第2話 前哨 1
-3時間前
「で、あるからして〜」
俺は講義の最中頬杖をつきながら、もはや子守唄でしかない教授の話を聞いていた。
他の学生も友人との会話に夢中になっていたり、スマートフォンを弄っていたり、普通に寝ていたり。
まともに講義を受けている人間なんてこの中の2割程度なんじゃないか。
分からないけど。
「90分長すぎ…」
ボソッと口にし、机に突っ伏し眠ろうとする。
最近はバイトばかりであまり眠れていない。奨学金を返済するためだ。その為に今のうちから貯金をしている。他にも友人と遊ぶため、一人暮らしの諸々の費用、色々ある。
だから眠くてしょうがないが、講義終わりのミニレポートを提出しなくてはいけないから、なんとか目を瞑るだけにとどめて物思いに耽る。
ここにはない何かに焦がれている。
何に対しても強い充足感が得られず、のうのうと日々を生き続けている。
ここではないどこかで、普通とはかけ離れた場所だったら…
そんな感じ。
芹澤 匠 20歳 学生
友達はまぁまぁいる方だし、華の学生生活も楽しめている。あとは彼女ができれば完璧。
今日はバイトがないから講義の後に家に帰ってレポートを終わらせる、そしてやっと就寝。長い。1日が長い。どこかただ消費しているだけの毎日に思えてならない。
-あぁ、暇だ。
「え〜、ではミニレポートを忘れないように」
キーンコンカーンコーン
講義の終わりの時間を知らせるチャイムが鳴り響く。その合図と共に待ってましたと言わんばかりの学生達がぞろぞろと活動を再開する。急いで用紙を記入するものや、我先にと教授の教卓まで用紙を提出しようとする人。
チャイムが鳴った直後のこのざわざわした喧騒が俺はあまり好きじゃない。なんだか胸がざわつくし、別に何事もないのに焦っている気分にさせられる。
俺は込み合っている教卓が空き始める頃にやっと席を立ち提出をするので、いまは席に座り眉根を抑え目を瞑り考え事に浸ろうとする。
頭痛。
急に頭が痛くなった。最近たまに起こるのだが、すぐ治るので特には気にしていない。頭を振り立ち上がると軽い立ちくらみがした。
少し明滅した後に微かにだが視界の中で景色のようなものが一瞬映し出された。
辺り一面の、薄暗い森。
それを見ている。
目を凝らしてよく見ようとするが光景は次第に霧散していきすぐに消えてしまった。
昔観た映画の描写がフラッシュバックしたのだろう。森の中なんて行ったことがないし。
疲れているのだと思い軽く伸びをすると、その頃には教卓の周りの学生は数人しかおらず、余裕を持って提出できるスペースが確保されていた。
荷物をまとめ講義中に書き上げた自分でも何を言っているのか分からないようなミニレポートを提出し教室を後にする。
-2時間前
家は大学と駅の間にある。
いつもはそのまま家に帰ってバイトの準備をするのだが、今日は特になにもないので駅まで足を延ばす。
目的は駅に隣接しているモール内にある本屋を物色するため。なにか本を買うというよりは、気になった小説を立ち読みするだけだ。
本屋の匂いが好きでずっといたくなるし、本を読んでいるとつい夢中になってしまうので気がついたらかなり時間が経っていることもしばしばある。いやかなりある。今日も例に漏れずそうなることだろう。
そうなった。本屋での用事を済ませモールを出る頃にはだいぶ日も落ち、紺色の空に少しオレンジがかった空が見えていた。
-早く帰ってレポートしないと。
足早に帰路を辿ると住宅街に入った。多くの家ではもう明かりがついており、時折いい匂いが漂ってきて食欲を誘う。
「腹減った…」
独り言をつぶやいてしまうほどには空腹になっていた。
さらに歩みを進めると、分かれ道に差し掛かった。
左に行けば開けていて見通しの良い道が続くのだが、少し遠回りになる。右に行くと少し狭く薄暗い道になり早く家にたどり着ける。
普段なら見通しの良い道を選ぶところだが、今日は右の薄暗い道から行くことにする。
空腹だし。レポートあるし。空腹だし。
-5分前
右の道に入るとそこからは片側には塀があり、もう片側には家が立ち並んでいるという一本道なので少し狭いがまず迷うことはない。
少し歩いたところで塀の上に黒猫が座っていた。
じーっと俺を見つめて、少しも視線を外そうとしない。その目は黄色味がかっていて、暗いなかで微かな光を帯びている。夜目が効く証だろうか。
普段であれば可愛く思えるが、なぜか今日は、違った。
不気味だった。
なぜかは、分からない。
足早にその猫の横を通り過ぎ少しすると風が強く吹きすぐに止んだ。
静かだった。
聞こえるのは自分の靴がコンクリートをふみ鳴らす音と、少しの自分の息遣いだけ。
その刹那。
ガクンッ!!!
視界がぐらつく、見えている道が幾重にも重なっては戻り重なっては戻りを繰り返しとても歩くことはおろか、立っていることもできなかった。講義中のそれとはわけが違う。
「なっ…んだ」
地面にしゃがみこみ頭を振る。
一向に良くならない。
片手で頭をおさえ、倒れそうになる体をもう片方の手を地面につけなんとか支える。
額から汗が滴り落ち、地面のコンクリートの色を少し濃くする。
重なり霞、ぼやける視界。
すると次第に地面の色、形、質感が変わっていった。コンクリートだったものが土の地面に変わっていく。
周りのか明るさも、ほとんど夜だったのに、少しだけ明るくなり夕暮れ時に変化していた。
次第に頭痛や視界のぐらつきが収まっていき
顔を上げるとそこは
「どこだよ、ここ…」
森の中だった。
【芹澤 匠 消失】
"そこ"にあったものが消えて尚
猫は"そこ"を見続けていた。