走馬燈
この心は腐敗していた。腐臭がしているのに目をそらし、鼻を塞いで蓋をした。本音を殺し、自分を騙し、他人に合わせ、必死に何かをごまかしてきた。
――本当はこんなはずじゃなかったんだ。
いつからだろう。こんな自分になってしまったのは。偽りの自分を演じるのはもう疲れた。
破裂するのは時間の問題だ。
それだけは避けなければならないと、全てを放り投げ、跡形もなく消し去ってしまいたい。
否。もう、そうするしかなかった。
屋上へ向かう階段を登りながら、そんな馬鹿みたいな事を考えていた。スチールの軽い扉を開けると、びゅうっ、と風が横を通り過ぎた。空はどんよりとして、灰色の雲に覆われている。今にも雨が降り注ぎそうだった。
私は天を仰ぎ、その灰色を眺めて考えた。
もしもこの空に雲ひとつなく、青く澄んだ世界が視界いっぱいに広がっていたとしたら、果たして自殺を躊躇ったのだろうか。
私は扉を後ろ手で閉め、柵へと真っ直ぐ進んだ。もはや足取りに躊躇いはなかった。靴を脱ぎ揃え、柵を越えて縁に立つ。強い風がシャツの裾をなびかせる。まるで私の自殺を後押ししているかのようだ。
私は深く息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
腕を横に大きく広げ、重心を前へと移していく。
自然と体が倒れていく。すーっと、かかとが浮き――
――ゆっくりと体が落ちていく。
私はそっと瞼を閉じた。
――思い出されるのは過去の情景。
産まれたての頃、母の胸の中で泣きじゃくる自分。小さな虫を見つけては無邪気に母に見せていた。校庭で友達と元気よく遊んだ場面。授業参観では力強く手を挙げていた。中学校に入学し、初めて着る制服に緊張もした。初めて部活に所属し痛感した上下関係。クラスメイトと拳を交えたこともあった。修学旅行で初めて訪れた京都。受験勉強に専念した夏。だが受からなかった第一志望。中浪を避けるために入った高校。合わない人間関係。
サボるようになった授業。突きつけられた赤点。無意味に過ごした三年間。ギリギリで卒業した春。コネで紹介してもらった仕事。ついに始めた一人暮らし。慣れない生活。はじめて終電に乗った。上司に無能と罵られた。
(――これが走馬燈か……)
仕事が片付かず終電を逃した。また残業をした。仕事でミスをした。酔っ払いに絡まれた。パワハラを受けた。黙って耐えた。上司に罵倒された。ヘラヘラと謝ってやり過ごした。また終電を逃した。ミスを押し付けられた。黙って耐えた。またやらかした。怒鳴られた。耐えた。死にたくなった。死にたくなった。死にたくなった。死のうと思った。
――屋上の扉を開けた。
柵に向かって歩き出した。そして私は飛び降りた。地面に横たわる自分に、誰かが駆け寄ってきた。病院のベッドの上で目が覚めた。
(おかしい……。これではまるで……)
見舞い客が来た。私を助けた女性だ。入院生活を送った。退院の日に青々とした空を見た。そして彼女と会うようになっていた。
(まるで未来を見ているようじゃないか!)
二人で出かけたショッピングモール。共に見た雄大な夜景。一夜を共に過ごした場面。彼女の薬指に指輪をはめた瞬間。我が子の産声を聞いた時。ついに手にしたマイホームに踏み入れた一歩。育った娘が無邪気に笑ったその一瞬。
何気ない平穏な日々を切り取った、数々の光景。様々な場面が圧縮された時間の中で、次々と瞼の裏に広がっていった。
ありふれた日常だけど、穏やかで、愛にあふれているように見えたその情景。順風満帆に思えるような理想の日々。そして――
――“ドン”…………
重く鈍い音が周囲に響いた。
全身を打ち付け、身体中のあちこちが悲鳴をあげる。
私が落ちたそこは、不覚にも花壇の土の上だった。
(死ぬこともできないのかよ……)
一人悶え苦しむ中、その音で気づいたのか、誰かが駆け寄ってきた。
(あ……彼女は……)
地に堕ちるまでの数秒間に見た――あの彼女。
「大丈夫ですか! あの、誰か来てくださいッ!しっかりしてください、今救急車呼びますからね。だか……ら、しっか……くだ……だ……いま……――」
(訳がわからない……)
薄れゆく意識の中、彼女の声が最後まで私の耳に残り続けた。
◆◆◆
見知らぬ天井が目に飛び込んでくる。
(どこだここ……いや、それよりも……)
そこは病院のベッドの上だった。どうやら私は一命をとりとめてしまったらしい。
(はぁ……まったく……)
天井を眺めながら、私はあの奇妙な体験を回想していた。
人の死に際に見えるという走馬燈。
死を目前にして、人生を一瞬にして振り返るあの現象を、私はこの身で体験した。
だがあれは過去ではない。
あれは紛れもない――“未来”だ。
しかしながら、これをどう説明できよう。
死に際に叶えたかった私の願望を――つまり、こうなりたかった未来を、思い描いただけなのだろうか……?
――私は考えるのをやめた。
それから数日が経ち、何故だか彼女が見舞いにやって来た。
彼女は初め、申し訳なさそうな顔で私に謝罪の言葉をかけてきた。どうも自殺を妨害してしまったことに対して謝っているらしい。そんなことで謝る人もいるんだな、と私は少し驚いた。そんな謝罪の後、しかし彼女は私のことを本気で怒りだした。いや、怒ったというよりは本気で心配してくれていたようだった。
「自ら命を絶つなんて間違ってます!」
その言葉は決して一般論を言っているのではなく、彼女の表情はとても真剣だった。
私は彼女のその言葉に、なぜ自分が自殺しようとしたのか本当に馬鹿らしく思えてきた。こんなに心配してくれている人がいるなんて。
「すみません。もう死のうなんて考えていませんから」
「本当ですか? 絶対に駄目ですからね!」
彼女は口の端をきゅっと結んだ。
それから何度か、彼女が私の病室に見舞いに来てくれた。私を見舞う客が他にいないことを知り、そのことを本気で心配してくれたらしい。
そんなこともあって、彼女とは触れ合う機会が増え、とても親しい仲になった。
退屈な入院生活も、彼女と会話すればそれだけで楽しい時間に早変わりした。
私が笑うと、彼女もまた優しく微笑んだ。その時間が本当に心地よくて、彼女と一緒にいる時間が一瞬に感じられるほど、私は彼女のことが好きになっていった。
しばらくして退院できた時、彼女が迎えに来てくれた。その時私は空を見た。その空はどこまでも透き通るような青色だった。
「きれいな空ですね」
彼女は笑顔でそう言い、
「ああ、雲ひとつないよ」
私は、そう答えた。
そんな私たちが結ばれるのに、そう時間はかからなかった。
私生活は以前とは比べ物にならないほど、満ち足りたものとなった。
一方の仕事だが、こちらも私生活同様、順調に進んでいた。
実は驚いたことに、私が入院している間に会社の方が私の事を勝手にクビにしていたのだった。元より死のうと思っていたのだから、前の会社に未練はない。いや、こっちから願い下げだ。
今は彼女の知り合いの紹介で入った会社でバリバリ働いている。なんせ私には愛する者ができたのだから。くよくよなんてしてられない。
――ただ、時々思い出すことがある。
私が飛び降りた時に見たあの走馬燈。あそこで見た未来が、現実に起こっている事実に。
私はなんとも言えない不思議な感覚に襲われる。そこで見た光景と同じ体験を、私は今辿っていた。
そう、だから私にはもうすぐ子供ができるだろう。それは女の子だ。そしていずれ一軒家を買い、そこで家族三人で過ごすことになる。それがわかってしまう。
――だが、私は見てしまった。
もしかしたら本当は、あの時死ぬべきだったのかもしれない。一命をとりとめ、愛する者が出来、順風満帆な人生が“ある意味”で約束されているというのに、一体何が不満なのかと、そう思われるかもしれない。
いや、だからこそ私は死ぬべきだった。
地面に激突するその直前、私は確かに見た。
家族が――私と妻と娘が、強盗に襲われ、そして殺されてゆく、その光景を。




