第1話 目覚めた場所 (Kan)
(ここは一体……どこだろう)
恐ろしいほどの底なしの暗闇、冷たい水音がヒタリヒタリと響いている中、霧音は瞼を開いた。一休なぜ自分はここにいるのだろうと霧音は探るようにあたりを見まわす。そもそも自分がいつからここにいるのかも霧音には分からない。
しばらく茫然としていると、小さな明かりが手元でともっていることに霧音は気がついた。さっきまで真っ暗だったはずなのに、と霧音は奇妙に思いながらよく見ると、それは自分の手に握られた手燭の蠟燭の灯だった。それはどこからか吹きつけてくる隙間風にゆらゆらと揺らめいて、その度に、自分がいる石室のような部屋が大きくなったり小さくなったり、万華鏡のように歪んで見えて、霧音は芯から恐ろしくなった。
霧音が、手に持っている手燭の灯を壁にそっと近づけると、そこに黒ずんだ髑髏の陰影が浮かび上がった。よく見れば、石室内には髑髏が転がり、至るところに水溜りができている。壁には無数の髑髏が埋め込まれていて、その遺骨が重ねられ、柱となっている。石室の中は冷え切っている。霧音は、だんだん気が遠くなってきた……。
霧音が再び意識を取り戻すと、自分はなにかに取り憑かれたように、石室の階段を下りてゆくところだった。自分は一体どこに向かっているのか、そこに何があるのか、まったくわからないけれど、ここは地下の監獄みたいだ、でもきっとそうではない、と霧音は視線を彷徨わせる。確かに自分はここに閉じ込められているらしいが、それは問題ではない、と霧音は思った。髑髏の歯が抜けた口の間から赤い血がドロリと落ちる。それはゆっくりと床に落ちた。床……そこにもまた人間の遺骨が、ケラケラと笑っているように見えてくる。
暗闇の石室内、それは真冬のことで不気味に冷え切っている。そのうちに奥の方から、僧侶の読経のような声が聞こえてきた。それはいくつも声が重なり合い、呪わしい叫びのように思えた。
霧音は我を忘れて、その声に導かれるまま、奥の方へと進んで行った。しかし、その声もぴたりと止んで、また死に絶えたような静寂。廊下の先に小さな部屋があり、その中に人影が佇んでいるのが見えてきた。
(一体、誰がいるのだろう)
その人物の顔を見た時、霧音は驚きのあまり、叫び声をあげた……。
そこで霧音は目を覚ました。自分はアパートの六畳間の布団の中で眠っていたらしいことを知った。窓から見える青空はいつも見ているものと変わらない。日常に戻ってきたことに安心し、おかしな夢だった、と霧音は思った。
霧音は、志乃河霧音という名前で、東京新宿のとある喫茶店に努めている28歳だった。そこは昔ながらの喫茶店で、店主は自分の伯父さん。
霧音は日常的に女性の格好をしているが、生まれた時は男性だった。霧音は元々、大変な美青年であり、天草四郎か光源氏かと噂されるほどの存在で、高校や大学の頃は、学校中の女子からよく熱烈な告白を受けたものだった。しかし霧音はある事情からそれらの申し出を断り続けてきた。
そして、そのうちに霧音は女性風なメイクをするようになり、女性の服をまとうようになった。中性的な美を獲得し、見違えるようになると、もはや俗な日常の観念に惑わされることなく、自分らしく生きる道を進むことになった。そうなると今度は、周囲の男性から声をかけられるようになった。自分の秘密を知らない癖に、と霧音はそれらの男性を軽くあしらっていた。
では、その事情とは?
多重人格……。
霧音は、女性としての一つの人格である。
もう一人の自分、その人格のことを霧音は「お兄様」と呼んでいた。お兄様は、普段現れないもう一人の自分自身であり、これは男性の人格なのだった。
「気持ちの悪い夢だった……」
と霧音は布団から上半身を起こして、テレビの何も映っていない画面を見つめながら、ぼそりと言った。しかし霧音は夢の最後に自分の前に現れた人物が誰であったのか、どんな顔をしていたのかをどうしても思い出せないでいるのだった。
「どうせ夢だ……」
大した意味はないに違いない、と霧音は思った。
それよりも、勤め先の喫茶店に行かなければ、と霧音は思った。喫茶店では店主である伯父さんの片腕として働いており、霧音がいなければ店はほとんどまわらない状態だった。
カレンダーを見ると今日は一月三日。世間はまだ正月気分に浸っている時期だが、霧音の務める喫茶店はもう営業を始めている。霧音は、支度をするために布団を払い除けて立ち上がった。




