第1話 発現
後悔は、いくらしたって、足りるものじゃない。
そこに行き着いた時点でもう終わっているものだから。意味がないから、考えないようにしてきた。けれど今回の場合は、あの時こうしなければとか何かが違えばとかそんなことばかり考えてしまう。そのぐらいに、”今を”否定したかった。安易な自分を、否定したかった。
俺のせいじゃない。
俺のせいじゃない。
俺の…せいじゃ…
「はぁ…はぁ……ぐ…あ……」
現実感なんてなくて。できるだけ取り返しのつかないことから目を背けていく。まだ、なんとかなるのではないか、その可能性を過去に見出そうとしている。無駄なことばかりする、頭がはたらかないから。考えが、まとまらない。
ーー 体が重い。身体中どこもかしこも痛い。
意識は朦朧としていて、視界はぼやけている。額からは血が流れてきて、顔を半ば赤黒く染め上げていた。立っているのがやっとで、力を抜けば今にも倒れ込んでしまいそうだった。
眼前にはひどく不気味で異形な"何か"がいる。
身体中の傷はこの何かに付けられたもので、何かの手は俺の血で赤くなっている。
ぶら下げられたその手からは数秒おきに血が滴り落ち、一方的な戦闘であったことを物語っていた。
何かはたぶん、生き物だ。全身濃い藍色で背丈は俺よりも倍近くもあり、見上げなければ顔が見えない程だ。ーー顔と呼んでいいのかもわからないが
その顔らしき物は縦長で目も鼻も口もなく大きな風穴が二つ縦方向に並んでいて、ゆっくりとだが常に輪郭の形状が伸びたり縮んだりして変化している。
時折わずかに振動しており、その度に「コ……コ…コ」という少し甲高い声のようなものを発している。体は細長く手足を含め人間によく似ている気がする。異形の何かはノソノソとこちらに向かってくるが、動きは早い方ではない。だがこの動きにすら対応できないほど俺の体は悲鳴をあげていた。
自分との距離が一歩また一歩と近くたびに内蔵の奥底から焦りや苛立ちがふつふつとこみ上げてくる。
ーーどう、すんだ、これ。どうやって逃げれば。警察と救急車に、なんとか…
手足は震え、焦りと恐怖が一気に襲いかかる。
声すらあげられない。人は心の底から恐怖を感じるとほんとうになにも、どうにもできなくなる。指一本動かない。
徐々に距離が縮まっていき奴との距離は5メートルもない程になっていた。
ーーもうこんな近く…なんで、こんな。くっそ。
彼の心の中に怒りと恐怖が混ざり合い、埋め尽くされると同時に背中が熱くなった。
「あっっつ…!!」
何かが発熱し消失する。"いくつもある"中の一つが欠けたような感覚が脳裏に浮かんだが、意識する間も無く消え去った。その途端、身体に異変が起きる。さっきまで立っているのがやっとで、とてつもなく重く感じていた体が急に軽くなった。
その間にも奴はじりじりと距離を詰め、既に奴の手の届く範囲にまで達していた。
そこで足を止めこちらをじっと見つめる。
顔に空いた風穴からは向かいの景色は見えず、ただ漆黒に塗りつぶされていて、吸い込まれそうな感覚を覚える。
「コ……コ…」
すると奴はゆっくりと右腕を後ろに引き、力を込め、そして一気に腕を伸ばし掴みかかってきた。
「うっ…!!」
とっさに両腕で顔を庇い、左腕を掴まれる。
尋常ではない力が込められ腕の骨がみしみしと音を上げている。
「あぁぁぁぁああぁぁぁ!!」
激しい痛みが体を伝い、押さえ込まれていた恐怖や焦燥感が叫び声となって吐き出された。涙が溢れ歯をくいしばる。
掴まれていない右腕で奴の手首を掴む。
「ぐっ…ぁぁぁあ…!!」
死に物狂いで、全身全霊の力を振り絞る。
すると途端に自らの右腕が隆起し、自分のものとは思えない力が込められ、硬い何かが砕けるような音と共にやつの手首が握りつぶされた。
「ココココココココココココココ!!」
奴は叫びながら失った手首を反対の手で掴みながらふらふらと後ずさった。
「なん、だ……」
隆起していた腕は元に戻り、疲労感が体を満たしていく。
奴はこちらをじっと見つめたまま静かに森の中へと消えていった。
左腕は紫色に腫れ上がっていたが瞬く間に元の様相を取り戻していく。刹那の静寂と共に、恐怖の元凶がいなくなった安心感と脱力感が一気に降りかかる。瞼が重く眠気に似た感覚に襲われ、俺は意識を失った。
夕暮れの森の中、彼は夜を迎える。