雨、ネズミの女王、深まるクマ
「うは…うひゃはは!できた!ついに完成した!」
夜半から降り出した雨は徐々に勢いを増し、いつしか雷鳴を纏う嵐になっていた。
千年の歴史を持つ魔法都市、スカンビット王国の王都ビットハイムは数百キロに渡り外周を高い壁に囲まれた城塞都市である。
王都の西の外れ、見上げるほど高く、視界を覆ってしまうほど広い壁に沿うように、下級市民が暮らすスラムが形成されている。そのスラムの一角にある通りの名を記す看板が、激しい風雨に晒されガタガタと音を立てて揺れていた。
看板には「ネズミ横丁」と書いてあった。
ネズミ横丁に限った話ではないが、西のスラム街は人間、犬猫、ネズミの順で死んだような目をして暮らしている。ここでは人間と犬と猫は日々の糧に困窮し、常に腹を空かしているのに対し、ゴミだろうが、下水に浮く動物の死骸だろうが何でも食べて、元気に駆け回るネズミの方が、よほど充実した生活をしている。
そして特にネズミが多い通りを、諦めにも似た感情で、そのまま名前にしてしまったのが、ここネズミ横丁である。
普段は通りを忙しく駆け回るネズミで賑やかだが、さすがに今夜はどこかに潜んで嵐が去るのを待っているようで、辺りには一匹も見当たらなかった。
ネズミ横丁は奥に進めば進むほど、人よりも犬、犬よりも猫、猫よりもネズミに適した住環境となっており、最も奥の壁を背にした住居は、もはや住居と呼ぶには難しく、朝になれば眠そうな顔の魔物がゴミ袋を持って出てきても不思議ではないほど、建築という人類の叡智を完全に無視した、人の住まいとして完膚なきまでにアウトな外観であった。
その最奥の家から嵐でも掻き消せないほどの奇声が漏れ出していた。
「わきゃああああ!ついに!できた!さすが私!すごい私!マジ天才!ふひゃひゃひゃひゃっ…ゴホ!ゴホゴホゴホ!うぇごほ!」
メリル・スタンレーは、室内なのに黒いとんがり帽子に黒衣をまとった、魔女然とした出で立ちで、咳込みながら、時々えづいたりしていた。
かなり久々に発した声が、これまでの人生でも一番の歓喜の奇声だったので、思わずむせてしまったが、ギリギリ吐かずにすんだ。
「うー、危ない危ない、喜びのあまりゲロるところだった…」
涙目になりつつ、袖で拭う口元は怪しげな笑みで歪んでいたが、すぐに唇をギュと噛んで肩を震わせ始めた。彼女の眼前の床にはゆらゆらと妖しく発光する魔法陣が描かれていた。
「長かった…長かったよぅううわぁああああん!」
スカンビット王国の北部、農業地帯の北、さらにその北の北の北に位置する、貧しい寒村であるカペル村にあるスタンレー家の長女としてメリルが産まれて14年、一人前の魔術師を目指して、王立魔術学院の門を叩いのは数年前の春の頃だった。
スカンビット王国では魔法都市らしく、基準を満たした優秀な師弟の学費を免除する制度があり、メリルは入学試験で何とか学費の免除だけは勝ち取る事ができた。
しかしメリルの実家はカペル村の多くの家がそうであるように貧しく、さらに乳飲み子も含む幼い兄弟が11人もいたので、当然実家からの仕送りはなく、スラム街の住人相手に薬を作ったり、魔除けの祈祷をして僅かな現金や食料を得ながら暮らしていた。
そして王立魔術学院の生徒の多くは、貴族や裕福な商家の子息達である。
メリルは決して立派ではない自分の産まれについて、思春期の乙女的な感情と極貧の劣等感が相まって、少なからず恥ずかしいと思っていたが、幸か不幸か、周囲にそれを気にする生徒はいなかった。
貧乏人をイジメる、トカゲのような陰湿な顔をした金持ちのボンボンでもいれば、元来負けず嫌いな性格のメリルは、それはそれは単純に奮起して学院生活に邁進できていたかもしれないが、金持ちの余裕というのを舐めてはいけなかった。
みんながみんな、天使の爪の垢でも煎じて毎朝飲んでるかのように、誰がどんな出自だろうが別け隔てなく優しく穏やかに、公正に接してくるのである。
「メリルさん、ご一緒にランチでもいかがかしら?」
劣等感から人を避けて過ごしがちなメリルを孤独から救おうと手を差し伸べるクラスメイトの、この慈愛に満ちた一言が、普段の昼食は基本的に水と石のように硬いパンだけで過ごすメリルを、どれだけ傷つけてきたかは誰も知らない。
「そのなんやかんやも…今日で終わる!私は完成させた!誰も成し得なかった術式を!」
メリルは黒衣の裾を大げさにひるがえし、手に持っていた魔導書をバタンを片手で閉じると、床に描かれた魔法陣に背を向けた。そして孤独と睡眠不足を拗らせた眼光をギラリと光らせる。
「プエブロ、フロール、ビッケ、ロメオ!今日はお祝いよ!いつもより大きなパンをあげる」
号令に反応して、どこからともなく4匹のネズミがメリルの前に整列した。
「この術式が完成したのも、あなた達の助けがあってこそ」
メリルはネズミ相手に深々とお辞儀をした。
ネズミたちは「いえいえ、そんな事ありませんよ」と首を振ったり、鼻をヒクヒクさせたり、尻尾をくるくる回したりしている。
「あなた達は他のネズミを率いて、薬の材料を採ってきたり、実験に必要な動物の死骸を探してきてくれた…本っ当に感謝に絶えません…!」
メリルは思わず感涙して口元を隠す。ネズミ達も目に涙を浮かべていた。
メリルは貧乏で卑屈で劣等感の塊なので孤独を選ぶ性格だったが、不幸な事に孤独に耐える精神力は持っていなかった。
彼女は寂しさのあまり、部屋を徘徊するネズミを友として話相手にしていたが、元々の心根は清らかで優しい乙女なのである。その清純さに心打たれ、いつしかネズミ達もメリルをこの家の主として認め、彼女の研究を助けるべく忠実な下僕となって働いていたのである。
「本当は手伝ってくれたネズミ全員にパンをあげたいのだけれど…うちにはこれだけしか無いから…あなた達だけね」
申し訳なさそうにそう言って、メリルは戸棚からパンを取り出し、いつもより大きくちぎって4匹ののネズミ達の前に並べた。
「さあ、食べて食べて」
ネズミ達はメリルの経済事情を動物の本能で察知しているかのように、いつもより大きいパンに手を出す事を躊躇っていたが、メリルに促され、一礼して勢いよく齧りついた。
一気にパンを平らげたネズミ達は再び我が主に一礼すると、4匹とも散り散りに壁の隙間や床の穴に消えていった。
「なんていい子たちなのかしら」
目を細めてネズミ達が消えた部屋を眺めた。ネズミは親切な隣人で、そして大切な友人だ。しかし彼女は実情を良く理解していなかった。
4匹のネズミは、それぞれのグループをまとめるリーダーで、メリルの忠実な軍隊として日々主の希望を叶える為に東奔西走していたのである。
その数、実に数十万匹。
薬草を取るため、危険を犯してビットハイムの外に出るネズミは徐々に経験を積み、たくましく成長した。城壁内のありとあらゆる場所を徘徊し研究資材を調達するネズミは賢さを増していった。さらにその中で繁殖が行われ、ネズミ達は先人の知恵と勇気を身に着けて、さらに数を増やしていき、自分たちが進化するキッカケを与えてくれたメリルを神の如く崇拝していたのである。
そしてネズミ軍団には、それぞれのリーダーから固く言い渡されている掟があった。
メリル様と同族である人間に迷惑を掛けてはならない。
通常、増え過ぎたネズミは多くの問題を起こすが、女王を尊敬し忠誠を誓う彼らは、元々の住処であるスラム街以外では、人目を徹底的に避けて行動していた。
さらにネズミが媒介する病のたぐいも、魔法に劣らず医術も発達しているビットハイムでは、他国に比べて予防ができており、問題化していなかった。
この世に類を見ない魔法立国スカンビットは、高度なネズミとの共存共栄を、誰も知らない間に成し遂げた国でもあった。
「あ、そう言えば雨…」
メリルはカーテンを少し開いて外の様子をのぞく。
いつしか風と雷鳴は止んでいた。
両脇を粗末な建物で挟まれたネズミ横丁から見上げる狭い空には、雲の切れ目から星が瞬いて見えた。
「よし、これなら明日は出かけられそうね。今夜は早く休むとしましょう」
しかしメリルは期待と興奮に頬を紅潮させて、睡眠不足だが眠れそうにもないので、いつまでも星を眺めていた。
夜と目の下のクマがどんどん黒く深まっていった。