第5話 お兄様は、秘密主義。 (みのり ナッシング)
アパートへ帰る道すがら、霧音の頭を占めていたのは喫茶店での伯父の態度だった。「レイニーサウンド」という店名が女性客の口から出た時、彼は明らかに狼狽していた。
『伯父さん、さっきのはどういう……?』
客が帰った後で尋ねてみても、伯父は素知らぬふり。果てには、
『もしかして「お兄様」のことと関係が――』
『しつこいぞ、霧音』
二人だけの店内に怒声が響き渡った。あまりの剣幕に霧音は怯んだが、涙だけはぐっと堪えた。それが約束だから。
伯父はばつが悪そうに俯いたまま、結局何も語ってくれなかった。あれはどういうことだったんだろう? 環稀という女性客が見た、霧音と似た女。私の血縁、とか? もしかして「本当の」妹? いやいや、馬鹿な。霧音はバッグを強く握り、首を振った。
お兄様、今日は泣いちゃいそうだったわ……。
二重人格者、志乃河霧音に同胞はいない。いるとすれば、生来の人格の代わりに生まれた霧音――女としての今の人格こそが「妹」。いわば世界に二人だけの兄妹だ。
しかし霧音は元の人格である「お兄様」から、大切なことを知らされていなかった。なぜ、自分に身体を譲ったのか? なぜめったに出てこなくなったのか?
黒い影が見えるようになったのも、霧音が元の人格と入れ替わった頃からだ。さらに最近はおかしなことが多い。邪悪な雰囲気の修行僧。夢で見た洞窟。鷹野橋から見せられた心霊スポットの画像。髑髏。手燭の揺らめく灯り。
そして最も異常なのは、霧音がその場所に強く惹かれているということ。今まで黒い影とは関わらないようにしてきたはずなのに、だ。バイトの同僚が抜けた穴埋めで、疲れているのかしら……。
ふと、霧音は恐ろしい考えに取り憑かれた。なにかが私の元まで迫っている?
そうだ。ある一つのキーワードが全てを結びつける。行方不明者。だんだん生活圏へ近付いていないか。S山の遭難者。鷹野橋の友人。そして無断休暇中の同僚。次は。
夜風が吹き、霧音の疑念は一時中断された。歩みを止め、黒髪を押さえる。身体の髄から震え上がらせるような、冷たい風だった。その行き先は、真っ暗な路地裏。
ぞくっと背筋が寒くなるのを感じる。昔、夜の新宿で体験した不快な記憶が蘇りかける。いけない。熱いお風呂にでも入って、早く寝よう。嫌な想像を振り払うように、駆け出した。
こうして霧音の長い一日は終わりを迎えた。
考えてみれば、霧音が安心して眠ることができたのは、この日、一月三日が最後だったのだ。
翌朝、目覚ましのアラーム音が鳴る前に、霧音は目を覚ました。どこかで工事をしているのだろうか。低い音が響いてきている。だが、寝覚めは悪くなかった。不思議な火照りが身体を包んでいる。
霧音はすぐ理由に気が付いた。頬を熱い液体が伝ったのだ。涙……。霧音は、ぱあっと表情を輝かせた。お兄様。出てきていたのですね。
涙の跡を愛おしくなぞった霧音は、まどろみを振り払うように、布団から抜け出た。
彼が最後に現れたのは、大学を出てすぐの頃。まだ男のあしらいに慣れていなかった霧音は、夜の恐ろしさを見くびっていた。新宿の街は時に陰惨な負の一面を覗かせる。
霧音を女だと勘違いした不良達によって、路地裏に連れ込まれたのだ。遅かれ速かれ、誤解は解けるだろう。しかしそうなれば、どんなに痛めつけられるか分からない。霧音は恐怖のあまり気を失った。
だが次に目覚めた時、彼らはみな血まみれで倒れていた。呆然とする霧音に、化け物を見るような視線を向け、苦痛と恐怖に歪んだ表情で逃げ去ったのだ。
取り残された狭い空間で、霧音の頬を涙が一筋、つうっと伝った。瞬時に「分かった」。お兄様が現れたのだと。助けてくれたのだと。
お兄様……。
それ以来、涙は人格交代をした証明になっている。これは伯父の創一郎にも話していないことだった。誰にも見せない涙は、兄妹の絆の証。
何も語らない秘密主義の兄の存在を示す、唯一の徴だったのだ。
嬉しさに頬が緩む。しかし、すぐに気を取り直した。寝た時と服装が替わっている。普段はしない、男の装いに。お兄様が何らかの行動を起こしたのだ。夜のうちにアパートを出て、どこかへ出掛けたのだろうか?
立て続けに謎が集まってきているこの状況だ。偶然ではないはず。ならば私も、あのカタコンベに行かなければならない。そこには確実に手がかりがある。霧音は決意を新たにした。
窓を開けると、始まりに相応しい閑静で爽やかな空気が霧音を包んだ。よし、シャワーを浴びよう。思い切り伸びをした霧音は、瞬間、凍り付いた。窓を開けたのに、工事の音は大きくならなかった。そもそも今日はまだ四日だ。こんな早くからどこで工事が……?
「――」
先ほどまで工事音だと思っていた低い振動。それは部屋の中から発せられていた声だった。
誰かいる!
霧音は無論、一人暮らしだ。恐る恐る窓を閉め、音源に集中する。それは僧侶が経を唱えているようにも聞こえた。昨日見た修行僧のような禍々しいシルエットが脳裏をよぎる。まさか……。
それは奥から響いてきていた。洗面所の方だ。声が聞き取れるようになってきた。
「……むげん……ぜっしんに」
壁に手をつきながら近付いていく。最近、このような体験をした。あの夢で見た洞窟。今は見慣れた自分の家の中にいるはずなのに、凄まじい恐怖が霧音の思考を塗り潰していく。
にも関わらず霧音は、その正体を確かめられずにはいられない。なにかに取り憑かれたように、洗面所までたどり着いた。そして風呂場を覗いた時、短く悲鳴を上げた。
浴槽の縁に髑髏が置いてあった。それがしゃべっていたのだ。たちまち、辺りに腐臭が立ちこめる。
血に染まった頭で――頭皮を剥がれたのだろう。ニタニタ笑っている。あ……。そこで初めて、その男はまだ生きていると気付いた。腐臭が漂ったように思えたのは幻覚か。あまりにも壮絶な見た目が霧音の脳を欺いたのだ。
思考が働き始めると、第二の衝撃が霧音を襲った。浴槽から首だけを出したその人物には、見覚えがあったのだ。鋭い目。まるで猛禽類を感じさせるような……。それが霧音を完全に現実へと引き戻すきっかけとなった。霧音はつい昨日、その男に会っていた。ストレンジテイルの常連客、鷹野橋智也に違いなかった。
「鷹野橋さん……どうして」
オカルト雑誌の編集者である彼が、なぜここに。呆然とする霧音には反応を示さず、彼はひたすら誦経を続けた。話すたびに、歯抜けになった口の間から赤い血がドロドロと溢れ出てきた。経血のように、びちゃ、びちゃ、と真っ黒なタイルに垂れ落ちる。おかしいなァ、白色だったはずだけど。
地獄の如き光景を、霧音はただ見つめることしかできなかった。
「……じそわか…はんにゃしんぎょ う!」
やがて鷹野橋は口を閉じると、今度はカッと瞳を見開いた。眦が裂けて飛沫が散った。そして、彼の十指がなんの抵抗もなく、滑り落ちるように両の眼窩に吸い込まれた。
ず きゅぉう
黒い凝血の斑のタイルに、赤。白。黄色。名状しがたい模様が描かれていく。
鷹野橋はホッとため息をつくと、ケラケラ笑い出した。崩れた顔面とは裏腹に、彼は生命の喜びに満ち溢れていた。
狂気が漲る光景を前に霧音は、半ば正気を失っていた。困ったな。頭を掻くと、指先に一房の髪が纏わり付いてきた。困ったなぁ。
そして霧音は、自分の口がパックリと開くのを感じた。
「まかぁ はんにゃあ――」




