勇者、アンダー、土中
結局、特別研究棟崩落事件は、ヤンチャな魔術師による不慮の事故という、割と事実に則した形で公表され、その責任を取り一人の魔術師が王都を所払いされるという事で一応の落とし所となった。怪我人が出なかった事が一番の要因だが、レイド将軍の懸念に反して、民衆の間から犯人の処遇についての不満は特段聞かれず、昔から特別研究棟では魔術師がメチャクチャな事をしているという噂ではあったので、いつか崩れるものだと思っていた、むしろ今まで無事だったのが奇跡、という論評が大勢を占めていた。
出発を数日後に控えたある日、メリルはすでに修復の始まっている特別研究棟を下から眺めていた。
(あの時…)
勇者と魔王の魂が触れた瞬間に聞いた声を思い出していた。
テメェふざけんなよ!その声は確かにそう言った。
不思議な声の主に怒られた。
(たぶん怒られたの私だよね…誰だったんだろう?)
ロメオがメリルの黒衣の袖をクイクイと引っ張った。
「メリル様、勇者様を見つけましょう!必ず!」
自分の心情を察してくれたのだろうか。頼もしいロメオの言葉に「うん!」と言って笑顔がこぼれた。
「なあ、みんな!」
「おー!」
ロメオの後ろに並んだ、ロメオと同じ背格好の3人の少年少女ネズミ達は気勢を上げた。
(それにしても増えたなぁー…)
メリルは苦笑いで答えた。
勇者様は、今どこにいるのだろう。
メリルは特別研究棟の上の部分が無くなって、少し広くなった遠くの空を見つめた。
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―――そして東の最果て。
魔物が跋扈する深い森林地帯にほど近い、今は捨てられて住む者もない廃村。その村の共同墓地は昼間でも薄暗く、夜になれば闇に閉ざされ、辛うじて月明かりだけがある。まるで命ある者の存在を拒むかのような不気味な静寂に、そこは支配されていた
しかし彼は今、その静寂すらも届かない場所にいる。
初めに暖かく力強い光を見たような気がする、同時に可視化できるまでに夜を凝縮したような暗い存在を感じた。そして今は、音もなく、何も見えず、境界が曖昧な頼りない意識だけになり、周囲と溶け合って滲んだシミのような自分の存在を、ぼんやりと認識しているだけ。
ここはどこだろう?俺は誰だろう?
そんな当然の疑問すら、取り留めのない思考にように、ただ湧き起こって散り散りに消えていく。
暗く大きな川を流れる水のように、彼は全てであり一部でしかない。何者でもなく、ただそこにある何かだった。
しかしまどろみを繰り返す意識の切れ目にわずかに荒立った感情がよぎる。
それは怒りとなって増殖し、ついには明確な意志を持って溢れ出した。
(テメェふざけんなよ!)
誰に、何に対しての怒りなのか自分でも良く分からない。ただ朧気に、自身がとんでもない理不尽に遭遇したという感覚だけが、不愉快な粘着質の膜のように覆い被さる。
そして誰かの声が聞こえてくる。
(…とりあえずゴメン!)
とりあえずって何だよ…!
そして次の瞬間。
頭の中でパチンと爆ぜるような感覚がして、急速に意識がスタートアップを開始した。
それに伴い(ここ…どこ…?)と自分が置かれた空間についての疑問が湧く程度に思考が戻ると同時。
(???!!?!??!?!??!?)
訳が分からなかった。
自分は今「目が覚めた」のか?
或いは今「産まれた」のか?
そんな二つの可能性を思う程度に、現在自分が置かれている状況に対して身に覚えがないのである。
(ここはどこだ?俺…誰だ?…いやいや、そんな森羅万象にお伺いを立てるような、宇宙的概念の質問をしてはいけない。俺はいつだった俺だ。そして誰だ?)
思考が徐々に明瞭になってきて、軽口を叩ける程度まで回復してくると、五体の感覚も追い付いてきてた。
手、足、胴体、首、頭。
(うん、ある。めっちゃある。俺の体のようだな…)
慣れ親しんだ体の感覚に特に違和感はない。慣れ親しんだ感覚があるという事は、自分は今産まれて初めて自我を得て思考しているのではなく、この場所で記憶が空っぽの状態で覚醒したというのが正解だろう。
(で結局ここはどこ…?)
冷たく湿った何かに全身が包まれて身動きが取れない。真っ暗闇で一筋の光も無く空気の流れも感じない、音もしない。意識が明るくなるにつて判明する情報に、情報性が一切ないのである。
しかし幸いな事に、頭に連続して疑問符が発生するばかりで、ここに至りむしろ平静でもあった。
(うーん、よく分からんが、まあ慌てても仕方ないか)
不思議な感覚だった。
この、目覚めた途端に自分探しを強制されているような不可解で不条理な有様に困り果ててはいるものの「何となく不便で困るなぁ」ぐらいの感覚で、自然と楽観視している自分がいるのである。
突然に目が覚めて、記憶がなく身動きも取れず、何も分からない状況になった時、人は少なからずパニックを起こすはずだ。それは置かれた環境が安全なのか危険なのかを判断できずに、本能的に死を予感してしまうからだ。
彼は今、まるで動物としての死の恐怖を忘れ去ってしまったようだった。
ごく自然に「死にゃしないから、ゆっくりやろう」の精神で、知らぬ間に悟っているのかのようだった。
(それはそうと…)
身動きが取れないのは困ったものである。
この全身にピッタリと纏わりつく冷たくて湿った物はいったい何なのか?彼はその正体を探ろうと手足の指先をクニクニと蠢かしてみる。
全身を躍動させて跳ね回るには程遠いが、指先を動かす事は可能なようだ。繰り返し小刻みに手足の指を動作させるうちに、徐々にそこに空間が出来てきて、自由に動く範囲が広がって行くのを感じた。
この冷たく湿った何かは、意外に柔らかく、触れた感覚を確かめると何か粒状のようである。彼はこの感触に覚えがあった。
(これは…土か…?)
目覚めて以来、記憶も含めて全て前後不覚という不遇の身の上であるが、ここに来てさらに不幸な仮説が立ってしまった。
(俺、土に埋まってる…?)
彼のこの予測が正しいとしよう。
しかし世間一般的に、全身を丸ごと土に埋められるというのは尋常な事態ではない。何かの罰や嫌がらせで、首から下を埋められてしまう人は稀だが、これまでも存在したであろう。
しかしこの場合は首から上も土中である。
頭からつま先までくまなく地下だ。身に覚えはないが、いったいどれほどの悪事を働けば、こんな目に合うのか。
(でもまあ…こんな時こそ慌てず…)
超人的な冷静さすぐ様受け入れた。
生き埋めにされているのであれば、ぜひともすぐに地上に出たいところだが、埋められているという事は、埋めた人物がいるという事でもある。
(俺は誰かに、何かとんでもない恨みを買ってしまったのか…?もしくは何かの原因で仮死状態になって、死体と勘違いされて埋められてしまったとか…)
うんうんと考えあぐねるうち、だんだんと事態そのものが面倒になってきていた。
(いっそこのまましばらく、文字通り地下に潜伏して過ごそうか…)
冷たく湿り気を帯びて周囲を固める物が、実はただの土だと分かってしまえば「ひんやりしてて気持ちいい」と解釈する事も可能である。視点を変えれば、危険も不安も少なく快適な環境とも思える。
(そうだ、そうしよう、何となく地上は不穏だしここにいよう。意外に苦しくもないし)
そうして安住の地を得たりと思った矢先に気がついてしまった。
(ん…?苦しくない…?)
言うまでもなく、地下に充実した酸素は存在しない。
(え、なにこれ…怖いんだけど!)
ここに来て初めての焦燥が頭をもたげて彼の感情を支配していく。酸欠による死への恐怖ではなく、空気が無くても平穏無事に土中ライフを満喫しようとしていた自分が理解できなかったからだ。慌てふためいて手足をバタつかせると、だんだんと土が押しのけられて可動範囲が広がっていく。
(よし…このまま地上に!…ってあれ?これ…どっちに…)
果たしてどちらに掘り進めば良いのか分からない。自分は今、縦なのか横なのか、もしくは逆さまなのか。
まかり間違ってさらに下に進んでしまえば、人類初の生身でマントルを突破した男になってしまいかねない。普通はマントルに達せず死亡するが、死ぬかもという気持ちだけは、相変わらず微塵も湧いてこないので、マントル突破からの内核への到達も夢では無いような気がしていた。
自分はただ、呼吸をするという人として当然の行動が取りたいだけだ。
もはや上だろうが下だろうが横だろうが関係ない。彼は比較的自由に動かせるようになってきた右手を思い切り突き出した。すると途端に右手から抵抗が消えて、土に邪魔されていた指先が空を切る。グーパーグーパーと手を握ったり開いたり、手首をクネクネと蠢かしてみたが、その動作を妨げる物はない。どうやら右手が地表を貫いたようだった。
(…あ、意外と深くなかったのね…)
思いのほか浅く控えめに埋められていたようで、慌てふためいた自分が恥ずかしく思えた。
その羞恥心を振り払うように続けて左手も突き出し、そのままグイっと上体を強引に起こして地上に這い出ようとする。
生温い風が頬を撫でた。
久しぶりに、或いは産まれて初めて見る光は、夜の月明かりだった。
暗闇から出てきたばかりなので、月光でも周囲の様子は比較的鮮明に見て取れた。
ほぼ同じ大きさに加工された石や、十字に組まれた木の杭が等間隔に整然と並んでいる。人の気配はない。
月明かりが美しい夜なのに、辺りには生気が感じられず、空気が淀んですらいる。
せっかく呼吸しに外に出たと言うのに淀んでるとは何事か。
彼は憤慨して、清浄な大気で深呼吸できるまでは呼吸自体をボイコットしようかとも考えたが、どうしても言いたい独り言があったので、まったくもって苦しくはなかったが仕方なく呼吸する事にした。
声帯を震わせて空気を振動させなければ発音はできないのだ。
スーッと息を吸い込んで、改めて周囲を見渡した。
「う…うばぁああ…」
ここ墓場だよな?と言ったつもりが、まるで墓地から這い出た死者の第一声のような、醜悪でおどろおどろしい怨念のような音が口から漏れた。
引きこもりで長い間誰とも会話していない人が、久しぶりに外出してコンビニで弁当を買った際に「温めますか?」と店員から不意に問われるも、全く使用していない声帯の使い方が思い出せず「はい」と言うつもりが「ひゃい!」と言ってしまう、そんな現象に似たものだろうか?
でなければ今の声はまるで、昔映画で見た事のある「ゾンビ」その物だ。