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サラリーマン

 今回皆さんには僕が生きてきた中で、一番怖かった出来事をお話ししたいと思います。それはよく晴れた日のことでした――。


 僕はその日、サラリーマン人生の中で一番緊張していました。その日は超大手広告会社とのそれはそれは大切な商談を控えていたのです。上司とは現地で会うことになっていて、僕が持って行く資料と商品サンプルがないことには何も始まりません。責任は重大です。上司からは、「絶対に遅刻するなよ」と念を押されていました。

 なのになんの因果か、いつも(とお)っている道で交通事故が起きて迂回させられたり、通る道全てで赤信号に引っかかたり、挙げ句の果てには渋滞に巻き込まれるなどなど、色々な不幸が重なり、いつもより家を早く出たにも関わらず、時間はギリギリのギリでした。

 駅に着いた僕は両手にサンプルが入った紙袋を提げ、脇に鞄をはさみながら急いで改札を通り、ほぼ駆け込み乗車のような形で快速電車に乗りました。車内は満員というほど人はいませんでしたが、それでも座席はほぼ埋まっていました。僕は運よく空いている端の席を見つけると、鞄を網棚に置き、サンプルを膝の上と脚の間に置いてひとまず息を吐きました。時計を確認すると予定より三分ほど遅刻しそうな時間です。降りる駅までは約二十分、目的の駅まで四駅。それまでは焦っていても仕方がありません。僕はとりあえず落ち着くため、車内をなんとなく見渡しました。

 しかしいま思えば、それが恐怖の始まりでした。

 向かいの自分と反対側の端の席に座る人は、もはや人と呼んでいいのかわからないほどの、それはそれは恐ろしい風貌(ふうぼう)をしていました。顔色に生気はなく、頬はこけて眼球が窪み、眉の毛は一本もありません。腕も脚も異様に細く、まるで骨に皮が張りついているかのようです。そのくせ髪は異様に長く、胸元辺りまで伸びていました。周りの人間がその人のことを全く気にしていないのが、より僕に不安を与えました。僕がじっと見ていると、奴が不意にこっちを振り向きかけ、僕はとっさに目を逸らしました。落ち着くどころではなかったです。僕はこの後の商談のことを頭の中で繰り返し繰り返しシミュレーションする事でなんとか気を紛らわせました。

 一つ目の駅に到着したとき、人が入れ替わる中、何気なく奴が座っていた席を見ると、奴はいなくなっていました。ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、なんと奴は僕の真向かいの席に移動していたのです。奴は僕のことをじーっと見つめていました。なんで⁈ どうして⁈ 訳がわからずただただ早く駅に着いてくれと頭の中で念じていました。

 二つ目の駅に着いた時、車内に人がどっと流れ込んできました。これで奴の視線からも逃れられる、そう思った時、ふと顔を上げると、なんと奴は僕のすぐ隣に立っていたのです。僕の心臓はきゅっと縮こまり、そのすぐ後どくどくと鼓動を打ち始めました。もしかしたら今日死ぬかもしれない、その時はそう思いました。

 三つ目の駅に着いた時には、正直降りようかとも思いました。ただ、ここで降りると遅刻するのは必至。それだけは避けなければ、あと一駅しのげれば間に合うんだ、そう心に言い聞かせてなんとか耐え切りました。さっきまで真横にいたあいつは、まるで()く手を塞ぐかのように私の前に移動していました。あれは人生で一番長く感じられた時間でした。

 そして目的の駅に着いた時、電車がガタンっ!と大きく揺れた瞬間、奴は体制を崩しました。「今だ!」と思った私は、この機会を逃すまいと無我夢中、一直線に扉へと向かって走りました。僕が電車を降りた時、奴はまだ電車の中で、そのすぐあと扉は閉まりました。そして電車とともに去っていく奴の姿を見送ると、まだ仕事が残っていると言うのに、全身からどっと疲れが(あふ)れてきました。時計を確認すると急げばまだどうにかできる時間です。僕は心の底から安堵(あんど)の息を吐き出しました。


 しかし僕が出会ったあいつは一体なんだったというのでしょう? 疑問は残っていたがそんなことを考えている余裕はなく、僕は両手に荷物を持つと走って駅を出ました。


 この出来事で僕は一つ教訓を得ました。それは、大切な用事がある時はタクシーを使おうってね。


【解説】

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 お気づきになっただろうか。語り手がやらかした重大な過ちを。サラリーマンにとって怖いのは、恐ろしい風貌をしただけの害のない人間などではなく、電車の網棚に重要な書類が入った鞄を置き忘れてしまったということだ。

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― 新着の感想 ―
[一言]  肩にかけることができる鞄を使うのも、教訓ですね(笑)
[良い点] 網棚に荷物を置くようなセキュリティ意識のない人はダメだね
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