笑顔であふれた世界
「やったぞ。ついに完成した!」
とある研究所で、その研究員は喜びに心震わせた。彼はついに、己が与えられし使命を達成し得る品を発明したのだ。
永年の研究がようやく身を結ぶ。その喜びに思わず彼は破顔した。
与えられし使命。
それは――皆を笑顔にすることだった。
時はさかのぼる。
彼が六歳か七歳だった頃、日本は不景気の真っ只中にあった。泡の中を気持ちよく泳いでいた日本人たちは、果たしてこの状況をどこまで予測できたであろうか。バブル経済が崩壊し、その後遺症により金融機関が破綻していった。企業は資金繰りに苦戦、その結果リストラや新卒就職難が大きな問題となった。
しかし幼い彼にとってそれは実感の薄いものだった。問題なのはむしろ目の前で繰り広げられていたいじめの方であった。
それはある日の放課後のことだった。
彼が帰宅しようと校門に向かっていた時、木造校舎の隅で何かが行われていることに気がついた。
数名の男子生徒が一人の女子生徒を取り巻いていたのだ。
横目で見ていた彼は、初めそれが何かわからなかった。ただ男子生徒の一人が彼女の事を突き飛ばし、蹴りを入れた。それを見て、とっさに彼は走り出した。
男子生徒たちは、彼が近づいてきたことに気づくと、そそくさと立ち去って行った。
「ね、ねぇ、大丈夫?」
彼は彼女に声をかけた。彼女はスカートの裾を払いながら、
「ありがとう。大丈夫よ」
と笑いながら返事した。
手ではたいて汚れを落としていく。
だが彼は、彼女の衣服が予想以上に汚れていることに気づいた。彼女は自分が気づく前から、相当何かやられていたらしい。
「本当に、大丈夫なの? 怪我とかは」
彼はまた声をかけた。しかし彼女は、
「大丈夫だよ」
と目を細めて笑っていた。ふふ、とはにかんだその笑顔。
それが彼には不思議だった。
あんな状況のあとにもかかわらず、彼女が怒ることも悲しむこともせず、ただ純粋に優しい表情を浮かべていたことに。
「なんで笑ってるの?」
つい口をついて、彼は訊いていた。
そのとき彼女は、また笑ってこう答えた。
「笑わなくちゃね」
◇◆◇
彼女は彼よりいくつか年上だった。
彼女の父親は町工場で働いていた。
そして先程彼女に蹴りを入れていた男子生徒は、彼女の同級生で、彼の父親は彼女の父親の上司だった。
「どこもかしこも大変なんだよ」
と彼女は、少し声の調子を下げて言った。
いま彼は彼女とともに下校していた。彼が一緒に帰ろうと彼女を誘ったのだった。そして道中、彼女は彼に色々と説明をしてあげていた。いじめっ子の父親が町工場の経営に苦しんでいること、そのことでいじめっ子が父からの愛情をしっかりと受けられていないこと、その不満を従業員の娘である彼女に向けていること。
彼女は全ての流れを理解して、その上でああやって笑っていたのだった。
「つらくないの?」
前を歩く彼女に訊いた。彼女はくるりと向き直ると、
「そりゃあ、少しはね」
と柔和に答える。そして後ろ向きで歩く彼女は、
「でもね、誰かが悪いわけじゃないと思うの」
と、あっけらかんとまた笑ってそう言った。
彼には、彼女のその顔が小学生らしからぬとても大人びたものに見えた。
「みんながみんな大変なの。特に今はね。どこかで何かを発散させなきゃならないのよ」
彼にはその言葉の意味がよくわからなかった。
「でも痛いじゃん」
「そうでもないよ。あの子、結構びびりだし。低学年の君を見ただけで逃げるような子なんだよ」
「でも……」
「そうだね……。このままじゃ駄目だよね」
そして少し目を伏せた彼女は、数秒の沈黙ののち唐突に口を開いた。
「私には夢があるの」
そう言って彼女は、彼の横に並んだ。
「あなたにはある?」
彼女は彼の目を覗き込む。彼はそれが少し恥ずかしく目を背けた。
「僕の夢は……科学者に……なること」
照れながら答える彼に彼女は、
「いいじゃないその夢。立派だと思うわ」
と、またはにかんだ笑顔を見せた。
そして、
「私の夢はね、みんなが笑って過ごすことなの」
「……みんなが?」
「そうよ。全員が笑って過ごすの。ねぇ、これってすごくない?」
無邪気に笑うその顔は、まさしく小学生そのものだった。
そのとき彼は、彼女のその笑顔を見て、どきっとしてしまった。
夢を語る彼女の笑顔は、その日一番輝いて見えたのだ。
「あ、あの……」
彼が何か言いかけてた、その時。
「あ、私こっちの道から行かないと」
彼女は別れた道の一方を指さした。
「笑っていればきっといいことあるよ」
「あ……うん」
「辛い時こそ、笑わなくちゃね」
そうして彼女は一人歩いていった。
彼は去っていく彼女の背中を眺め続けた。また彼女に会いたい、と彼は思った。
だがそれは叶わなかった。
それが、彼が聞いた彼女の最後の言葉となった。
◇◆◇
不慮の事故だった。
前日の大雨で河が通常より増水していたこと。欄干の一部分が腐っていたこと。たまたまそこの人通りが少なかった事。
全ては偶然な不幸の重なりだった。
彼女は彼と歩いて帰ったあのあと、河で溺れて死んでいたのだった。
警察は、腐った欄干に手をかけて、誤って落ちてしまったのだろうという見解を示した。心ない噂話では、彼女はいじめを苦に自殺してしまったのだろうということになっていた。
「聞いた? 渚ちゃん自殺したんだって」
「聞いた聞いた。でもしょうがないよね。彼女、虐められてたらしいよ」
「あーそれ知ってる。確か同じクラスの奴だったけ」
「そう。警察は事故だって言ってたけど、ぜったい違うよね」
「だよねー。だってそうじゃなきゃ■■■■しないよね。渚ちゃん■■■■だもんね」
どこかで誰かが、そんな話をしているのを聞いてしまった。
だが彼にはわかっていた。あの誰よりも優しく、強くみえた彼女が自殺なんかするはずないと。
だからこそ彼は科学者になる事を決意した。彼が語り彼女が褒めてくれた夢、そして彼女自身が語った夢。その両方を叶えるために。
そして彼は完成させた。――それは薬品だった。
◇◆◇
彼は自ら《スマイル》という名の食品会社を立ち上げた。そこで様々な商品を開発、製品化しては、世に送り出していった。
彼の会社だんだんと大きくなっていった。
いつのまにか『スマイル社製の物を食べると皆笑顔になる』と噂されるようになった。
そしてそれは紛れもない事実だった。
いつしかそれは国内有数の大企業となっていった。そして日本中の皆がスマイル社製の食品を日常的に食べるようになり、どこにいても笑い声が聞こえてくるようになった。
彼が目指した世界になったのだった。
◇◆◇
(もし彼女が生きていれば……)
時たま彼は、そんな事を考える。そして同時にあの日のことが脳裏に蘇ってくる。彼女が死に、それを話題に噂していた二人の会話を盗み聞いた時のことを――
『――警察は事故だって言ってたけど、ぜったい違うよね』
『だよねー。だってそうじゃなきゃあの道通ったりしないよね。渚ちゃん、帰る方向逆だもんね』
――彼女の死は偶然だったかもしれない。
河が増水していたことも、欄干の一部が傷んでいたことも。
彼女が興味から、河を覗いたっておかしくはなかった。
だがもし自分が一緒に帰ろうなどと誘わなければ、彼女がその道を通ることもなく、また河を覗こうなどと思いもしなかっただろう。
彼女の死の原因が自分にあると知り、彼の内から抑えがたい何かが込み上げてきた。
だが彼は泣かなかった。涙を堪えて、ぐっと堪えた。
もしも彼女がこの状況を見てたら間違いなくこう言ってだだろう。
――ほらそんな顔しないで、笑って。
頬を引きつらせながら、彼は無理やり笑顔をつくった。きっとこれで彼女は喜んでくれるだろう。
「……」
でも本当は泣きたかった。
彼女の死は一時的に周囲の人間の日常を変えた。だがすぐに彼らはいつもの日常に戻っていった。いじめっ子はその標的を変え、何事もなかったかのようにいじめを続けていた。
彼らを笑顔にするなんて到底無理だ、と彼は内心諦めていた。
彼女が望んだ世界はあまりにも理想的で、実現不可能だと――だが。
彼はやらなければならなかった。
それが彼女が彼に残した願いであり、使命だった。
◇◆◇
スマイル社製の商品には、彼が開発した薬品が混ぜこまれていた。人体に無害なそれは体内に取り込んだ者にある一つの作用をもたらした。
それは、文字通り笑顔にさせることだった。
脳に作用するそれは、表情筋をコントロールし、常にその顔を笑顔の状態にさせる。
だからみんなは笑い続けた。
悲しい時も、苦しい時も、辛い時も、病める時も。
いつどんな時でもみんなは笑い続けた。
最愛の人が死んで悲しくても。
息ができなくなるほど苦しい時も。
周囲の人間関係に馴染めずに辛い時も。
余命わずかだと宣告された時も。
みんながみんな笑いあっていた。
悲しい顔をする人はもう一人もいなかった。
どこにいても笑い声が聞こえてきた。
彼もまた笑っていた。
これからもずっと笑い続けるだろう。
それが彼女が望んだ世界だから。
だから彼はまた笑った。
そのとき彼の頬を一条の滴が伝っていった。
【後書き】
この意味怖もようやく合計文字数が十万字を超えました。大体文庫本一冊くらいの文量ですね。この間pv数を確認してみると、いつもの二倍読まれている日がありました。何があったんだと考えてみると、前日に『世にも奇妙な物語』がテレビで放送されていました。




