第7話 ガンツフェルト→ISH《イッシュ》 (にのい・しち)
午前五時半。
前橋篤郎警部ら警察が到着する数時間前の事だ。
早朝の目覚めがこんなにもおぞましいなんてありえない。
鷹野橋智也の異様な亡骸。
「まかぁ はんにゃあ――――は!?」
霧音は手で口を塞ぎ言霊を飲み込む。
私、何をしてるの?
気が動転してすぐにでも自室から出たかったが、霧音は六畳間でスマートフォンを手に取り一一〇番へかけようとフリックする寸前、背後から羽交い締めにされた。
自分を襲撃する存在に全く気が付かなかった。
今、首を腕で締め付けられ密着している状態でさえ、襲撃者の息遣いが聞こえない。
風呂場に潜んでいたのか、影のように気配がしなかった。
窓ガラスに薄っすら写る自分を拘束する襲撃者は、黒いフードとマスクで顔を全体を覆っていた。
目はスコープのようなサングラス、徹底的に存在を隠そうと努めている。
襲撃者の声は音叉のようにブレた声を発した。
「イエ」
「な、何!?」
マスクの下に変声器を付けているようで、声だけで男か女か解らない。
服はゴワゴワと膨らみ、霧音を押さえこむ腕力も霧音自身にはねのける力が無いので、男女の判別が出来ない。
何より襲われているという恐怖に支配され、相手が何者で何が望みか考える余裕はない。
ただドアにチェーンだけは付けとけばよかったと後悔した。
「言エ……”カタコンベ”ノ場所ヲ言エ」
「し、知らない……知らない」
「本当ニ知ラナイノカ?」
安易な発想だが、これで解放されると思った。
「ソウカ…………知ラナイママ死ネ」
襲撃者の腕が力強く巻き付くと霧音は、苦しさでむせ呼吸がさらに辛くなり、意識が遠のく。
霧音の薄れゆく意識に浮かんだのは、ただ一つの存在。
お兄様、助けて……助け……。
あぁ、私、いつもお兄様に頼る。
お兄様は私が自力で歩む道を切り開かせる為に、私へ身体を譲った。
だからできる限り私は、現実と戦わないといけない。
霧音は全身の力をふり絞り両足で飛び上がると壁へ着地、そのまま脚力で壁を蹴る。
霧音の身体は運動の反発により、全身がハンマーのような力を得て、背中で襲撃者を押し出した。
襲撃者は霧音を押さえきれず後方へ突き飛ばされ、棚へ激突して霧音を離した。
襲撃者もろとも倒れた霧音は、床を這ってドアまで行くと立ち上がり、部屋から飛び出る。
一方の襲撃者は脳震盪を起こしたのかよろけながら立ち上がり霧音の影を追いかけた。
早朝ということもあり人の姿はなく、霧音が危機的な状況にあることを街は知らない。
真冬の中、裸足で走るのは身を切り刻むようだ。
手は冷えきりもはや自身の腕という認識もない。
だが襲撃者の足音は確実に迫っている。
近くの公園まで逃げたものの、襲撃者に追いつかれ身体を拘束された。
髪を乱暴に掴まれて池まで引きずられると、零下の水へ顔面を押し当てられ、溺死へ持ち込まれる。
必死でもがくが襲撃者は霧音のもがく力よりも更に力を入れて沈めた。
酸素が取り込めず次第に抵抗できなくなって意識がなくなる。
ぐったりした身体を襲撃者は、後始末が面倒になったのか凍るような池の水へ、霧音を荒っぽく押して沈めた。
針のように刺す水が霧音の意識を呼び戻すが、這い上がるほどの体力はない。
霧音は無重力の中を降下して行くように、ゆっくり沈む。
お兄様…………。
【ガンツフェルト】
この用語を訳した時に適切な言葉がないゆえ、全体野、視覚感覚遮断、全視野均一効果などと言われる。
視界から入る刺激を全て遮断し、外界の情報を閉じる言わば瞑想のような効果。
加えて肉体的な感覚を断絶させ起こる、変性意識状態を意図的に誘発。
他意識への同調、すなわち精神的なアクセスを可能とされている。
信仰心を持つ者に至っては過去、現在、未来、万物の事象を集約したアカシックレコードへアクセスが出来ると考えられていた。
その超常的な力は未来すら予言する。
だが霧音はソレを内在した意識ヘ向ける為に試みている。
精神医学における内的自己救済者。
頭文字を取って【ISH】と呼ばれる存在だ。
…………霧音はこのまま池の底へ沈むのか。
死体になり全身にガスが充満すると、風船のように膨らみ浮き上がる。
生前の美しさなんて微塵もないほど醜く膨れ、その醜態をさらす。
そんなこと許せるわけないだろ……。
まるで池に溶けた物質が収束して、一つの形を作り上げるように、彼は水面に目から上を浮上させた。
階段を上るように半身が池から露出。
《……羯諦、羯諦……》
彼が唱える言霊が襲撃者の耳元へ届き、相手はゆっくりと振り向いた。
驚くのは無理もない。
三途の川から死者が蘇った印象を受けたことだろう。
陸地へ足を着け襲撃者をジッと睨む。
よどんだ雲の下、対峙する狩る者と抗う者。
《菩提薩婆訶、般若心経(真意を悟り世の全てが見えた)》
多重人格の中には主人格を客観的に観察する人格が宿ることもある。
霧音にどんな危機があったのか彼には解っていた。
向かって来た襲撃者が両肩を掴んだので、彼は両腕を相手の肘へ強く当てて上へ押し上げる。
赤子の腕のように襲撃者の拘束は外れ、そのスキに両手を突き出し相手の胸に圧をかけた。
襲撃者は二メートルほど弾かれ困惑する。
中国武術の基本的な型だが、彼の場合、我流なので加減を知らず始末が悪い。
彼は相手がひるんだところへ詰め寄り、空を切りながら回し蹴りをマスクへ当てる。
襲撃者は後方へ反り返るように倒れた。
「ガボッ!? ブグァ! ガァ!」
マスクの下にある変声器が壊れたようで、泡を食ったように慌てふためいた。
襲撃者は分が悪いと踏んだのか、こちらに背を向けて全力疾走で逃げさる。
彼はようやく一息付くことができた。
わざわざ危険事を追いかける必要もない。
触らぬ神になんとやら。
おまけに薄着で真冬の水なんて自殺行為、早く家に帰って……いや、無理か。
あの惨状じゃ、誰か気付いて警察が駆けつける。
ふと彼は顔へ片手を当てた。
頬を伝う雫は冬の外気に冷やされ、氷の結晶が流れたよのうに感じる。
霧音、怖かったね?
お前はよく頑張ったよ。
午前六時。
ずぶ濡れで道を歩いていると、犬がこちらへ向けて激しく吠えていた。
犬を連れて散歩する老人、黒須三平が犬の首紐を引っ張りながら彼へ聞いた。
「ど、どうした!? お嬢ちゃん?」
そう聞かれ事実を知らない人間に答えようがない。
老人へニコリと微笑むと吠える犬に睨みを効かせ、無言の圧を加える。
犬は子犬のように震えて黙ったので、さまよう足を進めた。
襲撃者の言うカタコンベ。
ここでも件の話題が出るとは……。
さてどうするか?
家には戻れそうにないなら叔父さんがいるストレンジテイルへ行くか?
電車と徒歩で三十分。
店へ行くにはリスクがありそうだが。
まずは着る物が欲しいな。
彼は目に止まったショーウインドーを見つめて気に入ると、ガラスを割って女性物の服を奪いとり身体に重ねサイズが合うか、割れたガラスに写る姿で確認する。
多重人格は様々な特性を有しており、時に主人格へ危害を加える人格がISHを装うことがある。
彼が霧音にとってのISH、言うなれば守護人格と呼べるかは、現段階では解らない。
「やっぱり顔が良いから何着ても似合うんだよな」
※ISHは現代でも研究中で良い別人格=ISHではなく、一般的な人間にもISHはあるとされています。
現在はインターナル・セルフ・ヘルパーと呼ばれてます。




