フラドとシルビー、土の上
ゾンビとして復活してから幾日か、出し抜けに登場して隣人となったゾンビ仲間。ここに来て会話が可能な知的生命体、いや死体。食料とは認識できない動く存在に、勇者は戸惑っていた。
万能の人である勇者は、古からそう定められているとおり、知力・体力に優れ、ネズミぐらいなら数匹もこなせば最大効率での捕獲が実現可能な、いわゆる「仕事の出来る人」なのであるが、いかんせん勇者という役割に関係なく、本人が生まれ持った資質という物が、今現在大きな障害となって彼の前に立ちふさがっていた。
(初対面の女の子とは、どうやって会話をしたらいいんだっけ・・・)
元々自分が何者かという記憶すらないが、それでも女性と楽しげなトークを繰り広げた経験は無いか、自らの頭の中を検索してみるも、一向に該当するヒットがない。もちろん恋愛や肉体的接触をした経験的記憶などあろうはずもない。
(まさか・・・俺は生前から童貞なのか・・・)
思わぬ帰結に涙腺が緩みそうになったが泣いてみたところで、自分が女性に対するコミュニケーションに差し障りがある状態、世に言うコミュ障童貞である事は揺るぎない。記憶自体ないので本当にそうなのかは分からないが、なぜか確信が持てた。
一匹目のネズミを貪るように平らげた様とは打って変わって、少女は2匹目のネズミを月明かりを頼りに観察しつつ、手で肉を千切ったりしながら少しずつ口に運んでいる。
勇者は遠慮がちにその様子を眺めながら、まずは自己紹介をと思ったが、自身のパーソナルな情報が「最近目が覚めた童貞かもしれないゾンビで、ネズミ捕りが上手い若者」でしかない状態では、何と自分を表現するべきか考えあぐねていた。
それでも男である自分が会話をリードしなければならないのだという、それはそれで何とも童貞感のある強迫観念に気持ちが焦って、会話のプランは無いが意を決して喉を絞り上げた。
「あ、あの…!」
「このネズミって」
同時に少女も口を開いた。
勇者の声は焦りから少々裏返ってしまっていて、少女の静かだが良く通る声の前には太刀打ちできず、初めから声など出してなかったかのように、空中に溶けて消えていった。
「な、なんでしょうか?」
「内蔵を処理して、塩やコショウで味をつけて、火を通した方が良いと思うんです」
「え?あ、はい。俺もそう思います」
「ですよね!?というかそもそも、ネズミって食べ物でしたっけ?」
勇者は驚愕していた。
たった2匹のネズミを食べただけだ。
知力と体力に優れた勇者ですら、ウサギを食した際に初めて検討した「調理」という可能性。この少女はわずか2匹でその結論に至り、さらにネズミ自体が「そもそも積極的に食べ物認定して良い物ではない」という、勇者がうっかり忘れていた概念を呼び起こして見せたのだ。
「君は…只者じゃないね」
「はい?」
「ああ、いや何でもないです…」
「それにしても」
少女は夜空を仰いで月を見上げる。
「今日はとても良い夜ですね。月が大きくてキレイです」
「ああ、そう言えば、そうですね」
勇者も一緒に月を見上げる。
今日は満月なのだろうか?近頃は夜中の照明器具としか認識していなかった月をまじまじと見つめる。
ふと、前にも同じ様に誰かと一緒に月を見上げた事があったような既視感がよぎった。
「…私」
少女がその大きく澄んだ瞳に月明かりを捉えたまま、呟く。
勇者は彼女の横顔に視線を移す。
「私、死んだんですね」
「…うん」
「あなたも、死んでるんですか?」
「ああ、たぶん…っていうか間違いなく死んでると思う」
「そっかぁ、死んでるかぁ」
演技がかったように大げさに言いながら、少女は自らの肩を抱いて身を屈めるように俯いた。
小さく震える肩を静止するように、力が込められた指が肩に食い込んでいる。
「だ、大丈夫?」
死んでから自分の死を突き付けられる現実を、自分と彼女以外、他に誰が経験したことがあるだろうか。まあ俺は割と立ち直り早かったけど。それにしても痛々しく小さく震える女の子に対して「大丈夫?」とは今夜の月よりも月並みで、もっと気の利いた言葉を掛けてあげられないものだろうか?
しかし同じ境遇の少女の心情は容易に理解できてしまい、言葉を選ぼうとするほど、何も言えなくなってしまう。
少女はしばらく俯いた後、死んでるので呼吸する必要は無いが、生者のような素振りでふぅと息を吐くふりをして、勇者の方に顔を向けて、困ったような笑顔を見せた。
「さっきから全然、思い出せないんです。自分の名前が」
理解出来ない状況に怯えて震える姿よりも、それに耐えようと無理に作った笑顔の方が、数段痛々しく見える。
「名前も、どこで産まれ育ったかも、家族の顔も名前も、何が好きで何が嫌いだったかも、楽しかったことも苦しかったことも、何も思い出せない・・・」
少女の笑顔が苦しげな表情に曇っていく。
ああ、俺もだよ。俺も何も思い出せないんだ。
そう言ったところで、今の彼女には何の慰めにもならないだろう。
勇者は黙ったまま、そっと彼女の方に手を伸ばした。
「あ・・・」と彼女は小さく呟くと、片方の腕を伸ばして勇者の手を握り返した。
「えへへ、すみません」
少女はまた、無理に困ったような笑顔を作って続けた。
「私、これからどうしたら良いと思います?」
勇者は握り返された小さな手を数瞬見つめ、そして先程より少し傾いた月を見上げて言った。
「じゃあ、名前を付けよう」
「名前・・・ですか?」
勇者は少女の方に顔を向けてにこりと笑う。
「実は俺も自分の名前が思い出せなくてさ。いや、さっきまで一人だったから、別に思い出せなくても困ってはいなかったんだけどね。その何ていうか、今は二人だし。呼び名が無いと不便かなぁって」
おどけて見せる勇者に、少女も思わず自然とはにかむような笑みがこぼれた。
「だからお互いに、名前を付け合うっていうのはどうかな?」
「それはすごく良いアイデアだと思います!」
少女はスッと鼻から息を吸って、先程までの弱気な自分を振り払うように明るい口調で言った。
「でしょでしょ?こんな時は・・・っていうかこんな状況なんか滅多に無いんだけど、とにかく落ち込んでても仕方ないからさ。ちょっとでも前向きになれる事を考えた方がいいと思うんだ」
自分も当初は穴に埋まったまま朽ち果てようと思うほどに絶望していた事などすっかり忘れ、勇者は素直に彼女を励ましたい気持ち70%と、彼女と同じ状況である自分を奮い立たせる意味で20%、あと女の子の前で格好の良い事を言いたいだけの童貞的虚栄心10%で言った。
「強いんですね、私ったら取り乱してしまって、恥ずかしいです」
少女が照れたように微笑む。
その表情が月明かり青白く彩られて、衝撃的に美しいと感じたと同時に、自分がとんでもなく臭いセリフを言ってしまった事に気がついて、勇者は急激に芽生えてきた照れ臭さをごまかすように「で、えーと名前を、その・・・」と口元をもごもごさせながら言った。
「私はもう決めてますよ」
「ええ?もう?早いな・・・俺は、そうだな、えーっと」
「こういうのは考えるより直感で言ってみた方が良い結果になるかもしれませんよ?」
少女はいたずらっぽい表情で勇者を覗き込む。
「とは言え命名って大事だし、えーっと」
「ああもう!じゃあせーので言いますよ!」
「あ、ちょっと待っ!」
「せーの!」
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いつの間にか月は次の夜に姿を隠し、山々の稜線がまだ登りきっていない朝日で薄く縁取られ始めた。
「じゃあそろそろ出るか」
「そうですね、ネズミ以外の食べ物を探しましょう」
不本意ながらも幾日か世話になった墓穴を這い出るのは少し寂しい気もしたし、多少の勇気が必要だった。でも二人なら、と彼は地面に手をついて地面に埋まった腰を持ち上げた。
墓穴に何の未練も無い彼女の方はさっさと脱出して、すでに二本の足で地面に立っている。
「さあ、フラド」
少女は彼に手を差し伸べる。
「ああ、ありがとう、シルビー」
フラドはシルビーを見上げて手を取った。鬱蒼とした森の中の、常に薄暗い墓所に珍しく朝日が差し込んで、満面の笑みの彼女を背後から照らしていた。
(もうゾンビなのか天使なのか分からん!)
動いてない心臓あたりに存在するであろう心の中で勇者は叫んだ。
勇者ことフラドはやっと、ゾンビらしく墓穴から這い出した。