第3話 前哨 2
見渡す限りの森。それ以外にはなにもない。
木々の隙間から漏れる夕日だけが周囲を照らし、明らかにしてくれていた。
風が吹き木々の枝を揺らし、地面に移る夕焼け色の木漏れ日をゆらゆらと揺らしていた。
寒くもなく、暑くもない。ちょうど良い気候だが、額や背筋を流れる冷や汗のせいで体感的には少し暑く感じていた。
匠は立ち上がり、辺りを見回す。
ほんとうになにもない。先程までの立ちくらみや頭痛は一切なくなっており、自分には何事もなかったのではないかと思わせるほどだった。
だが心境には大きな変化がある。ふつふつと湧き上がってくるものが確かにあった。それは次第に大きくなり、自らを飲み込んでいく。
焦り。不安。そして、恐怖。
額から冷や汗が流れ落ち、心身ともに動揺していることが分かった。
「はぁ…はぁっ、はぁ…はぁ…」
呼吸が荒くなっていく。恐怖に心が侵食されていく。止まることなく湧き出て、溢れる。
恐らく…長い。
たぶん"これから"はとんでもなく長い。なんの根拠も確証もないが、そう感じた。これから先を考えたくないという思いが次第に強くなっていく。
-怖い、怖い、怖い
恐怖心に苛まれる中、感じていた。自分への苛立ちと落胆。頭では調子のいいことを言っておいて、そこ根底には実のところなんの覚悟も備わってはいない。
この程度だった。
ひどく自分に腹が立った。あれほど焦がれていた"非日常""異常"に直面しているのに、ここではないどこかに放り出されてみると、自分にはなにもできなかった。
-ただ、怖かった。
つい数時間前まで、非日常を、極端なまでの特別を欲していたのに。そこにあったのは恐怖だけだった。
しゃがみこんで、頭を抱える。どうすればいい。どうしたら。
冷静ではない思考を必死に静めようとする。
まず、呼吸を落ち着かせる、ゆっくりと。両手で口を覆い、少しずつ空気を吸うようにした。なにも考えずに、ただゆっくり呼吸することだけに意識を向けた。
「落ち着け…落ち着け…大丈夫。」
だんだんと落ち着いていき、まともに頭を働かせられるようになってきた。再び立ち上がり、考える。
ここは、どこなのか。なにが起きたのか。
見渡す限りの森。どこか日本の、田舎の辺りだろうか。いかんせん森や木々を見ただけでおおよその場所が分かる技術はない持ち合わせていない。いや、位置なら分かるかもしれない。
匠はポケットを弄りスマホを取り出し、起動させるために電源ボタンを押す。
待ち受け画面を見て、泣いてしまいそうになった。
ほんとうに人間というのは、こんな状況になるまで気がつかないものなのか。
当たり前の幸福に。
画面には二人の男女が写っていた。
一人は少し鬱陶しそうに。
もう一人は少しいたずらっぽい満面の笑みで。
挫けてしまいそうな心を必死で持ち直し、やるべきことに集中する。
鼻をすすり画面に向き直る。
-確か位置情報を確認できる機能があったはず。
スマホが起動し、画面が明るくなった。画面上部の右上に目を向けると4本の棒にばつ印が付いており、電波が一切届いていないことが分かった。
「やっぱり…」
これだけ鬱蒼とした森の中なのだ、電波など届きようもないだろう。
電波のマークの横には残りのバッテリー残量が分かるマークがある。朝家を出るまで充電していたため、まだ8割以上充電が残されていた。これからのことも考えて極力節電していったほうがいいだろう。
反対側の左上には時刻が表示されている。
「19時前…か」
正確には18時55分。
おかしい。この時間でまだ揚々と夕日が差し込んでいるなんて。気が動転していて気がつかなかったが、ついさっきまでほぼ真っ暗だったのに夜から夕方に戻ってる。今の時間はだいたい、この明るさ具合だと17時過ぎくらいか。
ということは、日本ではないが日本に近いどこか別の国ってことか。1,2時間程しかズレがないところな訳だから。韓国か、中国か。どっちか…
日本にほど近い国を想像してこの二つしか思いつかない辺り、なんか、恥ずかしい。
いや、一瞬の間に他国に居るとなれば気が動転して然るべきであろう。
スマホをポケットに戻しもう一度辺りを見回すが、どこもかしこも草と土の地面と木しかなく、このままここにいても拉致があかない。
とりあえず森を抜けて一般道か、町にでることができれば。
匠は夕暮れの深い森の中を、歩き出す。
"それ"はゆっくりと
来たる異端者の方向へと視線を向ける。