1-1.半年前 始まりの日に至るまで
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その日、世界に魔王が蘇った。
崩壊する世界の中心で、銀色の少女は嗤う。
この日、少女は全てを凌駕する力を手に入れた。今世界を壊している災厄も、彼女が振るった一撃が起こしたもの。
地に空いた大穴へ、大地が崩落していく。そんな中でさえ少女は優雅に歩き、やがて跪いて愛する者の手を取った。
「―――父様」
父と呼ばれた者は伏したまま、何かを必死に叫んでいる。悲嘆と絶望とほんの一握りの希望を乗せ、叫んだその声は崩落の轟音に搔き消される。
「あぁ、そうですね、父様」
しかし少女は確かにその声を聞き取った。そしてしっかりと微笑んで、答えた。
「これで、一緒に死ねますね」
これは銀色の少女が全てを手に入れ、全てを失った日から始まる英雄譚。
物語はその半年前。銀色の少女アリスが、まだ無能の吸血鬼と呼ばれていた頃から紡がれる。
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遡ること半年前。世がまだ比較的平穏であった頃。
地底深くにひっそりと拓かれた街の、鍛錬場に金属音が鳴り響く。
「…っ!」
銀髪の少女アリスは唇を引き結びながら短剣を振るう。肩口までの髪を振り乱し、齢11の身体が必死に振るうそれは、どちらかというと剣に振り回されている程度のもの。
一撃。二撃。渾身の力を込めて振るわれたそれは、しかし対峙する相手のナイフによって易々と受け止められ、三撃目にはとうとう弾かれる。柄から手を離してしまいそうになるほどの衝撃に、彼女の口元が更に歪む。
「っ、やああっ!!」
それでも弾かれた勢いそのままに振りかぶり直し、叩きつける。渾身の力を込めたそれも、あっさりと受け止められてしまった。
「雑な振り」
「っ、あっ!?」
相手から短く指摘を受け、アリスは唇を噛んだ。と、次の瞬間には足を無造作に蹴られて転がされる。
「踏み込みも単調」
「っ…!」
すぐに起き上がろうとして、喉元にナイフを突き付けられてしまう。ナイフの向こう側、見下ろされる視線も鋭く冷たい。
「重心、力の入れ方、太刀筋、覚悟―――お嬢様、いずれも足りておりません」
そうしてアリスに降ってくる非難の数々。身じろぎしようにも喉元を押さえられて下手に動けない。
遅れてアリスは愕然とする。振り払おうとした手に短剣の柄が握られていない。転んだ拍子にそれは失われていた。
スッと、目の前の視線が更に鋭く細る。
「加えて得物との一体感も未だ無い。お嬢様、全くもって駄目でございます」
「……はい」
突き付けられたナイフが遠ざかり、対峙していた相手が手を差し伸べてくる。
気遣いではない。その指の握りに義務感以上の感情は込められていない。
「お嬢様。再開です」
否、それ未満であったようだ。
立ち上がり切るより前に手が振り払われる。拍子でアリスはよろけてしまい、その無防備な腹に重たい蹴りが突き刺さる。
「ぐっ…げほっ、けほっ」
「……はぁ」
頽れ咽るアリスの頭上から、冷ややかな嘆息が漏れ聞こえてくる。
今までアリスが相対していた彼女も同じ銀髪、戦闘訓練も含め教育係を務めている侍女であり、名をカリーナという。
「お嬢様。今回は“ヒト族の冒険者の最低限レベル”でございます。打ち勝つのが当然。それでなくとも、せめて十合は打ち合って頂かなければ話にもなりません」
「…はい」
再び答える。しかし真っ向からその言葉に向き合うのは難しい。今日とてアリスは初撃を譲ってもらったにも関わらず僅かに切り結んだだけで返り討ちにあった。
アリスは未だ11歳である。それでいうと普通に考えれば戦いを生業とする冒険者相手に敵うはずはない。
しかし彼女達は【吸血鬼】であった。銀色の髪を生やし、爪は鋼鉄をも裂き、身体能力も魔術適性も類い稀なる素質を持つ、最強の魔族である。ヒト族の冒険者程度、子供であってもねじ伏せることが出来て当たり前。
ただ、アリスは非常に弱かった。ここ吸血鬼の国ナトラサにおいて、物心つく年頃を越えれば敵う相手にすら歯が立たない。
魔術も使えなければ運動神経も鈍い。成長とともに切れ味が増すはずの爪も、未だ普段着を裁断できるくらいのものでしかない。
落ちこぼれ、よりもっと酷いもの。アリスを知る者の中で意地の悪い者は、彼女を指して“無能”と称した。
それを否定できる要素はない。ともすれば引きこもり、閉じこもってしまいかねない状況であったが、2ヶ月後に控えたとある儀式がそれを許してはくれない。
「お嬢様。あと二月で成人の儀がございます」
「…はい」
「その時までにアーデルセン様とリリスフィー様にご安心頂ける程度には強くなって頂かなくては困ります」
「…はい」
無理だ。心の中でアリスは答える。
だけど弱音や反論は許されない。アリスはこの吸血鬼の国において姫であり、父は王、母は妃である。
世界最強と謳われた種族“吸血鬼”。その中で歴代最強と謳われる国王アーデルセンと、かつて当代最強の女吸血鬼と謳われた王妃リリスフィー。その2人の間の娘にかかる期待は凄まじかった。
“姫は無能”、それを知られてしまえば国民が不安がる。父母や祖先が築いてきた信頼と尊敬を穢すことになる。
そんなことは許されない。だからアリスは深紅の瞳を伏せがちにしながらも、浴びせられる言葉に同意を繰り返す。
そんな様子を見下ろしながら、カリーナは鼻から嘆息を漏らして続きを述べる。
「せめて残り二月の間、出来ることを全て全力でなさってください」
「…はい」
「まずは模擬戦闘をあと1時間追加。明朝からも勉学の時間を削って鍛錬の時間を増やしましょう、お付き合い致します———あぁ、あとそれから」
“今晩から血の量も増やしましょう”―――そう言われて、アリスは握ったスカートの裾をさらに強く握りしめるのだった。
そして、その晩の食卓。
「うっ——」
アリスはグラスに入れられたヒトの血を含み切った後、口元を手で押さえる。苦しさに目尻を濡らしながら、必死に生ぬるく喉に絡みつく液体を嚥下する。
気持ち悪い。ごくりと喉を鳴らす度に悪寒が走り、悪い物を取り込んでしまっている忌避感に襲われる。
それでも飲む量を今宵から倍にされた。あともう一杯飲まなければならない。
手を伸ばす。飲まなければ、飲まなければ、これを飲まなければ———
「ぐっ、ぷ———」
しかしアリスは込み上げてきた嘔吐感に負け、手元の壺の中に吐き出してしまう。その様子をそれぞれ違った感情で見る、計3対の瞳。
全てを吐き切った後、アリスの顔は青白く染まっていた。
それでも次を目指す。飲まなければ、それが必要だと言われたのだから。瞳と指先を震わせながら、用意された次のグラスに手を伸ばす。
「もう良い」
だが一緒の卓についていた父アーデルセンから制止をかけられ、アリスの顔が歪む。伸ばした手は確かに止まったが、それでも引き下げることも出来なかった。
しばし宙に止まってしまった手は、父から続け様に冷たく吐かれた言葉によって退けられる。
「聞こえなかったか? もう良いと言った」
「っ…申し訳、ございません、父様」
アリスは手を引いた。その様子を同じ卓についている母リリスフィーも見ている。
その目に映るのは哀れみの色だ。それを視界の端で感じ、アリスは父と母2人の視線から逃げるように俯いた。
「はぁ…」
その様子を見た父より盛大にため息が漏らされる。齢90を超える彼であるがその姿は未だ若々しい。ヒト族であればかなりの高齢にあたる歳であるが、寿命の長い吸血鬼であれば壮年にあたる年の頃である。
それでも苦悩で眉間に皺が出来る。彼の視線は脇に控えていた侍女へ移された。
「カリーナ、下げてくれ」
「かしこまりました、アーデルセン様」
恭しく頭を垂れた後、侍女カリーナはテーブルの上に残されていたグラスとアリスの手元の壺を回収し、部屋を出た。
その場に残ったのは父と母、それとアリス。重たい空気が俯いた彼女に圧し掛かる。
「アリス」
父から呼ばれ、びくりと震える。膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、“はい”と答えて視線を上げた。
父と娘、視線が交わるがしばし言葉は交わされず。先に目をそらしたのは父の方だった。
「…何故飲めない?」
問われているのに視線はそらされたまま。アリスに答えを求めている様子はない。
当然だ。彼女が答えられるのは、いつも吐いているこの一言以外に無い。
「…申し訳ございません、父様」
答えなどない。吸血鬼が血を飲めない理由なんて、あるはずがない。
だが飲めない。どうしたって飲めない。そうして心を煩わせてしまっている父と母に対してアリスに出来ることは謝罪だけだった。
そんなアリスの謝罪をどう受け取ったのか、父は皺の寄った眉間を手でほぐし、目を閉じたまま応える。
「あぁ、もう良い。アリス、部屋へ戻れ。食事を運ばせる」
「…分かりました」
そうして席を立ち、父と母に辞儀をしてから部屋を出る。
廊下を進む中、出てきた扉の向こうから父と母の言い争う声が聞こえてくる。アリスは唇を噛み締め、駆けるようにして自分の部屋へ向かった。
部屋に戻った後、アリスは運ばれてきた固形の食事を黙々と口に運ぶ。
静かな部屋だった。装飾や調度品は品の良いものが置かれているがそれらは彼女が好んで置いたわけではない。父や母や侍女が、血が飲めず苦心していたアリスの気を紛らわせるために置いていったものだ。しかしそれも数年前のことで、長らく替えられていない。
ここはアリスにとって自分の部屋であるが、自分の居場所だと思えなかった。何にも愛着を持てず、何にも安らぎを感じない。
かといって、ここ以外に居場所があるわけでもない。彼女は心の奥底から這い上がってくる感情に、今日も心を貪られつつ食事をする。
食べかけの途中。ふとアリスは窓から外を眺める。
地面、壁、天井。全て岩肌だらけ。地底深くに拓かれたこの街を、吸血鬼の国ナトラサ、その中心街のモーベという。
古き言葉で“陽が昇らない”の意を冠する国名の通り、この国に陽光が差すことはない。陽光に照らされれば灰となって死ぬ吸血鬼がまともに住めるのは、この国以外他にない。
「………」
窓から見える景色はいつもと一緒。アリスはナイフとフォークを机に置き、ふらりと立ち上がって窓際に立つ。
地上の昼夜を示す街中央の大篝が灯っていない。今は夜。眼下に広がる街並みではあちこちの家々で蝋燭が灯り、暗い地底に仄かな居場所を作る。
家族がそこにあるのだろう。何の憂いもなく明朝を迎え、一家揃って血を飲み、共に過ごす家族がそこら中にいるのだろう。
どろり、と何かが溶ける気がした。アリスは窓の桟に手を伸ばした。
おかしいのは自分だけだ。血が飲めず、“家畜”に与えるものと同じ食事を取っているのは国中探しても自分だけだろう。
自分が何を食べているのか分からない。知識としては知っている。穀物から作られるパンというもの、獣の肉を焼いたステーキというもの、果実を絞って作られるジュースというもの。
ただ、吸血鬼が食してもそれらの味を感じない。当然だ、身体はヒト族が取るような食事ではなく血を求めているのだから。
だが、アリスにとって味のない食事は血を飲むより何百倍もマシだった。
血を飲んで魔素を摂取しなければ吸血鬼は死ぬ。だけれど血が飲めない。だからこうして“家畜”に与えるはずの餌を分けてもらって、微量ながらもその中から魔素を摂取する。
健やかに育つはずがなかった。アリスは同い年の吸血鬼と比較して頭1つ分以上背が低く、魔術もまともに扱えない。
そして、身体だけが健やかさを溢したわけではない。
窓際に立つアリスの頭がふらりふらり、と不規則に揺れ始める。意図した動きではなく、アリスの意識は依然として眼下に広がる街の景色に向いている。
家々の屋根、街並みの通り、直下の地面、硬そうな岩肌。段々と下を向いていく意識のままに、やがてアリスの上半身が窓の桟を越える。
「…あ」
と思った時にはもう遅い。窓枠にかけていた手は滑り、アリスの身体は投げ出されてしまう。
が、そのまま落ちはせず、優しく抱きとめられる。疾風の如き身のこなしで窓へ飛び移ってきた少年の手に、彼女は支えられていた。
「危ないなぁ。アリス、気を付けなよ?」
「……あ」
今自分の身に起ころうとした事故。それがようやく認識に至り、アリスは小さく声を漏らした。
「ご、ごめんなさい、カネル。私、ぼうっとしてて———」
「ううん。アリス、気にしないで。むしろごめんね、突然入ってきちゃって」
何でもないことのように話して、突然の訪問者である少年はアリスを部屋の内へ支え戻した。
アリスと同じ銀色の髪であるからして彼も吸血鬼である。というよりナトラサに住む万を超える民は皆吸血鬼。他の種族は家畜を除けばここにいない。
短く切りそろえられた髪、深き海を思わせる紺碧の瞳、幼さを残しつつも落ち着きを伴った顔立ち。侯爵家嫡男たる彼の名はカネルという。
アリスとは同い年で、許嫁の仲でもあった。
「あれ、アリス。もしかして食事中だった?」
部屋へ入ったカネルは机の上にある食事に気づく。
「遊びに来たんだけど、ちょっと待ってた方がいいかな?」
「…気にしないで。どうせ味がしないんだもの。冷めても一緒だから後で食べる」
「そんな。悪いよ」
「いいの。あなたが遊びに来てくれたんだもの。あなたを優先したいわ」
アリスは部屋の隅から椅子を持ってきて、ベッドの脇に置いてカネルに薦める。
「そう? 悪いね、ありがとう」
「どういたしまして」
そうしてカネルを腰かけさせてから、振り向き直ってベッドを見る。
そこへ腰を下ろそうとしてアリスはふと、その脇にある窓を見た。
———あのまま、あそこから落ちることが出来ていれば……
「どうしたの、アリス?」
「……ううん、なんでもない」
首を振って、アリスは窓を閉めた。
そうしてカネルに向き直って、今宵もまた他愛もない談笑を交わすのだった。
【Tips】吸血鬼
過去、世界最強と謳われた種族。銀色の髪を有し、爪は鋼すらも切り裂き、魔術の扱いにも長ける。
彼らは一度、世界を征服するほどに跋扈したが他種族への蹂躙が目に余り、やがて神の呪いを受けた。
曰く、“陽光を浴びると灰となって死ぬ”。その時より、地上に彼らの住める場所はなくなった。