隣人、少女、月明かりの下
しかし食欲という物は侮れない。
もはや業と呼んでも差し支えない。
性欲と睡眠を欠いて、三大欲求が一大欲求になってしまったゾンビと言えど、どうせ食うなら美味い方が良い、という結論が出てしまった今、勇者はどう好意的に考えてもゲテモノにしか見えなくなった備蓄ネズミを消極的につまみながら、あの愛くるしくも美味しいウサギの再登場に期待せずにはいられない心境になっていた。
あれ以来、頻繁に目の前を通るネズミも一切捕獲していない。
(ああ、こんな事なら出会わなければ良かった…ウサギの美味さとネズミの不味さ…)
ウサギ捕食の衝撃から幾日か過ぎた晩。
依然として胸元から下は土に埋まっている勇者は、基本的に暇だ。
まったく偶発的に起こったウサギの捕獲を「出会い」と詩的に表現する余裕がある程度には、退屈を持て余していた。
そして考えるのはウサギの事ばかり。
普通のゾンビに比べ、いささか人間的思考があるとは言え、しかしやはり基本的にはゾンビである。食欲という本能の後押しもあって、ついつい食う事ばかり考えてしまう。
そしてその食事、ウサギはあれ以来いっこうに姿を見せてはくれない。
(これはもう…自分から行くしかないか)
勇者はゆっくりと観察するように辺りを見回す。
今夜は月を遮る雲もなく、薄明るい光が墓所全体を包むように照らしている。
2メートルほど先に上部が丸く削られた墓石。その先も等間隔で似た形の墓石が続いてる。左右にも腕が届かない程度の幅で整然と墓石が並んでいる。
腰を捻って斜め後ろを見ると、十数列の墓石があり、まだ続いていそうだが、その先は森の暗がりに溶けて見えない。
勇者は前後左右の見える範囲の墓石を数えて頭の中で計算する。
少なくともここには400人近くが葬られているようだ。
(なんか…よくよく考えるとすっごい広い墓場だな)
暗がりの先にも墓石が続いているとすると、いったいどれくらいの規模の墓所であるか想像もつかない。
(いっぱい、人が死んだんだな…)
ここまで整然と区画が整理された広大な墓所である。恐らくそれ相応に大きな街に属している物と思われた。
(という事はつまり…)
ここからそう遠くない場所に人間の暮らす街がある可能性が高い。
勇者の脳裏にふと、郷愁のような感情が微かな記憶の残滓と共に去来する。
夕暮れ、舗装されたアスファルトが遠くまで伸びている。
視界が低い自分はきっと子供の背丈なのだろう。
通い慣れた道。
赤い屋根の家には、子供の自分からすると大き過ぎるほどの毛の長い犬がいて、少し怖かった。
玄関に沢山の鉢植えを置いて、朝晩花の世話をしている老婆は、会う度に「いってらっしゃい」「おかえり」と微笑んで声を掛けてくれたが名前を知らなかった。
公園にはサッカーをしている大きいお兄ちゃん達がいる。五年生は意地悪だが、六年生は優しかった。
しばらく歩くと見慣れた家の、見慣れた玄関。
何の迷いも躊躇もなくドアノブに手を掛ける。少し開いた玄関のドアから、ふわりと何かすごく良い匂いがする。今日はカレーかな、給食もカレーだったのに、でも美味しいからいいや、と彼は思う。
ドアを開いて中に入ると、玄関に黒いパンプスが綺麗に並んでいた。
顔を上げると短い廊下が伸びていて、その先にある一室は広い窓から夕日が差していて、オレンジ色に染まっていた。
カレーの匂いはさらに濃くなり、オレンジ色の中に、横から人影がすっと現れる。
逆光で顔は良く見えないが、彼は心から安らぐような気持ちになる。
顔は見えないが、その人は微笑んでいるような気がした。
そして柔らかく澄んだ声で「おかえりなさい」と|||
勇者はふと我に帰る。
(これは…俺の記憶なのか)
ああ、なんて甘美で柔らかく包み込むような記憶なのだろう。
人間という生き物の暖かさを、俺は知っている。
勇者は月明かりを頼りに自分の手を見つめた。薄明かりの中でもはっきりと、その手のひらが、腕が、灰色掛かった死者のそれであると分かる。
(人間がいたとして、こんな化け物は到底受け入れられないだろうな…)
ここ這い出たとしても、人里には近づく事はできない。
(ウサギ、通らないかなぁ)
勇者はぼんやりと空を見つめて呟いた。
やはり声にならない人外の呻き声が漏れ出てきた。
キキキと遠くの木の枝から、小動物の鳴き声がする。勇者は自嘲気味に、今の自分には決して捕らえられない食べ物の鳴き声がする、と思った。
(あまり気が進まないけど森に入るしかないか、ここよりは食い物のバリエーションはマシだろう…)
勇者は半身を捻って斜め後ろを振り返り、墓石の群れの先にある深く黒い森をじっと見つめた。どこまでも続く暗闇の先には何も見えない。
呼吸をしてないので実際には出ていない空の溜息を吐く。
勇者は頭を振りながら体を前に戻そうとした、その時。
何か隣の地面に蠢く物があった。
一瞬ウサギの再来かと思い、そちらを凝視する。
しかしそこには何も無い。何も無いが確かに蠢いている。
(地面が…動いてる!?)
下から押し上げられるように、地面がモゾモゾと動き、少しずつ隆起していく。
(おいおいおい、マジかよ!)
今現在の自分の身の上を考えれば、この後の展開は容易に想像できる。
この土の隆起は間もなく崩壊し、地面を突き破って埋葬されている死者の腕が飛び出してくる。
自分も絶賛ゾンビ中なので、これから登場するであろう同業者に恐怖は無いが、何とんなく焦りと、同時に僅かな期待があった。初対面のゾンビとどう接すればいいのだろう?言葉は通じるのだろうか?いきなり襲ってきたりしないだろうか?いや意外と無視されて寂しい感じになってしまうかも。
しかし少なくとも、この後自分は一人ではない事は確実だ。
いよいよ地面の盛り上がりにヒビ割れが入って、もはや隣人の登場は秒読みである。
勇者は固唾を飲んで見守る。
ザッと土が飛び散る音がして、地面から右腕が生えた。
(うおおおお!やっぱりぃぃぃぃ!)
地面から突き出た腕は不規則に動きながら、さらに周囲の土を崩して肩の辺りまで地上に突出してきた。しかしまだ頭までは出てきていない。
(こいつ…斜めに埋まってるのか?)
勇者は苦しい体勢でジタバタする腕を見て、手伝ってあげたい気持ちになっていたが、自分の位置からでは腕が届かないので引っ張り出してやる事もできない。
(頑張れ!頑張れ!)
右腕の奮闘で地面はかなり崩れてきた。肩から首筋が見えてきた。あとは曲がった首を起こすだけで地面から頭が出せるところまで来ている。
(もう少しだ!負けるな!)
右腕が地面を掴んで渾身と思われる動きで地面を押しやる、次の瞬間。
勢いを付けて頭が飛び出してきて、そのまま左腕も出てきて、人型の上半身が砂煙の中に現れた。
(出たーーーーー!!!)
砂煙はすぐに落ち着いて、月明かりの中に胸元から下を埋めた人の姿が見えてきた。
奇しくも勇者とまったく同じ状態である。
(お、女の子か…?)
年の頃なら十代半ばといった所か。
華奢で小さい肩から伸びた細い腕。青みががった黒髪の少女がそこにいた。
しかし肌は灰色なので、勇者と同じように、すでに生命活動は終えていそうな風貌であった。
(あ、可愛い)
少女の横顔に見とれてしまった。
端正に整った輪郭、薄明かりでも分かる長い睫毛に大きな瞳。
勇者はその美貌を凝視しながら、同時に少女の次の行動を見守り続けた。
そして体感的に数十分は経っただろうか。
(この子…全然動かないぞ…)
少女は地面から上半身だけ生やしたまま、身動き一つせずにボケーッと虚空に視線を向けている。
そろそろ痺れを切らしてきた勇者は意を決して声を掛けてみた。
(あのー…)
実際には「ぐおー」というゾンビ的発音の呻き声である。
そして勇者は次の言葉が出てこない。
今しがた地面から湧いてきたゾンビに話し掛けた経験は当然ないので、何を言っていいか分からない。
勇者は「あはは…」と自嘲気味に引きつった笑みを浮かべて、ふと地面に視線を落とした。そこには食べ残しの備蓄ネズミの死骸が転がっている。
それを手に取り、少女に差し出す。
「良かったらコレ、食べる?」
するとこれまで微動だにしなかった少女の首が突然ギュルンと回り、勇者の差し出すネズミを凝視した。勇者は驚きのあまり声も出せずに固まった。
少女はネズミからゆっくりと視線を上げて、勇者に顔を向ける。
正面から見ても可愛いな、と勇者はあまり状況にそぐわない感想を持った。
そして少女の唇が僅かに動いた。
「ありがとう」
ああ、綺麗な子って声も美しいんだな、と勇者は思った。
少女は素早く勇者の手からネズミを掻っ攫うと、頭から勢いよくかぶりつく。
骨を噛み砕く音が墓所に響いた。
良い食べっぷりだなぁ、そんなにお腹が空いていたのか。ネズミ獲ってて良かった。
勇者はうんうんと満足げに頷く。
そして物の数秒でネズミを食べ終えた少女を見ながら、だいぶ遅れてその事実に気がついた。
「え?いま会話できた!?」
先程聞いた少女の声もゾンビの呻き声である。
しかし確かに自分は、その言葉の意味を理解し、そして美しい声だと感じた。
ゾンビ語が脳内で自動変換されているような、そんな感覚だった。
狼狽える勇者に対して少女は逆に余裕の表情を湛えているように見えた。
死者に対してこう言うのも変だが、ネズミを食べたおかげて多少生気が戻ったような感じがした。
「これ…」
「は、はい!」
少女は勇者の傍らに落ちているネズミの死骸に視線を落とす。
死んでるとは言え、年頃の娘さんにネズミを食べさせたのはデリカシーに欠ける行動だっただろうかと勇者は少し、目の前の彼女に対して及び腰になる。
「ご、ごめん」
ネズミがマズイのは自分のせいで無いことは重々承知しているが、勇者はつい謝ってしまった。
「ネズミって、こんなに美味しくないんですね」
「ははは…俺もそう思う」
少女は目を細めて少しだけ唇の端を上げ、初めて表情を変えた。
「もう一ついただけないですか?」
まったく生を感じさせない少女の微笑みは、月明かりの下では神々しさすらあって、勇者はしていなのはずの息を飲まずにはいられなかった。