はじめての人質、旅立ちと抱擁
それからしばらく後、メリル達は王都魔術学院の長い廊下を歩いていた。
「まったく何でそんな物騒な魔道具を借金のカタにしちゃったんですか?」
直接触ると30秒で死に至る殺人マジックバックを、肩から斜めに下げた鞄に厳重に仕舞い込んだメリルを見上げながら、ロメオは呆れたように言った。
「物自体は超絶大発明だしねぇ、何となく直感で…」
メリルはオルスボに貸し付けた10万ガルのせいで、ずいぶん軽く薄くなったような気がする財布を上から撫でて、あははと乾いた笑い浮かべた後に、
「理由があるとすれば、あまりにも空が青かったから、かしらね」
と無駄に真っ直ぐで力強い視線を廊下にある、ソフィア先生の執務室に向けた。
「ご主人さま、さすがに何をおっしゃってるか分かりません…」
フロールも主人の浪費としか思えない行動に多少呆れつつも「でも、ご主人様のなさる事に反対は致しませんけど」と、恋人であれば相手を必ずダメ人間にしてしまいそうな、底無しに寛容かつ慈愛に満ちた微笑みをメリルに差し向けた。
プエブロだけが、押し黙って何事か考え込んでいるように眼鏡の位置を直しつつ、マジックバックという名の事実上の暗殺兵器が入った鞄をじっと見ている。
ビッケはメリル達の少し先をパタパタと駆けていた。
「ビッケ、廊下を走ったら先生に怒られちゃうよ~」
メリルは呑気な声で嗜めるが、ビッケはすでにソフィアの執務室のドアの前に辿り着いた所だった。
「確かキーン学院長もいらっしゃるんでしたよね?」
ロメオは目の前まで来たドアの前で少し背筋を伸ばす。
彼にとってキーンは、自分を勇者レーダー1号として見抜いた上で、話の流れとは言え、死罪になりかかっていたメリルを救ってくれた人物として、尊敬と恩義の対象となっているようだった。
「そうそう、もう中にいらっしゃる頃…」
そう言いながら、メリルがドアをノックしようとした瞬間、向こう側から体と鼓膜を盛大に揺さぶる轟音と衝撃が襲ってきた。
咄嗟にフロールがメリルを庇うように抱きつき数歩後退させ、ロメオは前に出て腰に下げた剣に手を掛ける。
プエブロはいつの間にか足元にいたビッケを抱えて、それでもメリルの少し手前に立ってドアを鋭く睨みつけていた。
そんな中、一人だけ固まるメリル。
数瞬だけ呆けたあと、ハッと我に返りネズミ達にガッチリ守られている自分に多少の情けなさを感じた後、胸元でしがみつくフロールの肩を抱いてそっと引き離した。
「だ、大丈夫よ…」
心配げに見上げるフロールの頭を撫でて、次に背を向けてドアに対峙するロメオの肩に手を置く。
「メリル様、危険です。僕の後ろにいてください」
ロメオは静かになったドアに視線を固定したままメリルに促す。
「私も出来ればもう帰りたいんだけど、さすがに恩師の部屋からの爆発音は無視できないかなぁ…」
メリルはロメオ横に立って、引きつった表情でドアノブに手を掛ける。
「三人は後ろに下がって、ロメオ、何かあったらよろしく」
ロメオは意を決したメリルの横顔を一瞥し、議論の余地はないと察してショートソードを抜くと「分かりました」と短く返事をした。
メリルは中の様子を伺いながら慎重にドアを開く。
中央が焦げ付いた床に物が散乱し、机やソファがひっくり返っているその奥、割れた窓を背にしたソフィアとキーンの姿が見えた。
今しがたここで爆発が起こった事は間違い無いが、その状況と正反対に二人とも怪我をしている様子も狼狽した素振りもなく、むしろ薄っすらと笑みさえ浮かべているように見えた。
しかし開いたドアからメリルが顔を覗かせている事に気がついた瞬間、それまで余裕に見えた表情が変わり、ソフィアの眉間に少しだけシワが寄り、キーンも長く立派にたくわえたヒゲをさすりながら顔つきを硬くした。
それはまるで、小規模の爆裂魔法が部屋の中で炸裂したのを合図に始まった、何とも楽しげなイベントを、間の悪い弟子に水を差された上、少し面倒な事になったと感じている表情であり、もっと具体的に言えば、突如部屋に乱入してきた男が起こした爆発をキーンの防壁魔法で防ぎ、
「まったく近頃の若いもんは元気じゃが礼儀がなっとらんな」
と服の裾に付いた塵をはたくキーンと、
「暗殺されるなんて久しぶりねぇ」
と、にこやかに笑うが瞳の奥が氷点下になっているソフィアが、さて、どうやってこの活きの良い賊で遊んでやろうかと状況を楽しんでいる最中、入り口側に立った敵の横からメリルがひょっこり顔を出し、その緊迫しているようで間の抜けた顔の可愛らしい少女が、これから賊に首根っこを掴まれて、お手軽に人質にされてしまうであろう事が分かり「嗚呼、なんでこのタイミングで来ちゃうかな」という、これから予見される面倒を想っての表情だった。
「ソフィア先生!学院長!ご無事ですか?」
二人の姿を認めてメリルが勢いよくドアを開け放って一歩踏み込む。
その瞬間、賊の手がメリルの腕を掴んで強引に引き寄せ、一足で後方の部屋の隅まで飛び退く。
「メリル様!」
不用意にメリルが動いてしまったため、タイミングを逃したロメオの剣は賊に届かず空を切る。
メリルは後ろから首元を腕で抑え込まれ、ソフィアとキーンが察した通りの流れで、極めてスムーズに人質として完成した。
ある意味期待を裏切らなかった当の人質は一瞬何が起こったか分からず、賊の腕の中で棒のように立ち尽くす。
「えぇ~と、これは…」
メリルは改めて周囲を見渡して考える。
十中八九、余計な事をして状況を悪化させてしまったようである。
「貴様!メリル様を離せ!」
ロメオがショートソードの切っ先を賊に向けるが、主人が人質とあっては動くに動けず、その様子を見たフロールとプエブロも顔を強張らせる。
「全員動くな!」
賊は腰に下げていたナイフを手にすると、人質になるために神が遣わしたとしか思えない少女の喉元に尖端を向けた。
ソフィアが一つ、溜め息をつく。
「メリル、あなたノックぐらいしてから入ったらどうなの?」
確かにノックさえしていれば、入らないよう注意喚起も出来ただろうし、援軍が来たと思わせれば賊への牽制になったかもしれない。
「なんか…すみません」
良く研がれているであろうナイフの尖端とソフィアからの苦言では、わずかに後者の方が脅威度が高いと判断したメリルは、申し訳無さそうに苦笑いする。
しかし次に脅威となる賊にも対処しなければならない。
人質の使い道としては、相手を武装解除させ目的を達成するか、首尾よく逃走を図るか、あるいはその両方である。
今すぐ殺される事はなさそうだが、状況は芳しくはない。
「おい小僧、武器を捨てろ」
男は有利な状況に機嫌を良くしたのか、怒鳴り声を上げるでもなく陰湿に口角を上げてニタニタと笑う。
「くっ…貴様!」
ロメオは苦しげ顔を歪ませる。
ソフィアとキーンも状況を打開する決め手がなく、難しい顔をして膠着してしまっている。
「あ、そうだ」
メリルは突然の閃きに声をつい声を上げる。
「なんだ?死にたくないなら余計な真似するんじゃねぇぞ!」
賊は一向に怯える様子のない人質に少し気味の悪さを感じ始めたのか、腕に力を込めてメリルを締め上げる。
「うぐぐっ…キ、キャー、コワーイ、ヤメテー、タスケテー」
メリルは賊に怪しまれまいと、精一杯怯えたふりをしてみるが、演技の才能だけはないようだった。
しかし主を人質に取られて平静を失っているロメオには、メリルが本気で怯えて助けを求めているように見えた。
「やめろ!」
「うるせぇ!武器を捨てろ!」
ロメオはこれ以上相手を刺激できないと察して、ショートソードの尖端を下げるが、しかし武器を手放すのは憚れて、額から汗を流して半歩後ろに下がって、恐怖に震えているであろう主人の顔を見る。
「?」
メリルが声を出さずに「大丈夫」と口だけ動かしているのが見えた。
その様子に恐怖には微塵が感じられない。
ロメオは賊を睨みつけながら、ゆっくりとした動作で地面に得物を置く。
その間メリルは誰に聞き取られないように口元だけで何事か呟いていたが、ソフィアとキーンだけメリルが何かの魔法詠唱をしていると気がついて目配せをした。
「へっ、分かればいいんだよ」
賊は吐き捨てるように言うと、ソフィアとキーンに向き直る。
「おい、ここに来て跪け」
その言葉に二人が溜め息をつきながら部屋の中央に歩みを進めようとした、その時。
メリルは少し身を捩って鞄の中に手を入れると、同時に自分を抑え込む相手の腕の袖をまくり上げて肌を露出させた。
そして鞄の中から取り出したマジックバッグを、露わになった腕に押し当てる。
「てめぇ何を!」
突然の動きに賊はたじろいだが、すぐにナイフを握り直すと、メリルの喉元に突き立てようとするも、
「あ、れ…?」
なぜか力が抜けてしまった手からナイフがこぼれ落ちて、高い金属音を立てて床に落ちた。
何が起こっているのか分からない賊の顔からはみるみる生気が失われ、押さえつける腕も脱力してきたが、しかしメリルは逆に腕を抱え込んで、なおも強引にマジックバッグを押し当てる。
十秒、二十秒と経った頃、ついに賊は膝をついて崩れ落ちた。
「メリル様!」
ロメオが床に置いた剣を拾い上げてメリルのもとに駆け寄り、様子を伺っていたフロール、プエブロ、ビッケも続いた。
「いやぁ、ほんとビックリしたねぇ」
「ビックリしたじゃなくて!その!マジックバッグ!」
ロメオが慌てふためいてメリルが手にしたマジックバッグを指差す。
「オルスボさんが言ってたの本当だったね…」
「ご、ご主人様…それを触って大丈夫なんですか…?」
フロールも恐る恐る尋ねる。
「ああ、大丈夫大丈夫、素手で触ってないから」
メリルは全員に見えるように、マジックバッグ掴んだ手を前に突き出す。
そこにはどう見てもメリルの物ではない、毛深くて太く逞しく屈強そうな、それでいて生者の物ではない紫がかった土色の腕が伸びていた。
ビッケが「おお!お姉ちゃん強そう!」と歓声を上げる中、ロメオとプエブロは息を呑み、フロールは気が遠くなったようで、フラリとよろめいてプエブロに支えられて立っていた。
「あなた…まさか…」
賊が昏倒した理由は不明ではあるものの、メリルが何らかの術の詠唱を行っていたことに気がついていたソフィアはすぐに弟子の腕の様子に察しがついた。
「死霊の腕だけ召喚して…自分の腕に纏わせているのね?」
「そうなんです!すごくないですか!?」
「まあ、すごいと言うか、まず誰もやろうと思わないと言うか、すごいのは本当にすごいんだけれど…」
なぜそうする必要があったのかは理解し難いが、死霊の腕だけを自分の腕にすっぽりと包むように召喚して、そして体の一部として動かすなんて、他の誰にできるだろうか?
恐らく何となく直感でやってのけているメリルに、その方法を聞いたところで答えは帰ってこないだろう。
ソフィアは「まったく、あなたって子は」と呆れたように額に手を当て、うっすら笑みを浮かべた。
「でも美しさが全然足りていないわね、30点といったところかしら」
「それは50点満点中ぐらいで…?」
「100点満点中に決まってるでしょ。芸術点が0点どころかマイナスよ」
「え~、厳し過ぎますよぉ…。分かりましたよぉ、次は綺麗なお姉さんの腕を召喚します!」
一同が「あ、選んで召喚できるんだ」とさらにメリルの天才っぷりに驚くと言うより呆れ返る様子を、ニコニコしながら見守っていたキーンがソフィアに向かって口を開いた。
「ふははは!まったく君の弟子はとんでもないのぉ!」
「ええ、いろいろ気苦労が多いわ」
「ところでメリル、そろそろ何が起こったのか話してもらって良いかね?その雑巾のような物は…マジックバッグと言っておったようだが?」
「ああ、そうですね…!えー、はじめから説明いたしますと、まず、その、あの研究街にある天気予報の魔道具の、あ、これはオルスボさんが作った物なんですけど、その魔道具の音量がですね…」
「お嬢様、ここは私が」
死霊術師として天才だが、それ以外は全般的にポンコツであるメリルの説明では、明朝までに終わらないと素早く判断したプエブロが説明を代わる。
「お願いします」
メリルも自身の不得意は十分に理解しているので、速やかにプエブロに後を譲った。
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それからプエブロは、ここへの道中にオルスボという研究者から、性能は抜群だが肌にしばらく触れると死に至るマジックバッグを運命的に譲り受け、メリルがそれに直接触れないよう死霊の腕だけを召喚するという天才的機転で、見事に悪漢を退けて見せた事を、簡潔かつ英雄譚のように詩的で大げさに説明した。
オルスボに金を貸したくだりを伏せたのは、一流の執事なら当然あるべき主人への配慮である。
そして死霊を纏ったメリルの腕は、プエブロが説明を行っている最中、フロールからの強い希望で黄泉の国にお帰りいただいていた。
「なるほどのぉ、まったくモルゾフといいオルスボといい、素晴らしい才能をロクなことに使わんな」
キーンがどこか遠くを見るような目で二人の名を口にした事にメリルが反応する。
「お二人をご存知なんですか?」
「二人ともワシの弟子でな、それはそれは才気に溢れた若者じゃったが…」
方や不滅の鳥肉、方や殺人マジックバッグと騒音天気予報である。
キーンが最後まで語らず、口をつぐんだ気持ちがメリルには手に取るように理解できたので「そうだったんですね」と言ったきり、それ以上深くは聞かないことにした。
「そんな事より、こやつじゃな」
全員の視線が床に倒れヒューヒューと浅く息をする瀕死の暗殺者に向けられる。
「死んではいないけれど、話は聞けそうにないわね」
ソフィアはこの騒動で割れてしまったお気に入りのティーカップの破片を残念そうに床から拾い上げながら続けた。
「でもまあ、公国の仕業ってとこかしら」
「可能性は一番高いな。勇者転生が失敗している可能性があるにしろ、念には念を入れてワシを殺めておくつもりじゃったのかもしれん。何にせよ、こりゃ早く勇者殿を見つけんことにはどうにもならんのぉ」
外の様子が騒がしくなってきた。
普段から魔術の研究が行われている学院の敷地で爆発音など特に珍しい事柄ではないが、場所がソフィアの執務室となれば話は別である。
衛兵を引き連れた職員だろうか。
廊下を駆ける何名かの足音が近くなってきている。
「本格的に騒がしくなる前に行ったほうが良さそうじゃの」
「ええ、そのようね。メリル、こっちへ」
「は、はい!」
メリルが前に出ると、ソフィアはそっと肩を抱き寄せる。
「本当はお茶を用意してゆっくり見送りたいのだけれど、それは戻ってきてからにしましょう。必ず、無事で戻ってらっしゃい」
ソフィアの温もりが優しくて、柔らかくて、心地よい。
「はい、必ず、絶対にみんなで帰ってきます…!」
メリルは最後にギュッと力強くソフィアを抱きしめると、自分からソフィアの抱擁を解いて一歩後ろに下がると深々と礼をする。
「行ってきます!」
メリルは勢いよく頭を上げると、滲んだ涙を悟られないように踵を返し、振り返らずに出口に向かう。
ロメオたちもソフィアとキーンに一礼し、主の後に続いた。
「いってらっしゃい」
すでに廊下に出てしまったメリル達には聞こえてないであろう、ソフィアは背中を見送りながら口元で呟いた。
「さすがに寂しそうじゃな」
キーンがソフィアの横顔を見ながら、あえて茶化すように言った。
「ちょっとこれは、老人には堪えるわね」
「信じて待つしかなかろう。なに、心配いらんさ」
「そうね…」
ソフィアは自分の弱気を振り捨てるように大きく鼻で深呼吸をして姿勢を正す。
「さて、部屋を片付けないと、あとこの不埒者を強引にでも早く回復させて、愛弟子の旅立ちに水を差した落とし前をつけさせなくてはね!」
未だに床で気を失ったままの賊を、ソフィアは鋭く一瞥する。
「…その落とし前とやらは、頼むから尋問の後にしてくれよ」
自分を暗殺しようとした者であるが、キーンは多少、この刺客に同情したい気持ちになった。