埋まる決意、化物、絶望
さて、晴れて娑婆の空気を吸う事に成功したわけだが、彼は相変わらず下半身を土中に埋めたまま呆然としていた。
ここから這い出てて二本の足で大地を踏むのは簡単だが、しかし慎重になる必要がある。
今後の行動の一つ一つが今現在、彼の胸中を騒々しくかき回している「ある嫌な予感」を丁寧に裏付けしていって、いつか確信に変えて行くだろう。
それはシンプルにして避ける事が不可能な純然たる現実だが、せめて心の準備は万全にしておきたい。
(ひとまず落ち着こう…今の状況を整理するんだ…)
・なぜか墓に埋葬され、土中で意識を取り戻した。
・過去の記憶はないが、見聞きした知識や経験は残っている。
・死に対する恐怖が著しく欠如している。
・呼吸をしなくても苦しむ事はなく、酸欠で昏倒する事もない。
・上手く発声ができず、不気味なうめき声となる。
・埋葬されている点から一度死んでいるが、現在進行系で今も死んでいる可能性がある。
以上の状況証拠から推察し、一つの仮説に辿り着く。
(これはもう100%夢オチだな!)
恐らくそうに違いない…。いやそうに決まっている!死んだ心当たりもないのに、気づいたら突然ゾンビに成り果ててしまっている訳が無い!そんな脈絡の無い展開があっていいはずがない!
彼は下半身を埋めたまま溜め息をついた。
呼吸する必要はないから、本来溜め息も出ないが、落ち込んでる時はハアと一息就くのが人間らしい素振りである。現状、ゾンビかもしれないが、人間らしさを忘れまいと、敢えて盛大に息を吐き出した。
同時にウボォオオオオという空恐ろしい呻き声が漏れ出て、さらに落ち込んだ。
分かってはいたが、たぶんこれは夢では無い。
地面に頬杖をついてボンヤリと途方に暮れる。土の中はひんやりしてて気持ちが良い。
(そう言えば、昔俺はゾンビ映画を見たんだよな…)
映画を見た、という記憶が残っているという事だ。
それは通常であれば、見た場所が自宅のリビンクなのか、映画館なのか、自宅ならばレンタルしたソフトだったのか、購入したものなか、というような「映画を見た」という事実に付随した記憶もあるはずだが、ただ映画と、その映像のゾンビという概念だけが頭の中にあって、それ以外は一切の思い出せなかった。
(誰かと…見たのかな…?)
その映画を一人で見たのか。それとも二人だろうか。家族、友人、もしかしたら恋人と…。全く思い出せない。せめて願わくば、このおぼろげな記憶が楽しい思い出であって欲しいと思った。
俺は人間だった。善良な市民だったかもしれないし、クズのような悪人だったかもしれない。愉快で幸福な日々だったかもしれないし、最低の人生を歩んでいたかもしれない。何もかも曖昧模糊としているが、しかし確実に言えるのは、俺は人として生きて死んでしまった。
そして今はゾンビだ。
クソっ!と言って地面を殴り付けた。実際には「ぐおっ!」と言っていた。
(もう、どうでもいいか…)
このまま地面から上がらずに、そして朽ち果てよう。
もし神や悪魔の思し召しで、自分がゾンビになったのだとしても、それでも人間でいたい。
ふらふらと死臭を散らし歩きながら、人畜を襲って食らう、そんな模範的ゾンビになるなんてまっぴらだ。このまま全身ドロドロに腐って、さらにゾンビの弱点であろう脳が溶け落ちて、再び死を迎えるその日まで、ここを絶対に動かない。
それが自分に残された人としての矜持だ。
彼は夜空を仰ぎ見た。
まん丸の大きな月が、どこまでも暗い夜のスクリーンに浮かんでいる。今日は満月なのだろうか。これから長く暇を持て余すだろう。そうだ、月の満ち欠けや星の動きを観察して過ごそう。周りを見れば、ここは森にほど近い場所のようだ。季節の草花の様子を見て楽しむ事もできそうだ。そうして平穏に最期を待とう。
(うん、そうしよう。きっと悪くない余生だ…)
彼は静かに決意して、視線を下に移した。
その瞬間、何か小さな影が素早く視界の端で動いた。
それが何であるか思考する間もなく、本能的にそうしたとしか言えない反射で、小さな影を右手で掴み取っていた。手の中にキィキィと甲高く鳴く灰色のネズミがいた。
澱んだ両目でネズミを凝視して、おもむろに口を開いてネズミの頭蓋を噛み砕いた。ネズミは一瞬だけ体を硬直させ、直後に弛緩して絶命した。
そして一切の感情も無く、そうする事が当然であるかのように、その小さな肉塊を貪った。頭蓋から脳髄が舌の上に溢れ、目玉が歯の間でプチっと爆ぜた。鋭利な骨も肉と一緒に歯で磨り潰し、糞尿の臭いがする内臓もグチャグチャと咀嚼して飲み下す。間も無くネズミは跡形も残さず腹に収まり、彼は指に付いた血液を舌で舐め取っていた。
そしてすっかり綺麗になった自分の手の平をじっと見つめて、やがてゆっくりと小刻みに震えながら頭を抱え込んで、顔を歪ませた。
(ああ、なんてこった…俺は本当に化物になってしまった…)
心の中を絶望と悲しみが満たして、それはやがて嗚咽として声になり、血塗れの口から溢れ出したが、しかしこの慟哭も醜い化物の雄叫びでしか無い。
辺りが白けて夜が明けるまで、その叫びは続けた。