに片っ端から付いていくのも、皆時間を持て余している為であった。
そんな、自分のせいで皆の成人入りを遅らせてしまっている現状を知りアリスは不安を飲み込み、血呑みの儀への参加を表明したのであった。
そして今、血呑みの儀が始まろうとしている。
今年、鳴り物入りで新成人を果たす彼ら。一流の戦闘力と判断力を持つカネル、神術を執行するリカ、若くして中級魔術を扱うソーライ、そして深窓の姫アリスを一目見ようと多くの見物客が押し寄せていた。
(どうしたらいいの…)
アリスはこの場に置かれてなお、途方に暮れていた。この1週間、血が飲めないか試さなかったわけがない。
結果は、惨敗であった。
いくら痛覚がなくなっても嫌悪感はなくならないらしい。あの味と臭い―――口に近づけるだけで酸っぱいものが喉元まで押し寄せてくる。飲み込んだが最後、堰が決壊したように吐き出してしまう。
あの成人の儀の日まで確かに飲めていたはずのものが、また飲めなくなってしまっていた。それが何故かはアリスには全く分からず、事ここに至ってはもう途方に暮れるしかない。
「さあ、今宵成人を迎える者達よ! 見事闘争の儀の試練に打ち勝った者達よ! 汝らを新たなる仲間として、我らは万感の想いを持て迎えいれよう!」
血呑みの儀における演説も闘争の儀と同様、アリスの父アーデルセンが行っていた。彼の式辞に合わせ、ヒト四人の血が混ざりあった液体を揺らし大杯がアリスの目の前に置かれる。
「若人達よ! 自らの手で討った人間種の血を飲み交わし偉大なる吸血鬼として契りを果たせ! さすれば汝らは今宵、真に吸血鬼として認められるのである!」
そしてアーデルセンの言葉は終わる。アリスは大杯の周りに何も置かれていないことを確認すると、もしかして、と思い父の顔を見る。すると父は、周囲にばれないように小さく頷いた。
それを見て横目で隣を見る。アリスの隣にいるのはカネルだ。カネルもアリスとアーデルセンの意図を汲み小さく頷く。
それを見て意を決したアリスは大仰に杯を手にし、口をつけて中身を流し込んだ―――ふりをする。
そう、血呑みの儀は回し飲みなのであった。そうであれば飲んだふりをすればバレない。次に飲む者が中身が減っていないことに疑問の声を上げなければ良いのである。
順番は親の身分の順番に並べられている。そうなると最初に飲むのは王族であるアリス、次は侯爵家であるカネル。カネルはもちろんアリスの味方なので全力でアリスを庇う。
アリスは必死に飲むふりをした。異臭が鼻にこびりつき、吐き気が込み上げてくるのを必死に耐える。血を唇で堰き止め、緊張と不快感で乾く口の中で必死に唾を作りそれを嚥下して喉を揺らす。
そして杯を下ろす。唇についた血は取り出したハンカチで拭う。いかにも、勿体ないけど舌で舐めとるのが卑しく見えるので拭き取りました、と見えるように上品に拭う。完璧に、演技をこなした。
パチパチパチ……
拍手が起こった。周りの大人たちによる祝福である。アリスは見事血呑みの儀を為し終えたのである。安堵の息とともに微笑を浮かべ拍手に応えると、杯を横にずらしカネルのもとへと―――
「その儀式、少し待って欲しいっ!!」
と、突然拍手に沸く群衆より分け出てきた一人の男が待ったの声を上げる。何事かとその場にいる全員がその男を見ると、新成人の中より反応があった。
「ち、父上?!」
その声を上げたのはソーライであった。ソーライが父と呼ぶ彼はライドン男爵、渓谷近辺の人間種の動向を監視し目撃者を捕縛する重要な任務の責任者である。
「陛下、非礼を承知で歎願したき儀がございます。どうか、ご聴許頂きたく願います!」
ライドン男爵はアーデルセンの方を向き、頭を地に擦り付け陳情する。
彼の出現に、アーデルセンは嫌な予感を覚える。タイミング、口上、必死さ、それら全てから彼の儀の内容を察したからだ。
しかし、それを受け入れることは出来ない。負の感情を決して表に出さず、あくまで平静にアーデルセンは応える。
「下がれ、ライドン。この場は祭事であって政の場ではない。儀があるなら―――」
「恐れながら陛下! この祭事に対しての重大な儀でございます! どうか、どうか!」
ライドン男爵のその必死な様子に群衆はざわめき始める。ライドン男爵の実直ぶりは民の間で有名であった。良くも悪くも政治に向かないと言えば良いだろうか、彼は絶対に自分にも他人にも嘘を許さず真っすぐに己を貫く。だからこそ彼が口を出したことによる騒動が絶えない。
上から好かれずとも民からは好かれる、そんな人物であった。だからこそ群衆はライドン男爵の次の言葉を求め、王へ仰望の眼差しを向ける。アーデルセンはそれを受け……、否と言えるだけの材料もなく、仕方なく首肯する。
「…良かろう、申してみよ」
「はっ、ありがとうございます!」
そうしてライドン男爵は振り返り、アリスの前に立つ。サッと手を振り上げると、それを合図に部下が近づき彼へと何かを渡す。そしてそれをそのままアリスへと差し出した。
「アリス姫! どうかこの血を飲み干し、姫は血が飲めぬという我らの猜疑心を払拭して頂きたく!」
「えっ……」
ザワザワザワッ―――
「ちっ、ライドンめ。余計な真似を……」
彼の一言に群衆のざわめきは最高潮に達した。そして列席者の中の一人、カネルの父であるグーネル侯爵はその様子を見て人知れず舌打ちをする。
部下よりライドン男爵の手に渡ったのはグラスであった。その中には並々と血が注がれており、目の前のそこから漂ってくる異臭がアリスに『この血は飲めない血だ』と認識させる。グラスを受け取ることも拒絶することも出来ず、アリスは戸惑いの目を父アーデルセンに向ける。
「―――ライドンよ、そなたは何を言っているのか分かっているのか?」
「はっ! 私はかねてより噂として流れている、姫は血が飲めぬという話に大変心を痛めておりました。そのような話が市井の間で真であると噂をされてしまえば姫をはじめ陛下、貴方の血と名に謂れもない傷がついてしまう。不忠にも疑心を持つこと、誠に非礼を詫びながらもどうか! 今宵、皆の目が集うこの場において、その疑心を払拭して頂きたく!」
「先ほど、アリスは杯の血を飲んでおったが?」
「…杯の中身など、飲まなくても分かりますまい。血を飲んだという、しかとした証を立てて頂きたく!」
「………………」
ライドン男爵の言葉に、アーデルセンは長らく押し黙った。
彼の心中では怒りが荒れ狂っていた。娘を疑い、王の言葉に耳を傾けず、己の疑念を晴らすために祭事の場へ土足で踏み入る。許されざる暴挙である―――しかし、ライドン男爵の言うことは尤もであったし、そして現実に『それ』は間違っていないのだ。
彼の中で、王としてふさわしい選択をしなければならないという重責と、父として娘を守らなければという気持ちが大きくうねる。この場において、どう対応するのが正しい選択なのか、切実に思考を巡らし―――長い沈黙の後、王は答えた。
「………、良かろう、ライドンよ。そなたの儀、承る」
「感謝致します、陛下」
アーデルセンは折れた。八方塞がりであった。ライドンは謝意を礼で表し、アリスに向かって再度グラスを差し出す。
「………ぅっ」
アリスは差し出されたグラスを受け取った。より強烈な異臭が迫り、呻き声をあげてしまう。
父を見る。そこには王として厳粛にあらんとする顔があった。どうすれば良いかの指示も助けもなく、ただ吸血王アーデルセンの目は冷酷に言っていた。
『血を飲め』と―――
王はアリスを見捨てた。カネルは憤慨し、それでも憎しみの方向を違えず、憎悪の形相にてライドン男爵とグラスを睨みつけた。
「………」
カネルは無言、そして気配を悟られないように一歩を踏み出した。そのグラスを破壊するために。
一瞬のうちにグラスを砕く。それが何の問題の解決にもならないことを知っていたがそれでもこの場でアリスを守るために出来ることは限られていた。
アリスを守る。何に変えても、今度こそ。その想いがカネルの思考を狂わせ、蛮行へと至らせる。カネルはもう一歩を踏み出し、アリスの持つグラスへ手を伸ばす。
「カネル、下がれ」
しかし、寸でのところで制止がかかり彼の手は止まる。この異例の儀の渦中へ更に入って来たのはカネルの父、グーネル侯爵であった。
「事ここに至ってはアリス姫ご自身でしか話は纏まるまい。お前は下がっていろ」
「……くっ」
カネルはその言葉に、易々と手を下げれなかった。彼は知っているのだ、アリス自身ではどうしようもできないことを。血が飲めないのは真実であるから。それを父、グーネルも知っているはずであった。それにも関わらずのこの物言い。カネルは父もアリスを切ると判断したことを知った。
この場において、アリスの味方が完全に自分ひとりになってしまったことをカネルは悟った。
これだけ注目されているのだ、アリスが血を飲めないかもしれないという疑心はこの場を煙に巻いても収まりはしない。
そして王や侯爵から直々に指示を受けているのである、それを反故にすることは許されない。
何より吸血鬼が血を飲むというのは当然―――というよりも『存在意義』に等しい。それを飲めないというのは吸血鬼ではない、ということになる。
群衆からの関心、権力中枢からの指令、吸血鬼としての意義、全てにおいてアリスが血を飲まなければならない条件が揃っていた。
だがカネルはそれを拒絶しなければならなかった。何故か? ―――それはアリスが血を飲めないからだ。
思考は堂々巡りをし、解決策は見つからない。カネルの伸ばしかけた手はわなわなと震え、やがて策も見つからないままに拳は振るわれ―――
ゴッ!
「ぐっ、……アリ、ス……」
刹那、首筋へ衝撃を受け、カネルの意識は刈り取られる。暗く視界が塗りつぶされていく中、守るべき相手に対して手を伸ばすがそれは空を切る。
(ごめん……アリス……)
そして動揺に目を見開くアリスに向かって、心の中で詫びながらカネルは意識を失う―――それがカネルが見た、吸血姫アリスの最後の姿であった。
彼の誓いが果たされることは、なかったのである。
カネルの意識を奪ったグーネル侯爵は息子の身体を地に降ろし、やがてアリスに向かって言い放った。
「アリス姫よ、御身の許嫁の父として発言をお許し願いたい。貴方が血を飲めることを我々は当然と考えている。何故ならば、我々は共に血を飲み生きる仲間、吸血鬼であるからだ。しかし、もし貴方が血を飲めないとするならばこの場を以って貴方を【異端】と認定する」
ザワザワザワッ―――
グーネルの言葉に、アーデルセンは目を見開き、再び群衆がざわめき立つ。
異端。それは吸血鬼であって吸血鬼でないもの。一度異端認定された者は二度と仲間扱いされない。彼と話す者さえ異端とされてしまう仕来りにより強制的に共同生活の輪から弾かれる。そして何かの犯罪を犯した際、それが例え軽い罪であっても最大限に尊厳を恥辱された後に処刑される。
異端認定とはこのナトラサの国における、死の宣告に限りなく近いものであった。
この異端認定はここ十年来、執行されていない。以前にあったのは家畜であるヒト族を自身の種で孕ませ、混血児を産ませた男であった。その者はすぐさま異端認定され、孕んだヒトと混血児は殺処分された―――そしてその異端はひと月の後、自ら太陽の前に出て灰と消えた。
異端とはそこまで恐ろしい制度であり、認定を司るのは国政の中枢たる侯爵であった。勿論、異端の認定に異議を立てられる者はおり、それは最高権力者たる王、もしくは民の半数以上の意見があれば異端認定は撤回できる。
そしてもし異端が撤回された場合、正当な理由なく異端へ追いやったとして爵位を返上する決まりがある為、生半可なことでは異端宣告されない。
それだけ侯爵はこの件に関して腹に据えかねると表明したのである。姫を―――認定を取り消せる王の娘を異端宣告する。つまりそれは、この件で姫を守るのであれば謹んで爵位を返上するという身を切っての弾劾状であった。
しかも内容は『吸血鬼なのに血が飲めない者』の異端認定である。もし王が認定を退けることをすれば大衆は筋の通ったグーネル侯爵の味方に付き、王政への反逆にも発展しかねない。それでなくとも、民に不信感を与えてしまう。
「………、好きにするが良い」
それが分からぬ王ではなかった。最早ここまで追い込まれた以上、アーデルセンにアリスを守る手段は存在しない。アリス一人を切り捨てるか、長年続いた王の血族や平穏な治世もろとも沈むか、二者択一を迫られ、王もアリスを切り捨てたのだった。
アリスは絶体絶命の危機に陥る。
「……、……、……!」
皆が断罪の目を持って動向を見張る中、アリスは恐怖に身をすくめ、唇を震わせ、思考を凍らせた。細かく引き攣った息が続き、もともと白い顔が更に青白く染まっていく。そして―――
パリンッ―――
彼女の手にあったグラスはぐらりと傾き、地へ落ちた。音を立てて砕け、血は地が吸っていく。
新たなグラスを差し出し再度の機会を与える者は今この場にいなかった。グラスを落とした彼女の顔が、それを落とす前から絶望に染まっているのを皆知っていた。
【Tips】異端
吸血鬼はナトラサの国を拓いた際に、いくつかのルールを設けた。
・人間種と交流を持ってはならない
・家畜との間に子を生してはならない
・その他、同族全体に危険を及ぼす行為を犯してはならない
・もし前項を破る者がいた場合は異端として他者との接触、及び夜以外の地上への外出を禁じる
・異端との接触を図った者も異端として扱う
それらは吸血鬼の種を残す為、必要な措置であった。それらがあったからこそ、ナトラサは人間種から存在をひた隠しにでき、今日まで続いたのである。




