囚われのジュウゴ
窓から見える景色が、今のジュウゴにとっての全てだった。
「ジュウゴ、ご飯をお食べ」
どこからともなく現れたジュウゴの主人。その手には、大きなお皿があった。それは見るからに美味しそうで、見ているだけで口の中に唾液が溢れてくるような料理たちだった。
「……いらない」
ジュウゴは食べる気がしなかった。
「食べないと死んでしまうよ」
「……」
「置いておくね」
主人はそう一言いってどこかへ行ってしまった。
ジュウゴはまたぼんやりと窓の外の景色を眺めた。
ここへ来る前の彼は、思いつく限り何不自由のない生活を送っていた。ある意味で、今でもそれは変わっていない。
ここへ来る前、彼は川上充悟と呼ばれていた。それが彼の名前であった。どこにでもいるような平凡なサラリーマンで、会社と家の往復するだけの毎日を過ごしていた。一人暮らしで恋人もいなかったが、若かった充悟には未来があった。仕事にはそれなりにやりがいを感じていたし、住む場所にもお金にも困っていなかった。たまに寂しい思いをすることはあったが、一人暮らしの気兼ねなさを考えれば、どうということはなかった。
窓の外には道路が見えた。とてもきれいに舗装されていて、ゴミはおろか葉っぱの一枚さえも落ちていなかった。
未知の乗り物がとても静かに往来している。歩道には誰かがペットを連れて歩いていた。
ここへ来た時のことを充悟は覚えていなかった。気がつくと彼は真っ白な部屋の中で横たわっていた。扉と窓が一つ。それ以外に何もなかった。
ジュウゴはまた窓の外を眺めていた。ジュウゴにはそれしかやりたいことが思いつかなかった。料理はすっかりと冷めてしまっていた。もはや食べる気はない。窓には格子がはめられていた。外に出ることは叶わなかった。考えたことすらなかった。
いったいどれくらいの月日が流れただろうか。とてもとても長い間、その部屋の中で時を過ごした。今のジュウゴには元いた場所の記憶が、昔読んだ物語の世界のように感じられていた。
ジュウゴは窓を眺めながら、ふと思い出した。
充悟がはじめてこの部屋にやってきた時、彼は自分の名前を呼ぶ存在に驚かされた。
充悟は戸惑いながらも質問した。
「ここはどこですか?」
その存在は言った。
『ここは君の新しいお家だよ』
「僕を連れてきたのはあなたですか?」
『そうだよ』
「なぜ僕を連れてきたのですか?」
『君と過ごしたいからだよ』
「僕のことを知っているのですか?」
『まだ知らない。けれどこれから知りたいと思っているよ』
「なぜ僕なのですか?」
『たまたま目についたから。偶然さ』
「どうして僕の名前を知っているのですか?」
『君の名前? ああ、それも偶然さ』
ジュウゴはまた外を眺めていた。感情はどこか遠くへ置いてきてしまった。ジュウゴは長らく考えるのをやめていた。考えてしまえば、抱いてしまう。怒りや不安、苛立ち焦燥。悲しみ、疑問。今のジュウゴにはどうすることもできなかった。囚われてしまっている今、それは何も変わらない。いや、変えられない。初めの方こそ困惑し、脱出を試みた。しかしすぐに無駄だと悟った。だから何も未来を考えないようにして、ただ繰り返される同じ毎日を過ごしていた。しかし時たま自分の意思とは関係なく考えてしまう。何故、何故、何故……。
そして頭を振り払う。今この時について考えるべきなのだ。食事は不自由なく出てくる。言えばおそらくもっと素晴らしいものも出てくるだろう。けれどもジュウゴは何も言う気にならなかった。
窓の外を眺めるジュウゴには、一つ楽しみにしていることがあった。それは楽しむというにはあまりにも一瞬で、些細で一方的なものだった。
(……もうすぐ来る)
ペットを連れて誰かが歩いてくる。いつも決まって同じ時間にやってくるその人。ジュウゴはその人を見るのが好きだった。
見られるのは時間にして二十秒程度。今日も彼女はやってきた。きれいな服を身にまとって歩いている。その小さな喜びをほんのりと感じることが、今のジュウゴにとって、何よりも大切なことだった。
充悟が実家にいた時、彼はペットを飼っていた。四歳の誕生日プレゼントに両親が小犬を買ってきたのだ。充悟は嬉しかった。
犬には「イチロー」と名前をつけた。
イチローは充悟の親友だった。
いつも一緒に遊び、苦楽を共にしてきた。
物心ついた時には「イチロー」はどこにもいなかった。代わりに家にいたのは同じ犬種の見た目が似ている別の犬だった。
名前は「ジロー」
充悟の記憶の中には、泣き叫ぶ自分の姿があった。何に泣いていたのかは思い出せない。ただ、とても悲しいことがあったことだけを覚えていた。
ジローはとても長生きした。十二、三歳が平均寿命と言われる中で、ジローは十六年間も川上家のペットとして飼われ続けた。ジローの最期を充悟は知らない。その時にはすでに一人暮らしを初めていた彼は、滅多なことでは実家に帰ることはなかった。両親の話によれば安らかに眠りについたという。
ジュウゴはまだ窓を見続けた。寝て起きて、どうしようもなくなった時にだけご飯を食べた。起きている時のほとんどは窓の外を覗くことに時間が使われた。
その日は雨だった。ジュウゴは少し気分が沈んでいた。雨の日にあの人は通らない。しかしジュウゴは窓を見続けた。歩く者はほとんどなかった。今ではもう見慣れた乗り物がいつもより多く飛び交っていた。この世界は元の世界よりも科学が発展しているのだろう。
雨はやがて雷を伴いはじめた。
ジュウゴの主人はたまにこの部屋にやってくる。それは食事を運ぶためでもあり、また彼自身のためだった。この部屋には窓と扉しかない。生活に必要な最低限はあるものの、それ以外は何もなかった。
幽かな雷の音を聴きながら、ジュウゴは学生時代のある日の朝のことを思い出していた。その日の前日は雷を伴う豪雨だった。思い出していたのは、学校へ行く途中に見つけた、道路に横たわる一匹の死骸。おそらくは野良犬だったであろうそれ。それを見つけた瞬間、充悟は心臓をぎゅっと握り締められたような気持ちになった。言葉にできない初めて経験するもの。
今になってそれはなんだかわかる。
それは死だった。
目の前に唐突に突きつけられた死。
死が今まさに手の届くところに形としてあった。充悟はその場に立ち尽くしていた。きっとこのことを知っているのは自分だけなのだろう。周りには、歩く人や車を走らせる人などが多くいた。みんな気づいていないんだ、だから素通りしていくんだと、そう思った。
だが、充悟は確かに見た。
犬の死骸を見つけながらも、だからどうしたと言わんばかりに過ぎ去る運転手の数々。横目に嫌な顔をして通り過ぎた自転車乗り。少し距離を置いて道ゆく住人。皆が皆、気付きながらも何もしなかった。誰一人として、それに触れようとしなかった。
充悟は湧き上がる気持ちに戸惑いながら、言葉にできない感情を胸に学校へと走っていった。
ジュウゴは相変わらず外を眺めていた。雨は容赦なく降り注ぎ、それと呼応するように雷が大地を突き刺していった。外は暗くなっていて、道路にはほとんど乗り物は通らなくなっていた。窓も部屋も防音性が高いのか、外の音はほとんど聞こえてこなかった。見える世界と対照的な白い静寂の部屋で、ジュウゴはジローの最期について考えていた。
充悟は友人から、友人が飼っていた犬の最期を聞かされたことがあった。
「もう足腰弱くなっててさ、ずーっと家にいて可哀想だったよ。一日中ベッドの上で丸くなってて、トイレも介護してやらないとできなくなくてね。最後の方なんてろくに食べ物も食べられなくってさ。俺、こいつに何ができるんだろうってずっと考えてたんだ。でも結局一緒にいることしかできなくて、でもつらそうにしてるの見てると悲しくなって、どうしようもないんだなって思ってさ……。俺あの時どうすればよかったのかな」
ジローも苦しんだに違いない、と充悟は考えた。充悟はその時期、ペットを飼いたいと考えていた。
理由は、ただ寂しいから。
だが充悟は飼うのをやめた。
依然としてジュウゴは窓の外を眺めていた。雷の音は小さいが、光と振動でその大きさが伝わってくる。ジュウゴは、自分は何故誘拐されたのだろうと、ここへきた当初考えていたことを再び考えていた。身代金目的、復讐、移植用臓器摘出、人体実験のモルモット……だがどれもが違う。そう確信させたのはジュウゴの主人だった。
あれは紛れもない人外だった。
身長は四メートルは超える。フォルムは人の姿と似ているが、目や鼻、口は化け物のそれだった。腕や脚は細く、指は鋭かった。
(僕がここに連れてこられた理由は……)
その時だった。依然として大雨が降る中、外を眺めるジュウゴの視界の端で何かが動いた。
「あ、あれは!?」
人だった。それはジュウゴが唯一の楽しみにしていた彼女だった。
彼女は暗闇と降り注ぐ雨の中を走っていた。何故、彼女があんな場所に一人でいるのか。ジュウゴは彼女を目で追い続けた。ぐしょ濡れになりながら一心不乱に腕を振り、時に転びそうに、立ち止まったり走ったりしていた。ここまでどれくらい走ったのかはわからないが、彼女は酷く疲れているようだった。足取りは重く、今にも倒れそうだった。
ジュウゴは目を大きく開いて、彼女を凝視した。格子を掴み、食い入るように見ていた。
「あ、ああ!!」
最悪の事態が起きてしまった。彼女は濡れた地面に足を取られ、転倒した。道路側へと倒れ、そこへ乗り物が走ってきた。
そして、二つは衝突した。
彼女は潰れた。一方でぶつかった乗り物は、まるで小石が当たったかのごとく、そのまま走り去っていった。
彼女の腕や脚はありえない角度に曲がって折れていた。ジュウゴの心臓は大きく鼓動していた。一刻も早く彼女の元へと向かいたかった。見れば彼女はまだ生きていた。地を這い、なんとか生きようとしていた。
ジュウゴは扉へと向かい、ドンドンと扉を叩いた。
「僕を外へ連れていってくれ!」
扉の向こうにいるであろう、ジュウゴの主人に向かってジュウゴは大声で叫んだ。
『どうしたんだい? こんな大雨の日に』
声だけが聞こえてきた。
「外に人が倒れているんだ! 早く助けないと! 車に轢かれたんだ!」
必死になってジュウゴは訴えた。しかし、
『ごめんね。それはできないよ』
「どうして! 今すぐに行かなきゃ死んでしまうよ! 助けなきゃ!」
ジュウゴはより強く扉を叩いた。
『無理だよ。諦めてね』
「どうして、どうしてよ!」
『僕には関係ないから』
「お願い! 彼女のところへ行かせて!」
どんどんと、ジュウゴは大きく体を揺らして訴えた。なんとしても行かなければと、不安と苛立ちを混ぜながら扉を叩き続けた。
「なんでだよ! 少しぐらいいいだろ!」
だが――。
『黙れっ!』
ジュウゴはびっくっと体を震わせた。
『いい加減にしろよ。お前は俺に従え。言うことを聞け』
ジュウゴはその時、真に自分の立場を理解した。
――そうだ、僕たちはペットなんだ。
彼女もまた誰かのペットだった。晴れた日によく見た彼女は、首輪をつけられていた。彼女はこの大雨の中、必死に逃げ出したのだろう。どこに安息の地があるかはわかるはずもないのに、逃げた。逃げなければならなかった。縛られ続けた日常に嫌気がさしたのかもしれない。
ジュウゴは窓に向かった。外を覗くと、彼女はもう動いてなかった。誰かが捨てた布切れのように、道路の端に落ちていた。
名も知らぬ彼女は死んでしまっていた。
「うわあぁぁっっ!!」
ジュウゴは叫んだ。頭を掻きむしり、大声で喚き散らした。
『うるさい。静かにしろ』
ジュウゴの主人が言った。だがジュウゴはやめなかった。床や壁を叩いて、暴れ回った。
『やめろ! 暴れるな!』
怒気を孕んだ声は重く、威圧感があった。しかしジュウゴはなおも叫び続けた。叫ばなければやってられなかった。
『こいつ――』
重低音が響いた。ジュウゴは動きを止めた。何が起きたのかジュウゴは初め理解できなかった。下腹部が熱い。
ジュウゴは自身の腹に触れて、ようやく理解した。
体が二つに裂かれていたのだ。
目の前にはいつのまにかジュウゴの主人がいた。その鋭い手は赤く染まっていた。
『黙れと言ったのに……』
血溜まりの中に横たわるジュウゴ。彼は沈みゆく意識の中で、初めて飼ったイチローのことを思い出していた。閉ざしていた記憶の蓋が開いた。
(イチローもこんな気持ちだったのかな……)
あの日、イチローは何故だか暴れていた。理由は分からなかった。充悟はなんとかして落ち着かせたかった。なのにイチローは暴れ続けた。何故静かにしてくれないんだと、苛立ちは募っていった。
吠え続けるイチロー。
そして充悟はイチローを殺してしまった。
あとから取り返しのつかないことをしてしまったと充悟は泣いた。異変に気づいた両親が駆けつけた時には、もうなすすべがなかった。理由を聞いても充悟は泣き続けるばかりで話にならなかった。
両親は事故にあったのだと判断して、新しいペットを買うことにした。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ジュウゴは静かに息を引き取った。
「ここはどこですか?」
白い部屋で誰かが尋ねた。
『ここは君の新しいお家だよ』
「なぜ私を連れてきたのでしょうか?」
『それはね、君と過ごしたいからだよ』
彼女は自身の置かれた立場を理解してなかった。
彼女は知らない。自分が今立っている場所にかつて血溜まりがあったことなど。
その存在は言った。
『君は僕のペットだ。君には名前をつけよう』
怯える彼女に、それは言った。
『君の名前はジュウロク』




