初めての感情、進化、ビーボ
ビブリスは肉食性の植物であるが、実はそれなりの知能を有している。
自分で自分の容姿を確認したことは無いが、少し知性のある生物なら姿を見た瞬間に踵を返すか、何かとても忌まわしい存在を確認したようにツバを吐いたあと、やはり背を向けてどこかに行ってしまう。
謎の多い生態を持ったビブリスは、実は高度に発達した感覚器官でもある触手から、周囲の状況から感情の機微まで察知していた。
しかし悪意だけを知っているわけではない。
逆に甘い匂いに誘われてやってくる虫や動物の喜びと期待に満ちたな感情、そしてそれを蜜によって眠らせてから、魔力を奪い、動けなくなった獲物を触手の粘液がゆっくり溶かして吸収していく。
途中で目を覚まし、自分が生きながら捕食されていることに気がついた動物たちの、絶望的な感情も知っている。
そしてビブリス自身に感情はない。
しかし口の利けない植物でありながら、他者の気持ちが理解できるほどの知性があるビブリスは、その憎悪にも喜びにも絶望にも共感する事ができないことに小さなモヤモヤとした違和感を持っていたが、その正体がつまるところ「孤独」であるという事は理解できていなかった。
そこに現れた2体の何か。
彼らは最初こそ、自分を積極的に襲おうとしてきた。
明確な敵意を向けられたのは初めての経験だったので、ただ触手を震わせて抵抗してみせるしか無かったが、どういう訳か諦めてくれたのも束の間、今度はもう一体のアンデッドが迫りくる。
しかしこちらからは敵意を感じられない。
きっとこの生物も、いつものように蜜を口にし、いつものように昏倒して、そうなったらこちらは本能に従って触手で絡め取り、時間を掛けて養分にするだけだ。
そう、いつものように。
しかし彼らは倒れなかった。
それどころか、もう一体と共に喜びに満ちた感情を差し向けてくる。
自分の蜜を口にして倒れなかった生物は初めてだった。
ビブリスからは見えないが、二体の生物、ではなくゾンビは手を取り合って、ここにきて巡り合った歓迎すべき事態を喜び合っている。
そしてビブリスは、今まで知ることが無かった新しい感情に触れた。
「ありがとう」
生存本能のまま、無感動に虫や動物を期待から奈落へと突き落とし続けた肉食植物である自分に初めて向けられた「感謝」という概念は、孤独だったビブリスには酷く新鮮で、そして心地良いものだった。
「この子のさえいれば食べる物に困ることは無いわ!」
実際に、ビブリスの蜜を舐めてから、フラドとシルビーの血肉を求める衝動は影を潜めていた。
「ほんとだな、うん、グロいとか思っててゴメン」
そして初めてビブリスが知る「謝罪と反省」という感情。
「この子連れていけないかなぁ」
シルビーがビブリスの花弁を撫でながら、どう検討しても難しそうな希望を口にしてみる。
「どこか拠点になる土地を見つけて、可能なら植え替えるって手もあるけど、今は無理だな」
フラドも心から残念そうに触手の先に指先を合わせてみる。
二人から伝わる「落胆」という感情。
ビブリスは次々と新しい感情的概念が入り込んできて、そして自分の中に芽生えた、二人が落胆していることに対する「焦燥」という気持ち、それを触手を緩やかに動かすことでしか表現できない「もどかしさ」に沈黙のまま戸惑っていた。
「しばらくはこいつの近くを拠点にして、あまり離れないように探索していくか」
ビブリスの花弁をポンポンと撫でながらフラドが言った。
「じゃあ名前付けない?」
「名前?…そうだな、ビブリスって呼んでもいいけど、恩人だしな」
「そうそう、恩人を学名で呼ぶのは失礼よ」
「そうだな…ビブリスだから、ビーボっていうのはどうだ?」
フラドが言い終えた瞬間。
ビブリスが突然まばゆい光に包まれた。
「な…!?」
フラドとシルビーは一歩後付さる。
光は急激に強まり、直視できないほど発光しはじめた。
二人は耐えきれず腕で顔を覆って光を遮る。
ふと、光が途切れて二人はビブリスを見るが、今の今までそこにあった醜悪な魔物の姿は無くなっていた。
困惑するフラドとシルビー。
代わりに薄緑色の肌に大きくつぶらなエメラルドグリーンの瞳をした、小動物のような魔物が一匹、自身にも何が起こったか分からないという表情で座り込んでいた。
「え…」
二人と一匹は突然の出来事に放心し、その状況で一番先に動いたのはシルビーだった。
「えー!なにこの子すっごく可愛い!」
シルビーは躊躇いなく目の前の魔物を抱き寄せる。
「なになに?どこの子?親御さんはどちらにいるの?あ、ごめんね急に抱きついちゃって、私ゾンビなんだけど腐敗臭とかしない?大丈夫?でも可愛いから方ないよね?」
矢継ぎ早に語りかけるシルビーに対して、未だに状況が飲み込めていない小さな魔物は困惑した表情のまま固まっている。
「おい、シルビー、その魔物の頭に付いてるのって…」
状況を差し置いて「可愛い」を優先したシルビーに対しても戸惑いながら、フラドは魔物の頭を指差す。
そこには帽子のように乗っかった赤い花が咲いていた。
「これって…」
シルビーも改めてまじまじと花を観察する。
顔を近づけると、記憶に新しい甘い香りが漂ってくる。
それは種子から芽生え、気が遠くなるような時間をこの地で過ごす間に大地と獲物から吸収し内包し続けた魔力、そしてフラドによって与えられた名が起こした奇跡という名の進化だった。
「この子、ここにいたビブリス!?」
「状況的にはそうだよな…」
「これは…私が一緒に連れていきたいと願ったことによる奇跡…!?」
「いやそんな都合の良い展開あるかなぁ」
フラドは頭に手を当てて今一度状況を整理してみようとするが、考えても真実に辿り着くはずもないので早々に諦めて、シルビーの腕の中にいるビブリスの頭の花弁に手を添える。
「ビブ…いやビーボ、お前も一緒に来るか?」
「連れて行くの?」
シルビーの表情がさらに明るくなる。
「これはシルビーがそう願った結果なんだろ?とは言え、ビーボ次第なんだけど…」
ビーボは不思議そうに二人の顔を交互に見た。
初めて感じる、好意、優しさ、愛情、という類の気持ち。
ビーボは「キュ」っと小さく声を上げると満面の笑みでシルビーの腕から抜けて首元に抱きついた。
「この子も一緒に行きたいみたい…ん?ちょっと待ってこの子…」
シルビーが何か言いかけたとき、次にビーボはフラドに飛びついた。
「おいおい、そんなに嬉しいのか…ん?これは…」
「フラドも分かる?」
「ああ、ビーボから魔力が流れ込んできてるみたいだ…」
「ビーボすごいねぇ!もう蜜のことは諦めてたんだけど、可愛い上に栄養補給もできるなんて!」
「キュ!キュキュ!」
ビーボも声と表情でそれと分かるぐらい嬉しそうにしている。
「よしよし、もうそれくらいでいいぞ。あんまり魔力もらうと、お前の方が枯れてしまいそうな気がする…」
フラドは優しくビーボを引き離すと、そっと足元に置いた。
膝ほどの背丈のビーボはその場でぴょんぴょんと跳ねて、初めて踏む地面の感覚を楽しんでいるようだった。
フラドとシルビーは目を細めて無邪気に跳ね回るビーボを保護者の目線で見守る。
「さて、ビーボで腹ごしらえも済んだことだし、そろそろ行くか」
可愛い旅のお供からの魔力提供を、栄養補給や腹ごしらえと言ってのけるあたり、軽めの倫理観の欠損がいかにもゾンビらしく、フラドは悪びれる様子もなく言った。
「行くって、どこに?」
「そうだな…」
確かにビーボがいれば、これからは労力を払って食糧を探す必要はない。
まして危険を侵して人里に近づく必要もないのだ。
であれば当面の目標は一つ、安住できる場所を探すことだ。
「一旦、あの洞窟に戻った方が良さそうだな…」
しかし、それでいいのか?という想いが脳裏をよぎる。
理由は分からないが、あらかじめ人間としての理性を備えて復活し、さらにビーボという幸運に巡り会い、血肉に飢えずに済むようになった。
それでも自分たちはゾンビであり、人類から忌避される存在である。
本来であれば人の寄り付かない深い森の洞窟に隠れ住むことが、身の安全を図る意味で最適解なのだろう。
だが、しかし。
暗く湿った洞窟に舞い戻って人間の心を持ったアンデッドのまま、死に絶えることもなくひたすら隠れ住むことに、果たして精神が耐えられるだろうか?
シルビーも同じ心境なのか「そうね…」と言って視線を地面を伏せた。
「キュ?」
にわかに暗い表情になった二人の顔をビーボが覗き込み、しばらく「キュ~」と何か考え事をした素振りのあと、何かを閃いたようでパッと表情を和らげた。
そしておもむろにフラドの手を握る。
「どうした?」
笑顔でフラドとシルビーを交互に見上げるビーボは「キュッキュッ」と可愛らしく声を上げながらフラドの手を引く。
「なんだ?あっちに何かあるのか?」
フラドはシルビーと顔を見合わせる。
「行ってみましょうか」
「…そうだな、洞窟ならいつでも戻れるしな」
一行は連れ立って、小さな魔物が導く方へ歩き出した。
先頭を行くビーボは二人の役に立てると得意げに短い足を大股でぐんぐんと進んでいきながら、ある事を思い返していた。
大地に根を張っていた頃の記憶。
触手の感覚が覚えているそれは、自分に対して必ず禍々しい物を見たときの悪感情をぶつけてきて、とても好意的に捉える事のできる相手では無かったが、彼らはフラドとシルビーと同じように、必ず二本の足で立っている生物だった。
さらに虫や動物は時々、匂いに誘われて大勢でやってくることがある。
仲間がたくさんいると安心できるからだろう。
長い時間を孤独に過ごしたビーボにも何となく理解できる感覚だ。
フラドとシルビーはきっと寂しくて群れに帰りたいに違いない。
その二本足の時折、迷い込むように自分の元を訪れ、ツバを吐いて帰っていくが、来る方角もだいたい同じだった。
それを逆に辿れば、きっと二本足が暮らす群れに行き当たるはずだ。
ビーボはそんな事を考えながら、得意げにキュッキュッと喉を鳴らして進んでいく。
人間の村を目指して。