伽藍の堂
妻とも死別し、伽藍の堂となった我が家に、千春と柊がやってきた。千春は柊を置いていくとすぐに買い物へと出かけた。
祖父の家に遊びに来たというのに、柊は忙しなく金板を擦っている。今ではあの携帯一台あれば、ほとんど事足りるらしい。便利ではあるがつまらん時代になったものだ。昭三は居間で茶を啜りながら、柊との話題を探すが、学校は楽しいか、などと当たり障りのない話題へと落ち着く。柊は些か辟易した様子で
「別に、普通」と、即座にまた手元の板へと視線を戻した。やはり最近の子供は嫌いである。どう扱えばいいかわからん。
昭三の家は市内からは離れた山の麓にある、当然付近に娯楽施設などなく、最寄りのコンビニにさえ歩いて三十分はかかる。小学生の柊は暇を持て余してるようであるが、こんな無愛想な孫の相手など誰が好き好んでするものか、昭三はささくれた気分をお茶で流し込んだ。結局、それから千春が帰ってくるまで、二人の間に会話は無かった。
「ただいま、どうだ、田舎もたまにはいいだろ?」帰宅した千春と柊が居間で話していた。千春は一時間ほどで手早く庭の掃除などをした後、バツの悪そうな顔をしてそそくさと帰っていった。病床の母の最後に仕事で立ち会えなかったことを負い目に感じているのか、定期的にこうして帰ってきては二つ三つ家事をして帰ってゆく。小さな頃はやんちゃで裏山に分け入っては擦り傷だらけになっていたものだが、大人になるにつれ母に似たのか礼儀正しく律儀な子に育った。
「早く帰ろうよ、ここネットないし、最悪」あの時、襖を一つ挟んで聞こえてきた言葉に胸の奥が苛立ったが、それを吐き出してもきっと良いことは無いので昭三は気づかないふりをした。
柊は千春が東京で出会った女との間に出来た子だ。女は柊が産まれてすぐ他の男を作って出て行った。東京の女はやはり碌な奴がいない。そのせいか、昭三の初孫にあたる柊にさえ、どこか仄暗い気持ちを抱いてしまう。柊の悪い側面は全て卑しい女の遺伝だと思ってしまいたくなる。
ある日、千春が二ヶ月ほど海外に出張となった。以前にもまして仕事に精が出るのは、片親でも柊に金銭的な不自由のない生活をさせるためだろう。
当然のことではあるが、その間、柊が預けられたのは、やたらと広くてボロいこの老人の家だった。ちょうど夏休みと言うこともあり、ただ面倒を見てくれればいいと千春は言うが、困ったものだ。
柊は金板を擦る、昭三は茶を飲む。そんな生活が三日ほど続いたが流石に昭三は耐えられず、
「何をそんなに一生懸命、険しい顔で携帯と睨めっこしとるんだ」と尋ねた。
すると柊は目だけを僅かにこちらに向け
「ゲーム」とだけ答えた。あまりのつっけんどんさに昭三は話しかけることを辞めた。
それからしばらく経った日、廊下の掃除をしていると、居間にいた柊がやってきて話しかけてきた。
「なんでこの家ネット繋いでないの?」珍しく話しかけてきたと思えば、えらく不機嫌な声音だった。
「固定電話は繋がっとるから特に必要も無い」現に昭三は携帯電話を持たずとも不便を感じたことはなかった。
しかし柊は不貞腐れており、
「ゲームも通信速度制限で出来ないし、ネットくらい繋いでよ」とボソボソと文句を言って大きな足音を立てて居間へと戻っていった。古い床板は不快な余韻を廊下に響かせた。いつもなら聞こえないふりをする先ほどの呟きも、何故か今回ばかりは無視する気になれず、昭三は柊の後を追いかけ、携帯を取り上げた。柊は突然の行動に怒り喚いている。昭三は気にもせず。
「千春のように家の手伝いをしてくれたら返してやろう。なに、大事な連絡が来たらその時は例外として使わせてやるから安心せい」とかっかっと笑った。
しかし、あまりにも鬼気迫る形相で喚くので訳を問い詰めると、
「そのゲームが弱いと尾形くんにバカにされるんだ、この前も──── 」
なるほど、どうやら尾形というガキ大将がゲームが弱い人間をバカにして笑い物にしているらしい。現在、柊は標的ではないが、このままできない状態が続けばどうなるかわからないらしい。いつの時代も子供の世界は大変だと思うと同時に柊も子供じみた悩みを抱えているのだと、少しだけ嬉しくなった。
「子供の流行り廃りは早いからな、すぐに別のものに変わるさ、なぁに心配するな」と諭した。どのみち通信制限とやらで出来ないからと怒りは収まったようだが柊は気が気でない様子である。どうにか気を紛らわせる方法はないかと辺りを見渡すと、庭に黒金黐が生えていた。昭三は碧々とした葉の中から若葉を選び摘み取り、細く巻くと口に当てた。甲高い音に驚いた柊がこちら振り向き、目を見開いている。
「やってみるか?」
それからしばらくの間、家には絶えずぐぐもった笛の音が響いていた。
庭の黒金黐の若葉は摘み尽くし、柊と昭三は家事が終わると探索がてらに山に遊びに行くようになった。
柊は山の中が新鮮なのか目に入るもの全てに興味を奪われていた。そしてそのたびに
「これなに?」と目を輝かせて訊いてきた。この辺りはやはり千春の子である。昭三は教えられるものはすべて教えたが、昭三でも解らないものがあると、その度に柊はつまらなさそうに頬を膨らませた。その顔を見るのが忍びなくなり、昭三は隠れて調べ物をするためにこっそり携帯電話を契約した。ついでにネット回線も契約すると割引が効くと、貼り付けたような笑顔でのたまう販売員。平時であればこの手の口説き文句では取り付く島もない昭三だが、今回は乗せられてしまった。無線ルーターとやらの取り付け工事は柊が帰るちょうど一週間前の予定だ。しかしそれを昭三が柊に伝えることは無かった。言ってしまえばこの時間が終わってしまうような、そんな気がしていた。最近は毎朝山に行きたがる柊に起こされていたがその日は玄関のチャイムの音で目が覚めた。唖然とする柊を尻目に作業は進み、男たちは一時間ほどで取り付け工事を終えると帰っていった。昭三は柊にスマホを返すと
「これでゲームもできるようになったぞ」と笑った。柊はそそくさとメッセージアプリを確認すると
「もうみんなあのゲームの話なんてしてないや、ほんとにもう飽きたんだ。」と胸を撫で下ろした。あの時、苦し紛れに言った言葉が的中したらしく、内心ほっとしていると。
「それよりあと一週間しか無いんだから早く山に行こうよ!」と昭三の袖を引いた。
柊がこの家から居なくなって一ヶ月、昭三は再び一人となった。しかし時折、千春や柊からメッセージが届く。柊は草笛が上手に吹けるようになったそうだ。千春曰くどうやら柊は事あるごとにこの家に帰ってきたがっているらしい。昭三はなんだかむず痒くなり、湯呑みに残る茶を一気に飲み干した。それからしばらくして庭の手入れしていると、生け垣越しに下校中の小学生が話す声が聞こえる。
「なんか街の方の友達が今度草笛教えてくれってさ。なんか向こうで流行ってるらしいよ。」
「なにそれ変なの。こっちじゃそんなの出来ない人の方が少ないのにね。」
全く、子供の流行りは本当に見当もつかんものだ。
伽藍の堂には、かっかっと老爺の笑い声が響き渡った。