誰8話 金剛石寺の悠玄 (Kan)
霧音は、アイボリーのニット・セーターとパンツの上から、ブラウン色のコートをゆったりと羽織って、白のスニーカーを履き、アメリカの少女がつけるような大きなサングラスをかけると、早朝の街をぶらぶら歩きで行った。
危機が去ったにも関わらず、霧音の意識は、女性であるところの自分に戻らず、お兄様であり続けた。
(どうする……。とにかくカタコンベをめぐって、物騒なことが起こっていることは確かだ)
封印されしカタコンベが今、大きく口を開け始めているのだ。
(面白い……)
霧音は鋭く宙を睨む。
(妹にはすまないが、やつらよりも先にカタコンベにたどり着く必要がある。どうやら不用意にカタコンベの封印を解こうとするものが何人もいるようだ。カタコンベに隠されている秘密が解き放たれる前に、片付けなければならないことがいくつもある……)
霧音はしかし、カタコンベがどうなっているのか完全に把握しているわけではない。お兄様だから何でも知っているというわけではないのだ。
S市の山中にあるのではないかとされるカタコンベと、M街のカタコンベにはなにかつながりがあるのではないかと推測しているが、S市の山中はいまだ謎のベールに包まれている。
となれば、
(M市のカタコンベに行くしかない……)
単純な考えだ。
しかし、気になることがある。そのカタコンベに、彼の妹とそっくりの少女が入っていくところが目撃されているのだ。お兄様だからと言って、すべての真相を把握しているわけではない。正直、その少女がなんであるのか、お兄様からしてもよく分からない。お兄様は、完全なる記憶を持っているわけではない。一つの肉体を妹とシェアしている分、意識が複雑に入り混じり、記憶が曖昧になっているところがいくつもある。
(妹が二人いるとか……)
まさか、と霧音は鼻で笑った。
(いずれにせよ、これから先、自分の知りたくない過去を知ってしまうかもな……)
霧音は、M街に向かうために、広い大通りに出た。電車で行くべきだと思ったが、今、自分は行方不明の身だし、人に見られるとすると面倒なことになるから歩きで行くことにした。
3駅ぐらいの距離ならなんとかなる。霧音は健脚で、高校生の頃には、山手線沿線を徒歩で一周したこともある。
(今、警察に捕まっている暇はない……)
事情が事情なだけに、警察に理解を得られる話ではない。
この道は、都内の新宿からそう離れていない場所にあるのに、あまり車が走っていないようだ。また車が走ってきても、それに助けを求めるつもりはない。頼れるのは自分のみだ。
自動販売機がある。霧音は、今、喉の乾きを感じていて、自分が一銭も金を持っていないことを考えた。
(多少の資金は必要だ……)
霧音は、自動販売機の鍵を、拳で打ち壊すと、そこから小銭と紙幣を探り出した。
(これだけあれば、少しの間、軍資金になる)
この世は金だ、と霧音は思って、笑ってしまった。
背後から猛烈な轟音が響いてきた。霧音は、驚いて振り返る。そこに巨大なトラックが迫ってきていた。それが歩道に乗り上げて、霧音を轢き殺そうとしたのである。
霧音は、咄嗟の判断で、トラックの下に滑り込んだ。トラックは霧音を上を通り抜けて、正面のラーメン屋に突っ込んだ。ラーメン屋の店先がぐしゃぐしゃに潰れる。
(なんだ……)
トラックから、早朝に見た不審者が飛び降りてきて、霧音のもとに走ってきた。手には、金属バットのようなものを持っている。
霧音は、ふふっと笑った。
「しつこいやつだ……」
不審者が金属バットを振り上げる。しかし、重たすぎるせいか、スピードが遅い。霧音はブラウン色のコートが風に煽られながら、見事な体捌きで、不審者の攻撃を回避するとともに背後にまわり込んだ。
「当たらないんだよ!」
霧音は厳しい声で叫んだ。
周囲の通勤者や、飲食店の従業員たちが何が起こったのかとぞくぞくと集まってくる。その視線の集まる先には、ラーメン屋に突っ込んだトラックと、格闘中の不審者と美女がいた。
不審者は、金属バットでは霧音のスピードに追いつかないことを知り、それを宙を放り投げると、短刀を出して、霧音に襲いかかった。
「なに……」
霧音は、間一髪のところで短刀の攻撃を回避すると、サングラスを不審者に投げつけて、大通りを闇雲に走った。このままでは殺されてしまう、と思った。
不審者は、背後から走ってきたもう一台の車に飛び乗り、霧音を追いかける。車に追いかけられたらひとたまりもない。霧音は、路地裏に逃げ込んだが、行き止まりで、もはや逃げ切ることはできないと思った。
車から不審者が降りてくる。
「サア……観念シロ。オマエガカタコンベニツイテナニカシッテイルコトハワカッテイル」
不審者は、おそらく霧音を誘拐する気だろう。
(ここまで、なのか……?)
霧音は絶望に打ちひしがれた。
その時、路地裏にもの凄い勢いで、バイクが飛び込んできた。それに驚いた不審者は慌てて、横に避けた。バイクは、霧音の隣にドリフトしながら停車した。そこには空衣に白い袈裟を着て、ヘルメットを装着した異様ないで立ちの人物が乗っていた。
「お嬢さん。お乗りなさい」
「えっ」
「乗るのです。それとも三途の川を渡りたいのですか」
霧音は、わけも分からずにバイクに飛び乗った、相手が敵か味方かも分からずに。それでも、明らかな不審者に誘拐されるよりはマシだと思った。
「振り落とされませんように、拙僧によく、しがみつくのですよ」
「わ、わかった」
「南無観世音菩薩……」
その人物は、そう称えると、バイクを急発進させて、路地裏から飛び出したのだった……。
危機が去ってから……。
バイクは、人通りのない駐車場にたどり着いた。霧音は、何か恐ろしいものに出会ったような気持ちで、バイクから降りた。
その人物はヘルメットを外した。まことに美しい面体の若い僧侶だった。漆のような光沢をもつ、剃り上げられた頭に、整った眉、目鼻立ちがはっきりとしていて、繊細な彫刻のような印象である。
「あなたは一体……」
「わたしは、金剛石寺の僧侶で、名を悠玄と申します。あなたがあの暴漢たちに襲われているのを見て、どうしても放っておけなかったのです」
悠玄は、霧音の美しい瞳に見つめられて少し恥ずかしそうにうつむいている。シャイなイケメン坊主なのだろう。
「あなたのおかげで命拾いしました」
「もし、なにかお困りであれば、拙僧になんなりとおっしゃってください。六道輪廻のどこまでも、それこそ地獄の果てでも、お供いたしましょう」
言うことが一々、大袈裟である。
「大丈夫です。このことに関係のない人を巻き込むわけにはいきません」
「しかし、前世においては……」
と悠玄は物静かに述べた。
「……いかなる関係であったか分かりません。あなたと出会ったこと、これはきっと偶然ではないでしょう。前世からの因果によるものか。わたしにおっしゃってください。わたしはもうあなたと無関係な間柄であるとは思っていません」
シャイなくせに、頑固なお坊さんだな、と霧音は笑った。そして、霧音は、このお坊さんにM街のカタコンベに連れて行ってもらうのも悪くないかな、と少し思えてきたのだった。




