第6話 そして誰もいなくなった (奥田光治)
……それから数時間後、霧音のアパートは駆けつけた大勢の警察関係者によって埋め尽くされていた。そんな中、くたびれた鼠色のコートを羽織った、どこか眠そうな目をした無精ひげ姿の男が、ポケットに手を突っ込み大あくびをしながらゆっくりとアパートの階段を昇って来た。
「あ、警部、ご苦労様です」
「おう」
先行していた部下の刑事の言葉に、近隣の所轄署の刑事課に所属する前橋篤郎警部は面倒くさそうに応じた。
「ったく、せっかくの正月休みの非番だっていうのに、いきなり呼び出しやがって。上は俺を休ませる気がねぇのか」
そうぶつくさ言いながら、前橋は手袋と靴カバーをしながら現場となった部屋の浴槽に入り込む。そしてその場に広がっている惨劇を一目見て、小さく眉をひそめた。
「ひでぇな」
ただ一言、そう呟く。目の前の悲惨な光景を見ながらこの程度の反応しかしないのは、ある意味さすがベテランの刑事と言った風ではあった。
その前橋の目の前……すなわち浴槽の淵には、血まみれになった男の頭部がなぜかにやけた表情でこちらを見つめている。真っ赤に染まった浴槽内部には男の両腕と思しきものまで転がっているが、どういうわけかそれ以外の部位はないようだった。
「状況は?」
「今朝九時頃、この部屋のドアが開きっぱなしになっているのを隣に住む赤井太郎という浪人生が発見。不審に思い中を覗いたところ異臭がして、通報で駆けつけた警官が室内を捜索。これを発見したとの事です」
どう考えても事故や自殺とは思えない。明らかな他殺である。
「害者は?」
わからないかもしれないと思いながらの問いであったが、部下は即座に答えた。
「近くに免許証入りの財布が落ちていて、それで身元が判明しました。名前は鷹野橋智也。この近くにあるオカルト系出版社の編集者のようです。今後、DNA鑑定や歯型の照合が行われるはずですが……おそらく、間違いないかと」
「ふん、オカルト雑誌の編集者さんねぇ。で、ここは害者の部屋なのか?」
前橋の問いに、しかし部下は首を振った。
「いえ、それが……ここの住人は被害者とは別人です。名前は志乃河霧音。『ストレンジテイル』という喫茶店の店員です」
そう言いながら、部下は部屋に残されていた運転免許証を見せる。
「はーん、で、その志乃河さんとやらは?」
「それが、事件が発覚した時には、すでにこの場に姿がなかったとの事です。聞き込みによれば、遺体発見前の午前六時頃にアパートの近くをそれらしい人物がフラフラ歩いているのを、近所に住む黒須三平という散歩中の老人が目撃しているそうです。現在、周囲を捜索していますが……」
「生きてはいるわけだな。そんでもって、現場から逃げたか……怪しいねぇ」
前橋は眠そうな目のままそう言いつつ、改めて遺体を見やる。
「死因は?」
「不明です。鑑識の話では頭部の皮が剥がれたのは死後の事で、それ以外に頭部にそれらしい損傷はないそうですが」
「……だとするなら、殺害現場はここじゃねぇな。遺体を解体したにしてはこれでもまだ出血量が少なすぎる。他の場所でやって、頭部と腕だけここに運び込んだって事か」
となれば、住人の霧音とやらが怪しくなってくるが、そんなところに玄関の辺りを調べていた鑑識が報告をしてきた。
「失礼します。玄関脇の植木鉢の下にこれが」
それは、この部屋の合鍵と思しきものだった。
「は、古典的だな。鍵を失くした時のために合い鍵を植木鉢の下に隠しておいたってわけか。だが、不用心に過ぎる。チェーンロックもないこの部屋でそんな事をしていたら、いざ鍵の場所がばれた瞬間にえらい事になる。一人暮らしの女性ならもっと用心した方が……」
が、これに対して部下はこう訂正した。
「いえ、志乃河は女性ではなく男性です」
「ん?」
「普段から女性の格好をしていたようですが、戸籍上はあくまでも男性という事になっています。戸籍謄本で確認しました」
「ほう……」
前橋は興味深げに呟いた。
「なかなか興味深いが、今は置いておくとしよう。で、その志乃河の勤務先に連絡は?」
「しましたが、どういうわけか連絡がつかず、捜査員が駆け付けたのですが……店内には誰もいなかったとの事です」
「誰もいない?」
「はい。問題の喫茶店『ストレンジテイル』を経営しているのは志乃河の叔父で作家の志乃河創一郎と言いますが、この男も今朝から連絡が取れない状態です。ただ……周囲で聞き込みをした結果、被害者の鷹野橋智也はこの店の常連だったようです」
「常連、ねぇ。なーんか、臭うな……」
と、部下はさらに続けた。
「臭うといえばその喫茶店もですよ。実はさらに調べたところ、一ヶ月ほど前からこの喫茶店のアルバイトをしていた別の女子大生が行方不明になっている事がわかったんです。名前は八辻栄子」
「八辻……どこかで聞いた名字だな」
「ほら、三ヶ月くらい前にS山で失踪したM市在住の雨音晶っていう登山者の妹ですよ。雨音が失踪した当時よくテレビに出て情報提供を求めていましたから覚えがあるんじゃないですか?」
「あぁ、あの事件ね。って事は何か? 三ヶ月前の失踪事件の関係者が一ヶ月前に失踪したと?」
「そういう事になります」
「大体、雨音晶が心配なはずの八辻が、何でそんな喫茶店なんかでバイトしてるんだ?」
「そこまでは何とも……」
「ふーん」
前橋は意味ありげな声を上げた。
「他に何か情報は?」
と、部下の刑事はさらにこう続ける。
「これはまだ不確かな情報ですが、被害者・鷹野橋智也の知り合いにアマチュアの考古学者がいたようなのですが、この考古学者の行方もわからなくなっているとの事です」
「アマチュアの考古学者ぁ? まさか相沢忠洋とかそんな名前じゃねぇだろうな」
前橋は歴史の教科書にその名を残す岩宿遺跡の発見者の名前を出して皮肉ったように言うが、部下は真面目に首を振る。
「さすがに違うと思いますが、名前等は現在調査中です。ただ、被害者本人がその事を周囲に話していたという情報も」
「……ったく、何なんだよ。事件の関係者がことごとく失踪なんて、どうかしてるんじゃねぇか? クリスティの『そして誰もいなくなった』じゃあるまいし」
そう言いたくなる気持ちもわからなくはない。が、だからと言って何もしないわけにはいかない。前橋は面倒くさそうに頭をかきながらも部下に指示を出した。
「ひとまず、情報を集めないと話にならん。まずは被害者の足取りの捜査。事件発生までどこで何をしていたのかを徹底的に洗え。それと、この部屋の住人である志乃河霧音と、行方不明になっている志乃河創一郎の行方の捜索。犯人かどうかはまだわからんが、事件について何か知っている可能性がある。見つけ次第確保するように要請してくれ」
「わかりました」
「これだけの事件だと、どうせ本庁の一課が乗り出してくる。それまでに捜査本部立ち上げの手続きも頼むぞ」
「もちろんです」
そう言って飛び出していく部下を見ながら、前橋はポツリとつぶやいた。
「正月早々、また厄介な事件にあたっちまったみてぇだな。あぁ、やだやだ」
そう言いながら、前橋の眠そうな目の奥に鋭く光るものがあるのを、彼をよく知る捜査員たちは誰もが感じ取っていた。
「まぁ、いい。さて、まずはふらりと消えたっていうこの部屋の住人さんの行方だが……一体どこへ行ったのかねぇ……ま、逃すつもりはねぇけどよ」
前橋はそう言いながら部屋の窓の外に広がるどんよりと曇った街を見つめ、霧音の行方を探るかのように、ジッと目を細めたのだった……。




