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ちっとも凄くない 寺生まれのKさん

ちっとも凄くない寺生まれのKさん 『始業式・初登校』後編

作者: 満月すずめ

 始業式も終わり、激動のHRが過ぎ去り、掃除を終えて放課後がやってきた。


 特にHRがしんどかった。あれこれ根堀り葉堀り聞きに来る女子達に、ひたすら恨み妬みをぶつけてくる男連中。

 志穂や透耶が助けてくれなかったら、どうなっていたか分からない。


 いや、まぁ、助けてくれたというより、無軌道にぶつかってくるのをある程度まとめてくれただけなのだが。

 それだけでも、何もないより大助かりだ。


 怜が何一つ躊躇なく全て答えるせいで誰も俺に答えを期待せず、役割と言えばやっかみの受け止めと依歌と怜のどっちを取るかという質問の聞き役だった。


 どっちも何もない。

 そんなもの、考えたこともない……というのは嘘だが、答えなんて持ってない。


 どう思えと言うのか。相手の気持ちどころか、自分の気持ちさえ分からないのに。

 今すぐにどうこう想え、はっきり決めろと言われても、こっちは怜と約束をしているのだ。

 大事に思うことが恋や愛なら、家族愛も友情も存在しないに決まっていた。


 はっきりしない俺の答えに、志穂が「仁くんはホモだからね」という台詞で決着をつけたのもどうかと思うが。

 それに頷くこのクラスの女子達も本当にどうかと思う。小学校から一緒に居て一体何を見てきたんだ。


「小学校から一緒だからじゃん!」


 という志穂の力説に、ほぼ全員が力強く頷いてきた。

 思い当たる節がまるでないとも言わないし、それ自体が俺に対する不満の表れでありプレッシャーであるのは理解している。


 だからといって、依歌とそういう関係になるのが正しいこととは思わない。

 依歌だって、そんなことは望んでいないだろう。

 そういうのは互いの気持ちがあって然るべきだ。若しくは、何かしらの事情があるか。

 友人からの圧力を『何かしらの事情』に含めるのは違う気がする。


 ともあれ、怒涛のHRをなんとか越え、ようやく訪れた放課後。

 帰り支度をするクラスで、志穂が話しかけてきた。


「仁くん仁くん、今日は時間あるよね?」

「……日課があるんだけど」

「聞いてるよ、怜ちゃんのおかげで楽になったんだよね? だったら時間あるよね?」

「……何?」


 抵抗するだけ無駄だと悟って、先を促す。

 志穂がこういう話し方をする時は、最初からこちらの言う事なんて聞く気がない。


「カラオケに行こっ! 怜ちゃんの歓迎会!」


 嬉しそうに言う志穂に、感心するやら何やらで肩を落とした。

 よくもまぁ、あっさりそういうことを思いつくものだ。

 カラオケなんて気の利いたものはこの町にはない。一駅先の隣町に行くしかない。

 何を考えているかは知らないが、多分いつもの面子で行くつもりだろう。俺と依歌、志穂と透耶。今日はそれに加えて怜の五人か。

 達也はこういうのには参加しない。いつものことだが。


「面子はいつもの?」

「うんっ! 怜ちゃんに話したらね、仁くんがいいって言うならって。だから、ついでに一緒に行こうよ!」

「あー……まぁ、そうだな」


 ついで扱いには慣れている。志穂が俺を誘う時はいつもそうだ。今回と違って、依歌のついで、という形だが。

 志穂なりに気を使っているのかもしれない。

 俺が余計な事に気を回さないように、依歌のついでだと、変に考え込まなくていいように。

 長い付き合いではあるが、志穂は未だに良く分からない所がある。


「やった! じゃ、早速皆に話してくるねっ!」


 諸手を挙げて顔の部品を全部線にして、志穂は真っ先に透耶の所に行く。

 随分分かり易いと思うのだが、透耶は昔から一向に気づいた様子がない。あの鈍感さは最早天然記念物級だと思う。達也に突っかかられても、嫌いになれない理由の一つだ。


 ふと思考を過ぎったせいで思い出して、達也の席に目を向ける。

 鞄を担いで、教室から出る所だった。


「達也」

「ん?」


 振り向いた達也は俺にも増して目つきが悪く、大概の人は睨んでいると誤解する。

 これが普通に目を向けているだけだと、クラスの中でもどれほど知っているやら。


「志穂がカラオケ行こうって。どうだ?」


 誰が来るか、なんていわなくてもこれで分かるはずだ。

 暫し考えるような間があって、


「俺はいい」


 その返答を、少しだけ残念に思った。


「そっか」

「じゃあな」

「あぁ、また明日」


 ひらりと手を振って、達也の姿は廊下の向こうに消えていく。

 煙草が吸いたくなった。


 カラオケにいくのなら、一度家に帰ってからでいいか。流石に学校の外で制服を着たまま煙草を吸うのは憚られる。

 一通り話し終えたらしい志穂が、三人を後ろに従えてやってきた。


「仁くん、行こっ!」

「あー、それはいいが、一旦家に帰って――」

「――そんな暇ないって! れっつごー!」


 志穂が腕を掴んで、無理やり引っ張っていく。

 こいつ、俺に煙草を吸わせないつもりだ。

 何故かは分からないが、志穂の行動はそうとしか考えられなかった。


「分かった、分かったから引っ張るな」

「ほんと~?」


 疑い深い瞳でじとっと見つめてくる。

 数時間我慢するくらい、どうにかできないことはない。

 志穂とて何の意味もなくこんなことをすまい。だったら、強く反対する理由を俺は何ももっていなかった。


「本当だ」

「しょうがない、信じてあげますか!」


 手を離し、偉そうに胸を張って先陣を切る。

 あの元気さはどこからきているのか、いつか聞いてみたいと思う。


「仁様、あの……すみません……」

「謝ることは何もないだろ。俺も怜の歌を聴いてみたい」


 笑いかける自分が、適当な言葉を吐いている自覚はある。

 それでも、怜が申し訳なさそうな顔をやめるなら意味もあると思った。

 依歌が脇から追い越して、不満そうに振り向く。


「ほら、仁。志穂見失っちゃうよ」

「あぁ、分かってる」

「カラオケとか久しぶりじゃない?」

「そうだな。ちゃんとお前の歌を聴くのも久々だ」

「ふっふーん、楽しみにしてなさい」


 ころころと表情が変わり、鼻息一つ吹かして胸を張る。

 久しぶりに見る自信満々の仕草に、小さく笑いが毀れた。


「おいこら志穂! 後ろをちゃんと見ないか!」

「透耶も遅いよ~」

「だから早足で歩くのを止めろ!!」


 怒鳴る透耶の声も、からかうような志穂の声もいつも通りで、どこか心が安らぐのを感じている。

 もしかしたら、今日のカラオケは俺の為でもあるのかもしれない。

 そんな都合のいいことを思いながら、志穂の後を追った。


 駅までは歩きで30分。隣町から通っている奴もいるから、案外近いのだ。



  ※           ※             ※


 一駅先で降りれば、そこは繁華街といって差し支えない光景が広がっていた。


 尤も、テレビで見るような都会と比べれば高が知れているし、この町だって駅前の一帯から抜ければさして変わらぬ田舎町ではあるのだが。

 唯一違う所があるとすれば、安い地価を頼って広大な敷地が必要な大学があるところか。再開発地区もあるらしく、全体的な人口は吉備津名町より多い。

 吉備津名町の住民の何割かも、こっちに出稼ぎに来ているらしい。

 子供である俺達には余り関係ない話。大学に出なきゃいけない高校生としては、無視もできない話。


 それでも、今は気にしてもしょうがない。

 志穂に連れられて、全国チェーンのカラオケ店に入る。ここ以外にカラオケなんてないから、怜を除いた全員がスマホ会員だ。

 怜にもスマホ会員になってもらって、部屋を取る。スマホに慣れていない怜への指導役は志穂と依歌が務めた。


「やっほ~! ひっさびさ~!」

「おいコラ! とりあえず音の調整するぞ!」


 ソファにダイブする志穂を注意しながら、透耶が機器を弄る。

 カラオケの音はとにかく煩い。音楽を聴くものとして不適切な気もするが、まぁ雰囲気とか音圧優先なんだろう。


「あ、あの! 鬼瓦さんは、その、ど、どんな音楽を聴かれるのですか!?」

「そうですね……実は、仏教音楽以外聴いたことが殆どありませんので、この『からおけ』というもので歌えますかどうか……」

「そ、そうだったんですか……オイ仁んん!!」

「俺のせいじゃないから、それは」


 凄く婉曲的なものの見方をすれば俺のせいと言えない事もないかもしれなかったが、そこは無視することにした。

 透耶の激昂を右から左に流し、歌いやすそうな曲を選ぶ。


「この曲なら、初めて聴いても歌えるんじゃないか?」

「仁様がそう仰られるなら」

「じぃぃぃぃぃぃぃぃぃんんんん!!!!」


 胸倉を掴まれたって、どうにもできないことはあるのだ。

 透耶のことなど気にもせず、志穂と依歌は二人でデンモクを覗き込んでいる。


 こういうところを見ていると、本当に志穂の腹積もりが分からなくなる。妙に考える自分の方が悪いことは分かっているのだが、どうにも踏み込めない原因がこれだ。

 そんな雰囲気の中、怜の歓迎会の名を借りたカラオケは進んでいった。


 志穂が歌うのは、大体流行のポップソング。コミックソングも歌うことはあるが、基本流行は外さない。

 透耶は演歌が大好きだ。誰も知らないような曲目を熱を込めて歌う。確か、文化祭の打ち上げで皆に引かれていた。


 依歌はアイドルの歌や、少し前に流行ったバンドの歌、洋楽など何でも歌う。自分が好きになったものなら何でも、という感じだ。

 依歌の歌は、心地良い。上手いかどうかでいったら、依歌より上手い人はごまんといるだろうが、依歌の歌はするりと耳に入ってくる。

 歌詞が音として出なく、気持ちとして聞こえる。『依歌のついで』でなければ、カラオケなんて一生来なかったかもしれない。


 巡って来た怜の番では、俺が選んだ誰もが聞いたことのあるアニソンや、なるべく転調が少ない曲なんかを歌った。

 まさに声質の暴力。その透き通る声でメロディが綴られるだけで、全員が口を噤んだ。


 俺はといえば、歌うのはどうにも苦手で聞き役に回るのが常だ。

 一度無理矢理歌わされたが、音程やリズムがあってるだけのものを歌とは言わない。依歌の歌を聴いている方が良かった。


 十分に騒いだ所で、備え付けの受話器が鳴る。

 誰が取るより早く俺が取って、延長はいらないと告げた。ここは吉備津名町じゃない。日が落ちる前に戻らないと、補導される可能性も出てくる。


「えー!? もっと歌いたいー!」

「馬鹿か! 暗くなるとお前の家まで送らされる僕の身にもなれ!」

「……まぁ、透耶じゃないが、程々にしておこう。俺も日課があるし、洗濯物干してるし」

「仁くん、所帯臭いよ!」

「……まぁ、家事やってるしな」


 正確にはもう殆ど俺じゃなくて依歌と怜がやってるが、そういうことにしておく。

 不満たらたらの志穂を説得し、怜以外の全員から部屋代を徴収して先に店から出す。


 おずおずとお年玉の万札を差し出されたって、お釣りなんて持ってるわけもない。

 どうせ一緒に住んでいるんだし、後で小銭が出来たときに払ってもらうことにした。

 依歌が微妙な顔をしたのは、見ないことにする。


 トイレに行くという透耶と別れて会計を済ませていると、


「ねぇねぇ、君達高校生? 何、遊びにきてんの?」

「じゃあさ、俺らと遊ばない? いい場所教えるよ~」


 大学生だろうか。金髪と茶髪のコンビ。ニヤケた顔がいかにもという感じだ。

 都会では最早絶滅危惧種と聞くが、田舎ではまだ現役らしい。何もかもが遅れてくるとはいうが、人間のタイプまで遅れなくてもいいのにとは思う。

 古めかしい珍走団や地域密着型極道とてまだいるのだから、諦めるしかないか。


「私達、連れがいますから」

「連れぇ? ガキっしょ、そんなん。大人の遊びしよーよ」


 こういう時、強気に出るのが依歌の良い所でもあり悪い所でもある。

 案の定やや機嫌を悪くした金髪が鼻息一発、大げさに見下す。


 ぴくりと動いた怜を制し、依歌が一歩前に出る。志穂は黙ったままスマホを握り締めてポケットの中に隠した。多分もう、いざという時に備えて番号は打ってる。ある意味、志穂が一番現実的だ。

 前に出た依歌が、正面から男達を睨み返す。


「興味ないんで。他を当たって下さい」

「はぁ? おい、どーするよ?」

「ガキのくせに顔はいいじゃん、こっちこいよ」


 茶髪の大学生らしき男が、依歌の橙色のダッフルコートを掴む。



「触んないで!」



 瞬間的に激昂した依歌が男の手を払いのける。

 払われた男は呆然と手を見つめて、


 顔を怒りに染めて依歌に掴みかかった。



「何か御用ですか?」



 伸ばした手が依歌に届く前に、茶髪の手首を掴んで止める。


「んだてめぇ?」

「おい、離せよ」


 脅しにかかる金髪に、力を込めて腕を動かそうとする茶髪。

 大学生ぐらいの年のくせに、力点と作用点すら理解していないらしい。掴まれた手首がびくともしないのを見て、顔を歪めて叫ぶ。


「おいクソガキ! 離せっつってんだろ!」

「力尽くでどうぞ。ガキ相手だから出来るでしょう?」


 こういう手合いは本当に、どうしてたかが数年の差をそこまで大きなことにしたがるのか。先に生まれたことが偉いというなら、ご老人相手に這い蹲ってみせろ。

 百年生きた亀からすれば、俺もあんたらも同じくガキだというのに。


 必死に動かそうとする茶髪の顔が、耳まで赤く染まる。

 何をそんなに焦っているのか、金髪が掴みかかってきた。


「ガキィ! 何しやがった!」

「何も。掴んでるだけですよ、こんな風に」


 掴んできた金髪の掌を取って、手首を支点にして捻り上げる。

 容易く体ごと捩って傾いた。


「痛てててて! 痛ぇ、離せ! 離せよ!」

「いいですよ」


 両手を離して、茶髪と金髪を解放する。

 二人して掴まれた手をさすって、こちらを睨んでくる。

 人を脅すつもりなら、もう少し顔芸の練習をした方がいい。透耶の方がまだ怖い。


「それで、俺の連れに何の御用ですか?」

「てめぇの連れかよ……!」

「くそが、ナメやがって……!」


 腰が引けて、口ばかりなのが明らかだ。

 それでも、プライドがある以上年下にやられて引き下がることはできないのだろう。

 普段なら通報するためのスマホを見せびらかして逃げてもらうところだが、今回はどうしたものか少し悩む。


 この二人は、依歌に手を出した。

 二度とそんな気が起きないようになってもらったほうが、今後この街に来たときも安全だろう。

 何も決められない玉虫色の人生でも、大事なものが何かくらいは分かっている。


 茶髪も金髪も睨んでばかりで手も出さず引きもしない間に、先に透耶が出てきた。


「おぉ? なんだ仁、どうした?」

「あぁ、いや、あの人達が依歌達に用があるらしいんだが、何も言わなくてね」

「はぁ!?」


 俺達と男達を見比べて、流石に鈍感な透耶も大体何が起こったか察したようだ。

 組直伝のヤクザ歩きで茶髪と金髪に近づき、


「おぅ、兄ちゃんら? 瀬良組(オレ)縁者(ダチ)に手ぇ出すたぁ、覚悟はできてんだよな、おぉ!?」

「せ、瀬良組!?」

「お、おい、やべぇよ、マジモンのヤクザだよ……!」

「ば、ばか、んなわけねぇだろ! てめぇ、んな名前出してただで済むと思ってんじゃ――」


「――タダで済まねぇのはどっちじゃ、あぁ!?」


 透耶の気迫に、二人はすっかり縮み上がっていた。

 お決まりの台詞を吐いて、一目散に逃げていく。

 元から逃げる機会を窺っていたようなものだから、逃げ足に迷いなんてない。大人しく最初から引いていれば良かったものを。


「依歌、大丈夫か?」

「あ、うん。私は平気。志穂も怜さんも大丈夫?」

「私はへーき」

「私もです。依歌さんのおかげです」


 ひとまず全員なんともなさそうで、胸を撫で下ろす。

 脅威が去ったと思ったら、早速女三人で手を繋いで話している。

 思わずため息が漏れるが、どことなく怜と依歌の表情がそれまでより柔らかくなっていて、まぁいいかと思えた。


 憤懣やる方ないといった透耶を宥めて、全員で帰りの電車に乗る。

 最後に酷い目に遭ったのに、電車の中の女三人はどこか楽しそうだった。



  ※           ※             ※


 透耶と志穂と別れ、三人で帰り道を歩く。

 空は夕焼けの色が濃く、太陽の反対側は制服と同じ藍に染まり始めていた。


 言葉少なに暫く三人で歩いていると、依歌が突然小走りになって前に出た。

 声をかけようとして、


「仁様」


 怜の声に阻まれた。

 ふと横を向けば、朱色に染まる怜の横顔があった。

 白い陶磁器のような肌が、綺麗に夕焼けを反射して、眩しくて目を細めた。


「どうかした?」

「依歌さんは、凄い人ですね」


 何を思ってそう言ったかは分からない。

 ただ、茜色に染まる微笑みは、日向に憧れる花のように見えた。


「私や志穂さんを守ろうとしてくれました。虚勢を張っただけって仰ってますけど、例えそうだとして、凄いことだと思います」

「……まぁ、そうだな」


 その虚勢が事態をややこしくすることもあるのだけれど。

 それでも、依歌はあぁいうときに動いてしまうのだ。


 おじさんの血か、おばさんの血か、はたまた両方か。そういうのを見過ごした方が後悔して落ち込む。そういう性格をしていた。

 そのお人好しさに、今も随分助けられている。


「あのコート、仁様がプレゼントされたそうですね?」

「礼代わりにな」

「お二人とも、本当に大事に思いあってらっしゃるんですね」

「……まぁ」


 怜が何を言いたいのか、良く分からない。

 まさか、怜まで俺と依歌の関係を怪しんでいるのだろうか。

 致し方ないことではあるが、そうなると面倒だ。



「だから、私も依歌さんを大事な人と思うことにしました」



 想定外の台詞に、一瞬立ち止まって呆然と怜を見やる。

 怜は嬉しそうに、密やかに笑っていた。


「仁様の大切な人は、私も大切に思いたい。依歌さんは、素敵な人です。ですから、これからもっと依歌さんと仲良くなりたいと思っています」

「……うん、そっか」


 願ってもない事態、のはずなのに。

 余りの展開に、どう受け止めていいか心の準備が整わない。


 喜んでいいのだと思う。いや、本当にいいのだろうか。これ、余計に複雑で問題の多い事態になってはいないだろうか。

 半ば混乱する頭を強引に切り替えて、言葉をそのまま受け止めることにする。


 煙草が吸いたい。

 家に着いたら真っ先に吸おう。


「献立は、これからは二人で話し合うことにしました」

「……そっか。まぁ、その辺は宜しく頼む」


 それ以外に何を言えというのだろう。

 はい、と頷く怜の顔が茜色に浮かんで、夜に咲く花の夕方の姿のような、普通隠すべき何かを見てしまったような気分になった。


 直視できなくて、顔を前に向ける。太陽が山の向こうに沈んでいく。

 怜が依歌の名を呼ばわりながら小走りに駆け出し、依歌が露骨に足取りを遅くして俺の隣に並んでくる。


 どういう話し合いがあったのかは知らないが、随分仲良くなったものだ。

 何故だか、怜と依歌が異性であることを強く意識してしまった。


「あのさ、あの……」

「うん」


 並んだ依歌が何かを言おうとして、言葉に詰まる。

 聞いていると示すために、一つ頷いた。


「怜さんてさ、やっぱ凄いよね」

「うん?」


 何が言いたいか分からず、疑問で返す。

 依歌は言葉を選ぶように口を動かして、意を決したように息を吸い込む。


「だってさ、怜さんって仁の為にこっちに来たわけじゃない?」

「……まぁ、そうだな」

「それなのに、私や志穂が一緒にいても妬いたりしないし。それどころか、ちゃんと周りに気を回すし、さっきなんて私が馬鹿みたいに意地張っただけなのに気遣ってくれて、ありがとうって言ってくれて」


 言葉が切れても、何も言わなかった。

 こういう時は、次の言葉を探している時だから。

 ただ、黙って聞いているべきだと思うから。


「ほんと、家事も何でも出来て、優しくて、仁みたい」

「……そか」

「仁と違って素直で可愛いし、ソッチの才能もあるけど」

「……まぁな」


 我ながら、そのあたりには一応の自覚がある。

 横目に見た依歌の顔は、悪戯そうに橙色の中で笑っていた。

 それはまるで、日向に咲く小さな花のように。


「私さ、今までちょっと怜さんに対してぎこちなかったと思うの」

「あぁ」

「許婚とか、やっぱりまだちょっと納得できないけど。でも、怜さんはいい人だから」

「うん」

「仲良くしたいなって、そう思った」


 こちらを向いた依歌の顔は、久々に見る(てら)いのない笑顔だった。


 あぁ、と思う。

 そうだ。これが、霧の中に消えていきたくなる時、俺を引き止めていたもの。

 煙のように空気に紛れていきたくなると、ふと頭を過ぎる笑顔。


 茜色の中に溶け込むその笑みは、眩しくて目を細めるしかなかった。

 橙。太陽が落ちるときの色。暖かな匂いのする色。

 眩しい日の光の色だ。


「怜さん綺麗だし、変な虫が寄ってきたら一人じゃ不安だもんね」


 日陰に咲く花の可憐さを羨むように。

 依歌は、先を歩く怜の背中を見遣った。


「まぁ、俺が出張ったら面倒になりそうだしな」

「そうそう。あ、でも、最終的には仁に頼むかもだからね」

「……まぁ、それは仕方ないな」

「今日みたいにさ、かっこよくお願いね」


 あれは格好良いといっていいのだろうか。相手がアレだっただけだと思う。

 軽く頷くと、依歌は嬉しそうに小さく笑った。


 依歌が怜を呼ばわると、怜は振り返って小走りに駆け寄ってきた。

 再び三人並んで、山の谷間に落ちていく太陽を見ながら家路に着く。

 今度は、夕飯の献立やら何やら、俺を挟んで女二人で会話が弾んでいた。


 溜め息もでない。それは勿論、自分に対して。

 いずれ、俺はきちんとこの関係に答えを出せるのだろうか。

 怜を想った上で判断するとは、そういうことだと思う。


 帰ったら煙草を吸おう。一旦頭をすっきりさせないと、考えも捗らない。

 伸びた影が消えるまで、もう時間はなかった。



 依歌をどう想うかにも答えを出さなきゃいけないことを、その時の俺は出来るだけ考えないようにしていた。

続くかもしれません

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