序
月が近い。世界は、冷たく澄んだ湖の底深く沈んでしまったかのように静かで、見上げる水面には、所々に雲のさざなみが立っている。風が流れるたびに弾けて溢れるのは、むせ返るような甘い香り……足元にそよぐ白い花々は、踏み分けて歩む者を幻想へと誘おうとする、無数の小さな手だった。月香花の海は、そうして大樹を守っている。
ふと、蛍火に似た輝きが目の前をかすめ飛んで、アメルは暗闇を振り仰いだ。頬に吹き寄せる風が、生ぬるい。目に見えない大きな生物の息づかいが、そこにあるかのように。
(まただ、また……)
時は、刻一刻と迫っている。あの光は、生命からはがれ落ちるもの。彼の花が散らす花弁だ。それはいつも、空の彼方に吸い込まれて、消えてしまう。
「ジンシャン!」
アメルは駆け出した。人の足では追いつき、追い越すことのできない何かに抗いながら。――どうしても、手を伸ばして繋ぎ止めたい何かのために。
大樹は、白蛇のとぐろのように、しかし繊細に、根を大地に這わせている。日に日に厚く閉ざされていく、その頑丈な帳をかき分けて、アメルはほっと息をついた。ほの青く発光する木肌に抱かれて、ジンシャンは変わらず眠っている。まるで胎児のように……。
「ジンシャン、おれがすぐに行くからさ。きっと、もとのおまえに戻してあげる」
一際煌々と光を受けた白い花。アメルはためらいなくそれを手折り、すっと口づけた。冷たい蜜、甘くて、舌先が痺れる毒の蜜。
指先の感覚が、遠ざかっていく。アメルは花を取り落とし、真冬の凍った水に手を浸す瞬間を思い出していた。少し痛くて、心地よい。身体と別のものが混ざり合おうとして反発し、いつもより、触れた場所が熱く感じられる。
(すぐに、すぐに行くからね……)
四方から黒い気配が滲み出して、視界を閉ざしていく。同時に、意識は小さく小さく丸められて、壺の中に押し込められる心地がした。急速に、眠りに落ちる……。