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九 もう一人の親

 九 もう一人の親


 ロバート事件から一週間。あれほど警戒していた不幸とやらも起こる気配がなく、日常は続いていた。何かが起こるなんて未だに信じがたい。


不幸が起こると言っても、また大した不幸ではないのではなかろうか。カップ焼きそばの湯切り失敗とか。


 日曜日は全員が学校や仕事が無いため美樹の部屋に四人が集結する。これはもう当たり前で習慣化している。日本の平和を実感する時間である。


 美樹は四人分の昼食を作り、俺はそれを手伝い、大家と花子は二人仲良くテレビゲームをしている。



「花子行くわよ! 私はここでおにぎりを購入するわ……右腕を代償にね」


「ふふ……大家さん思い切りましたね。しかし私はあえてここで一回休みます!」


「そう来たわね。仕方ない……私はここで八億払うことにするわ」


「王道の攻め方ですね……。しかし! 安全な道ばかり通っていては私に勝てません! いっけぇぇぇぇ!」


「八重椿 (やえつばき)!? 四十八手性交体位の一つをここで拝めるとは……。じゃあ私はまた沖縄県の勢力を奪われたというの!? これじゃ毎ターン、ゴーヤを使ったレシピを考えなきゃ私の勝ちはない……」



 このゲームは何回やってもルールが覚えられない。このクソゲーを毎日のようにやってる二人は頭がおかしいのだろうか。


「ミキティー! 次ミキティのターンよー」


「花子の領地全部奪っといてー」



 キッチンにいる美樹は手を動かしながら、器用に答える。その何気ない一言で花子の敗北が確定してしまうのだから恐ろしいゲームである。



「みんなご飯できたよー」



「「わーい!」」


 美樹の声に大家と花子は犬並みの反応でバタバタと駆け寄る。テーブルに並んだ料理に二人は早くも手を付けようとする。


「ほら花子、大家さんまだみんな席着いてないでしょ。ウェイト」


 完全に美樹の二人に対する扱いがペットである。


「あっ今日は目玉焼きですね! 美樹さんケチャップ取って下さい!」


「はいはい。あれ花子は目玉焼きにはナンプラーじゃなかったっけ?」


「なんでですか。私は目玉焼きにはいつもケチャップじゃないですか。なんの嫌がらせですか」



 目玉焼きは人によってかける調味料が異なるからな。本気でど忘れしたのか、ただの花子への嫌がらせなのかは定かではない。ちなみに俺は塩で食べる。


「あぁそうだったわね。大家さんは目玉焼きにソースだっけ」


「違うわよミキティ! そもそも私はいつも卵を生で飲んでるじゃない」


「あれ……おかしいな」 


 最近美樹の物忘れが激しい気がするのは気のせいだろうか。 他にもド忘れというか、美樹の様子がおかしいこともあった。


 急にぼーっとしたり、飲み物をこぼしたり、一人指相撲をしたり、海苔煎餅の海苔を剥がして、海苔と煎餅を別々に食べたりとなんか様子がおかしいのだ。


 歳のせいだ、と美樹が言っていたけれど、美樹はまだギリギリ二十代だしそれだけじゃない気がしてならなかった。


 この何気ない違和感が花子の言っていた悲劇の予兆となろうとはこの時の俺は知る由もなかった。




 ――その刹那だった。




ガラスのグラスが床に落ち砕け散る音と共に、



……美樹が倒れた。





 何かの冗談かと思った。きっとすぐに美樹はムクッと立ち上がり、冗談だと悪戯に笑うものだと思い込んでいた。


「ミキティ!」


 一番最初に動いたのは大家であった。ガラスの破片が美樹に刺さっていないか確認し、すぐに電話を取り救急車を呼んでいた。その後に次いで花子が美樹の元に駆け寄り、応答しない美樹に必死で呼びかけていた。


 そんな当たり前の事を出来なかった自分に驚いた。呆然と口を開けたままと立ち上がることすら出来なかった。数十秒前とあまりに状況が変わりすぎて頭が追いつかない。


 ようやくおぼつかない足取りで倒れている美樹の元に這い寄る。


 平和な日常は守るのは大変でも、壊れるのは残酷なほど一瞬である。まるでこの砕け散った薄いガラスのグラスのように。




 不幸中の幸いで転倒とガラスの破片による外傷はないようだ。しっかり呼息も安定している。 しかし安心している場合じゃない。


 俺たちは救急車の到着を待つことしか出来なかった。時間にして数十分で救急車は到着し、その間の時間は恐ろしく長く感じた。






 美樹が運ばれる中、俺たちは全員救急車に同乗した。



 流石に窮屈で救急隊員も少し迷惑そうであったが三人は黙って見過ごすことができなかったのだ。

 

 近くの病院に着く間。俺達三人は終始無言であった。だが、それぞれ思うことは同じで美樹の安否の心配であった。


 ――すると、眠りから覚めたように美樹の目は開かれた。それは以外にも呆気無かった。


「あれ……。ここって」


「ミキティ! あなた大丈夫なの!?」


「美樹さん! 良かったです! 死んだかと思いました!」



 本当に良かった。花子と大家は救急車内で立ち上がり笑顔が戻る。天井が低いため大家は頭をぶつけていたが。


 俺もまだ油断はできないと思ったが、まずは美樹の意識が戻ったことが何よりであった。


 もしかしたらこのまま眠ったままなのではないかと思わず想像してしまった。


「みんなどうしたのよ。死体が生き返ったような顔して」


 美樹は気だるそうではあるが、自力で起き上がるくらいには元気があるようだ。しかし救急隊員の指示によりすぐ再び横になる。





 救急隊員によると症状から恐らくただの『貧血』ではないかとのこと。ただ床に倒れ頭を強打したこともあるので、念のためこのまま病院に向かい精密検査が行われることになった。






 ――数時間後。美樹は病院で検査を受け終わり、医師と対面し検査結果を聞くこととなった。




 俺達四人はぞろぞろと診察室に入り、患者の美樹のみが医師の前の椅子に座る。



 恐らくただの貧血。


 そう思っても結果を聞くまでは緊張感はある。


 ひょっとしたらとんでもない難病の可能性もある。四人は医師が口を開くのを待つ。



 医師はカルテを見ながら、こちらを二度見三度見している。医師の言いたいことは手に取るように分かる。


「こいつら本当に家族なのか?」だろう。


 最近は麻痺しがちだがやはり花子と大家は目立ちすぎる。ただ医師のこれから言う病名までは分からない。



 ふと花子を見ると、まだ不安そうな表情をしており、恐らく医師の心を読むつもりはなく、俺達と一緒に聞くつもりなのだろう。



「率直に述べます。山下美樹さん」


 医師は重い口を開く。美樹がゆっくり頷くところを俺達は後ろから見守る。




「落ち着いて聞いて下さい。



 病名『ファイナルジャッジメント』ですね」



 ……なにそのかっこいい名前の病気。




「せ、先生……。ミキティが『ファイナルジャッジメント』って嘘でしょう……?」



「美樹さんが別名『神の審判』とも呼ばれる超難病『ファイナルジャッジメント』だなんて……」



 えっ? 知らないの俺だけ? 


 花子も大家も驚きを隠せない様子。


 その表情から恐ろしい病気だということだけは分かる。この場所から美樹がどんな顔してるのか分からない。



「そんな……。私が『ファイナルジャッジメント』だなんて……」


 そんなショックな感じ出されても、俺にとってはかっこいい必殺技にしか聞こえないんだが。……

『必殺』は流石に不謹慎か。


 医師は美樹の目を見て力強く激励する。



「山下美樹さん。すぐに入院の手続きをしましょう。これから長い戦いになります。共に頑張りましょう」



 完全に俺だけ置いてけぼりなんだが。



 ――それから俺達の生活はガラリと変わることとなり、美樹は即入院。その間、俺は大家宅に預けられることとなった。


 三人で食べる食事は何かが足りない。大家の手料理は美樹よりも美味しかったはずなのに何だか病院食のように味気なく感じた。



 美樹はお見舞いはたまにで構わないと言っていたが、俺は毎日通いたいくらいの気持ちである。言われてみれば、この十年、俺は美樹と一日たりとも離れたことは無かった。


「ミキティがいないと寂しいわね」


「ええ。『神の審判』だなんて……。神もとんだ濡れ衣を着せられたものです」



 三人の箸は中々進まなかった。



 ……あの。そろそろこの『ファイナルジャッジメント』について聞いても良いかな。なんかみんな知ってて当然な流れだからめっちゃ聞きにくいんだけど。



「もう花子アンタこれから夜勤でしょ! いつまでダラダラ食べてんのよ」


「あっそうでした! でも今日は休んでも良いんじゃないですかね」


「ただ行きたくないだけでしょ! たまちゃんが無断欠勤が多いって怒ってたわよ!」


「たまちゃん? あぁたま子ですか。そんな奴もいましたね」


 確か、閻魔王ヤマラージャだったか? 俺も何度か見かけたことあるけど、大家さんのところに結構遊びに来てるんだな。そしたら閻魔王に神にオカマとこの家人外だらけじゃないか。



「憂色を浮かべながら夕食ってか。はいすいません。じゃ行ってきます。はぁめんどくさいです」 


 いつものことだが花子のギャグもキレがない。花子は何も無いところから梯子を召喚して、とぼとぼと上っていった。何度見ても不思議な光景である。


 花子が出かけた後は更に部屋が広く感じる。


「二人きりね……。皐月ちゃん」


 気持ち悪いわ。確かに大家さんと二人きりなんて久しぶりだけど。この際だし、美樹の病気について聞いてみよう。


「大家さん。お母さんの病気って」


「あぁ……。皐月ちゃんはまだ小学生だものね。知らなくても無理ないわ。今あなたのお母さんは悪ーい病気と闘ってるのよ……。応援してあげましょう……」


 いや。そういうんじゃなくて具体的に教えてほしいんだが。


「じゃあファイナルジャッジメントってどういう病気なの?」


「……えっとね。そうね、なんて言ったらいいのかしら」


 珍しく大家は言葉を詰まらせる。恐らく俺に言うには残酷過ぎる病気なのだろうか。


「お母さんはジャッジメントの中でもレベルが一番上の『ファイナルジャッジメント』なの。しかも脳のジャッジメントだからアジャストメントが難しくて、脳へのアンチテーゼなのよ」



 うん分からん。何も頭に入ってこない。気にはなるが大家からこれ以上聞き出せそうになかった。


 ――その後一週間。



毎日、学校帰りに俺は美樹のお見舞いに行った。美樹は特に変わったところは見られず、元気そうにしていた。もはやなぜ入院が必要なのだろうと思うぐらいであった。





 でも言われてみると美樹と話していて小さな違和感はあった。




 それは会話の中で美樹の「知ったかぶり」が増えたことである。



 以前から物忘れが多い美樹であったが無理に話を合わせてきたり、会話が噛み合ってなかったりと以前は無かったことが生じた。


 しかしそれについて俺は言及したり深く考えることはなかった。


 ところが、一週間目の見舞いで突如、問題は起きたのだ。


 いつものように放課後に俺は美樹の病院に訪れる。


 恒常的に美樹はベッドでプロレスの写真集を真剣に眺めていた。今更だけど、どんだけプロレス好きなんだよ。


 俺の存在に気づくと手を振ってくる美樹。


「もう皐月。ちゃんと学校は行ってるの? 毎日来てくれるのは嬉しいけど遊んできても良いのに」



 遠慮がちにつぶやく美樹であるが表情は浮ついてるように見える。いつも変わらない美樹を見るたびに安心している自分がいた。


 花子と大家はまだ来ていないみたいだ。まぁあえて少し早めに着いて美樹との二人の時間を作っているんだが。


「うん。ちゃんと学校も行ってるし友達とも遊んでるよ」


「それなら良いけど、ほら学校の連絡ノートみせて」


 俺はランドセルを開き、いつものように学校から貰った手紙やテストの答案、連絡事項を見せる。


「おっまたテスト満点じゃない! ふふーん。さすが私の子ね!」


 自分のことのように得意げに喜ぶ美樹。まぁ流石に中身は大人なんだから小学校の問題は解けなくちゃまずい。まぁ美樹に褒められるために結構猛勉強したんだけどね。


 正直、今のままでもすごい楽しい。でも丁度二人きりだ。美樹の調子が良い内に正体を明かすべきだろうか。なんだか今なら言える気がする。


 正体を明かして十年前に言えなかったプロポーズを。


「あのさお母さん。いや! 美樹……!」



 美樹も大きな瞳と目が合い、名前を呼ばれた美樹は驚きでキョトンとした表情をする。


 顔が近くて今にも心臓が破裂しそうである。こうして顔をまじまじと見つめるのはいつ以来だろうか。気恥ずかしさから目を反らしそうになるのを堪える。



「皐月アンタねぇ。お母さんに向かって呼び捨てはダメでしょ……」


 少し機嫌を損ねた美樹に追い打ちをかけるように、俺は続けて言おうとした時であった。


「いや話を聞いて――」


――その時、病室の扉が開きタイミング悪く花子が入ってきた。


「美樹さん聞いて下さいよ! 大家さんがまた私の昼ご飯の唐揚げを盗んだんです! おかずスティールは重罪ですよね! 怒って出てきてやりましたよ!」



 やたらどうでも良い喧嘩をしたようで、いつもは大家と共に見舞いに来る花子が珍しく一人で来た。いつもいつもよく飽きもせず喧嘩するな。


 美樹は不審な人物を見るような目で花子を見る。


「皐月……。あの子、あんたの友達?」


 まぁそう言いたくなる気持ちは分かる。


「ちょちょちょーい! ヘイヘイ美樹さん! いくらなんでも他人のフリしなくても良いじゃないですかー!」


 花子はいつもの五割増しで面倒くさいノリで突っ込む。


「いやだから誰よ。病室間違えてるんじゃ無いの? そもそもなによその羽……」


 花子と美樹の温度差が激しい。


 しかし美樹も悪ノリにしては様子がおかしい。俺の体を引き寄せ、外敵から守るかのように花子を睨む。


 その様子を見た花子は何かに気づいたようで、愕然とする。


「ま、まさか美樹さん。もう『ファイナルジャッジメント』の影響が……」


「あなた何を言っているの? 何で私の名前を?」


「やはり……」


 花子は椅子に腰掛け悲嘆にくれる。


「花子。これは一体……」


 俺は思わず口を挟む。まるで美樹が花子と初対面のような反応だ。


 正直……正直ここまで様子を見れば美樹の身に起きたことはなんとなく理解は出来た。 


 ……でも知りたくなかった。誰かの口から聞くまでは信じたくなかった。それを認めた瞬間、好きだった日常が崩れてしまう。見苦しいように見えるかもしれないが、俺はギリギリまで分からないフリをした。


「皐月さん。美樹さんは記憶を断片的に失っているようです」


 ……そうか。薄々感づいていたが本当にそうだとは。


 『記憶喪失』この病気の症状の一つなのだろう。


 でも俺の事は覚えているのに花子だけ覚えていないということは、完全には記憶を失っていないようだ。


「お母さん。こいつは花子だよ。覚えてないの?」


 俺は花子を指差し美樹に問いかける。美樹は腕組みをし真剣に思い出そうとしているが無駄な努力なようだ。


「私はそのコスプレっ子と会ったことがあるの? ごめんね忘れちゃってたみたいで」


 違うよ美樹。会ったことがあるなんて次元じゃないだろ。


「美樹さん……。この羽はコスプレじゃないんですよ」


 疑惑が確信に変わり、花子はショックを隠せないようだ。




 しかし、それでしょぼくれて終わる花子ではなかった。顔を上げ立ち上がり、美樹に背を向け身構える。



「さぁ美樹さん! この羽が本物かどうか確かめて下さい! あなたが思うように確かめて貰って構いません!」


 花子……! 自殺行為だぞそれは。恐らく花子の考えはこうだ。



 羽を確かめさせ、いつもの美樹なら花子の羽を引き千切るはず。しかしそれで花子の事を思い出すかもしれない。自分を犠牲にした療法である。



 それを聞いた美樹は恐る恐る花子の羽に手を伸ばす。


「へぇーフワフワしてて気持ちいいわね。よく出来てるじゃない」


 花子の思惑通りにはいかず美樹はそっと羽を撫でる。


「ちがーう! 違うでしょ! いつもの美樹さんなら現金鷲掴みが如く掴み、二、三十本まとめて引き千切るでしょう! なんでそっと優しく触るですか!」


「なんでキレてんのよあんた……」


 美樹の反応は当然の反応だ。だけど花子の気持ちも分かる。約十年共に暮らしてきた美樹に忘れられてしまったのだから、意地にでもなるだろう。



「まぁこの病気になった時点で、こうなることは予測してました。では作戦を切り替えます。思い出せなくてもまたお友達になれば良いんです! そしたらその内思い出すかもしれません。私は神と申します! なので私を崇めると良いです!」



 うさんくさくなるだけだから神とか言うのはやめといた方が良いと思うが、花子らしいポジティブな作戦だ。でもこの状況を利用して余計なことを吹き込もうとするな。


「神って何よ。さっき『花子』って呼ばれていたじゃない」


 変なところはしっかり記憶してるのな。


「グッ……! 痛いところを突きますね……。仕方ありません。あまり名前は言いたくないのですが。私の名前は花子・クロートー・ルルドキポス。またの名を花畑花子といいます」


 お前自分の名前思い出してたんだな。美樹も段々花子に対する警戒心は解けてきたのか、表情は先ほどより柔らかい。


「分かったわ『花子ちゃん』ね」

 


 その瞬間、花子は背筋に冷たいものが走ったような顔をする。


「げぇぇ! 花子『ちゃん』!? 美樹さんが変に優しくて気持ち悪いですー!」

 


「失礼な奴ね……。まぁその様子だと花子って呼んで良いみたいね」


 美樹と花子の関係は驚くほど早く修復されている。なんかいつもの雰囲気に戻ってきた感じだ。


「美樹さん。ちなみに私達はこれまで一緒に暮らしてきました。私達は家族同然だったんです。皐月さんが何よりの証人です」


 美樹は必死で思い出そうとしているが、首を傾げたままだった。


「皐月、本当なの?」

「う、うん。花子は隣の家でずっと一緒にいたじゃないか」



 ここまで花子は気丈を装っていたものの、ワンピースの裾を強く握り俯く。



「美樹さん……本当に私のこと忘れちゃったですか? いつも……私の羽引っ張って叱ってくれたじゃないですか。美樹さんが作る料理も大好きだし、美樹さんの嫌みったらしい毒舌も嫌いじゃないです。私との思い出、全部……忘れちゃったですか」


 花子の瞳には大粒の涙が塞き止められていた。今にも溢れ出しそうであったが、流れ出さないように堪えられていた。


 切り替える。と言っていた花子自身もやはり諦めきれないのが本心のようだ。


 美樹も花子のただならぬ様子に、かけがえのないものを忘れてしまったということは実感しているようだ。美樹の表情にも罪悪感が見て取れる。そんな大事なものを思い出せない自分の不甲斐なさに苛立ちを感じていた。


「……花子ごめんね? でも思い出せないんだ」


「うぇぇ美樹さんが優しいですー! 逆に恐いです! いつもの美樹さんなら『ファミレスで料理を絶賛してシェフを呼ばせる罰ゲーム』やらせてくるのに! うわぁぁぁん!」


 まさかの恐怖で泣き出す花子。


「なんかむかつくわね。私がそんな酷い事やらせるわけないじゃない……多分」



 いや、やらせてたぞ。



 花子は鼻を噛み、ようやく落ち着いたようである。


「すみません取り乱しちゃって。忘れそうな事は紙とかに書いて取っておくと良いですよ。大事なことを忘れないために」


「なるほど……。後であんたの名前書いとくわね」


「そういえばお身体の調子はどうですか?」


 騒ぐだけ騒いで今更かよ。


「別にいつもとあんま変わんないのよね。ちょっとめまいがしまたり、忘れ事が増えたりするくらいよ」


「私は忘れ事の一部ですか。手術は確か明日でしたね」


「そう明日。なんかすごい大変な手術みたい」


 やっぱり手術が必要なほど酷い病気なのか。となると頭部だし大がかりな手術となるだろう。


「どうなんでしょう。でも明日とか急ですね。それより美樹さん怖くないんですか?」


「頭をパカッと開けられるんだもん。怖いに決まってるじゃん」


「で、ですよね……」


 手術という単語を聞いた瞬間、美樹の顔は引きつっていた


「でも……早く治してあんたのこと思い出してやらないとね!」


 美樹は白い歯を見せて微笑む。病人の顔とは思えないくらい眩しく優しい表情であった。


 自分が一番辛いはずなのに、恐怖を乗り越え、自分の記憶喪失で傷付く俺達を安心させるために。


 すると、三人のいる病室に新たな来訪者がやってきた。


「ごめーん! 大家遅くなっちゃったわ! ミキティ調子はどう?」


 大家がお見舞いの花を持ってやってきた。これほど花が似合わない人物はいない。


 美樹は再びポカンとした表情になる。あっ……これはもしや美樹は大家さんまで……。


「誰よこのタンクトップ」


「ミキティ!?」


 大家にも美樹の記憶喪失に関して説明した。大家と花子との記憶を失ったものの、皐月の事は覚えている。記憶喪失といっても忘れていることと、覚えていることに偏りがあるようだ。


 改めて俺は大家を美樹に紹介したところで面会時間は終了してしまい、三人は面会を終え帰途についた。


 ――そして手術当日。俺は何もできぬまま、いつの間にか手術室のランプが点灯し、ただただ時計の針とそのランプを交互に眺め続ける。そんな時間が続いた。



「皐月ちゃん。ミキティは今すごい頑張ってるところよ。きっと上手くいくわ」


 大家は俺の肩に大きな手を置く。この状況ではどんな慰めでも心強い。


 しかしなんだろうかこの胸騒ぎは。もしかしたら、手術に失敗し美樹と最期の別れになるかもしれない。


 人間の脳は万能だという人はよくいるが俺はそうは思わない。人間の脳ほど脆く大雑把で頼りないものはない。


 人間には再生能力がある。手足などにできた傷はすぐに塞がっていく。例え大きい傷が付いても縫合すれば自然と機能は修復できる。


 しかし脳はそうはいかない。繊細が故、再生する能力が乏しい組織である。ちょっとした傷で失うものは大きい。


 脆さだけではなく『信頼性』にも欠ける。例の一つとして『デジャヴ』がある。初体験の事なのに経験したことがあるように感じる、いわゆる『既視感』である。俺も美樹と初めて出会ったとき、前にも彼女と会ったことがあるような気がした。


 しかしそんな訳はなく、単なる思い込みだったりする。多分自分が感じたことがあるデジャブのほとんどは脳が勝手に書き換えた仮初の記憶なのではないだろうか。と、考え始めるとキリがなく疑心暗鬼の泥沼にはまることになる。


 次第に真実が分からなくなる。明日の自分は本当に『今の自分』なのだろうか。手術が終わった美樹は本当に俺達の知る美樹なのだろうか。


 考え込めば考え込むほど話がずれていく。手術が終わるまでそんな長考の繰り返しであった。


 花子と大家は何を考えているのだろう。こんな時に会話に花咲く訳もなく、沈黙が続いた。


 ――そしてその沈黙を破ったのは花子であった。


「……皐月さん。恐らく美樹さんの記憶がこの手術で戻るとは限りません」


「ちょっと花子! いくらなんでも皐月ちゃんはまだ小学生よ。そんな言い方……」


「大家さんは黙ってて下さい。昨日の唐揚げの恨みまだ忘れてませんからね」


「それは花子がアタシのかまぼこ食べたからでしょう。お返しよ」


 こんな時にくだらない喧嘩するなよ……。しかも元は花子が悪いんじゃないか。


「かまぼこと唐揚げを同等にしないで下さい。大家さんがやったことは、軽く肩を叩いただけなのにお返しと言ってナイフで心臓を刺してきたようなものです。非人道的行為です」


「……はいはい。アタシが悪かったわよ。でもこれとそれは別よ。なんでそんなネガティブなこと言うのよ」


「皐月さんにもちゃんと美樹さんの病気の事を受け入れて貰うためです。励ましの言葉を真に受けて、もし美樹さんが後々取り返しの付かないことになった場合、最も後悔することになります」


 確かに、俺も美樹の病気についてよく知らない。正直、知るのが怖かった。もし命に関わる病気だったら……と思うと。だから大家さんの言葉は凄く励ましになった。


 でもいつまでも現実逃避してる場合じゃない。花子の言うことも正しい。


「良ければお母さんの病気の事をしっかり教えてほしい」


「皐月ちゃん……大人になったわね。アタシはあなたを子ども扱いしていたみたい」


 大家の表情はまるで我が子の成長を喜ぶ親のようであった。その後は花子に説明を委ねた。


「今、思えば美樹さんの物忘れが多くなった時からこの病気は進行してたのでしょう。『ファイナルジャッジメント』という病気はその名の通り『死の宣告』ともいえる病気です」


 花子は椅子に腰掛ける。少し声が震えている。


「死の宣告……」


「ええ。この病気は人間の脳がどんどん悪性細胞に浸食されていく病気です。つまりその悪性細胞が美樹さんの脳の記憶を司る部分を浸食し始めているのです。そのため私達を忘れてしまったのでしょう」


「でも俺の事は覚えていたよな?」


 花子、大家の事は忘れていて、俺の事はハッキリと覚えていた。それに関してはどういうことなのだろうか。


「分かりやすく言うと、美樹さんの脳は虫食い痕の残った葉っぱのように所々穴が開いている状態。辛うじて皐月さんの記憶は浸食から免れていたのでしょう。でもいつあなたの記憶が無くなってもおかしくはないです」


 これから俺も美樹に忘れられてしまう可能性があるのか……。


「記憶を失うってのは分かったけど、命に関わることなのか?」


「はい。この悪性細胞はどんどん脳を浸食します。その部位によっては記憶だけでなく、満足に手足が動かせなくなったり、言語が話せなくなったりします。やがては生きるために必要な呼吸の仕方まで忘れることになるでしょう。いわゆる『脳死状態』も考えられます」



 ……嘘だろ。美樹が死ぬかもしれない。


 そんなに恐ろしい病気なのか。まだ部分的に記憶を消失している状況は初期段階に過ぎないのだろうか。


「でも手術は? 手術を行っているって事は回復の余地があるってことだよな……?」


「手術は精々悪性細胞を減らす作業です。完全に除去することは困難ですし、一度浸食してしまった部位は正常に戻ることはないでしょう。前例が少ないため根本的な治療法がまだ発見されてないのです。いわばその場凌ぎです」


「そんな……」


 俺は絶望した。なぜ美樹なのか。なぜ美樹がこんな目に遭わなくちゃいけないのか。


 本来はここで神にでも祈るのだろうが、皮肉にも最期の頼みの綱である神に現実を突きつけられた。


「唯一私から皐月さんに励ましの言葉を言うならば、この病気があまり解明されていないことが救いかもしれません。まだ見つけられてない治療法がもしかしたら存在するかもしれないです」


 それこそ苦し紛れの言葉である。花子なりの配慮なのだろうが。


「皐月ちゃんもう三時間も待っているわ。一度帰って休みましょう。多分ミキティの手術はまだ十時間以上かかるわ」


 大家は腕時計見て開口する。。


「いや。二人は帰ってて良いよ。俺は手術が終わるまで待ってる」


 それが唯一俺に出来ることであった。俺は美樹に何もしてやれていない。せめてこのくらいの事をしないと気が済まなかった。


「……皐月ちゃん気持ちは分かるわ。でもそんな事していても意味が無いわ。ミキティは今一人で戦っているの。皐月ちゃんがここで十時間祈ろうと、お百度参りしようと、滝に打たれようと手術の結果は変わらないわ」


 大家にしては意外な辛辣な言葉であった。花子もその物言いに勿怪顔になる。


「ただね、私達に出来ることがない訳じゃないわ。まず私達がすべきなのはミキティが手術を終えて

眠りから覚めたとき、一番に私達が出迎えてあげることじゃないかしら」


「そうですね。私も大家さんの言うとおりだと思います。体を休めて作戦会議と行きましょう!」


 花子はその言葉を聞き安心した表情で賛成する。


 本当はここで美樹と共に戦いたかったが、それも現実的に見れば意味の無いこと。俺が美樹と共に病気に立ち向かっている気がするだけで、疲弊するだけでなにも解決することはない。


 大家さんの言うとおり、ここは一時撤退し、美樹が目を覚ます頃に戻ってこよう。


 ――翌日、無事美樹の長時間の手術は終えたようで、美樹は病室のベッドで寝ていた。

 恐らくまだ全身麻酔が残っているのだろう。頭には大げさに包帯が巻かれている。俺達三人は椅子に腰掛け美樹が目覚めるのをひたすら待っていた。


 まるで毒リンゴを食べさせられた白雪姫のように、美しく眠る美樹。


 このまま目覚めなかったら……と思うと恐ろしいが、それは杞憂に終わった。


 ――美樹のまぶたがゆっくりと上がり目を覚ましたのだ。


「……うわっ」


 全身麻酔の後で放心気味ではあるようだが、目覚めた瞬間に鼻水と涙でぐちゃぐちゃの三人の顔が目の前にあるのだ。それは驚いても仕方ない。


「ミキティーー!」


「うおお美樹さん良かったです!」


「うわああ良かった! 本当に!」


 三人が同時に騒ぐもんだから、美樹もたまったもんじゃないだろう。苦笑いしながら美樹は耳を塞ぐ。


「ミキティ……体調はどう? 頭痛くない?」


「色んなで頭が痛いわよ……。でも大丈夫そうよ『先生』」


「え? ミキティ今なんて?」


 三人は耳を疑った。


「いやだから先生……意外と頭がスッキリしてて気分は良いわよ」


 まさか大家を医者と勘違いしてるのだろうか? 記憶は失っているのには驚かないが、手術の前日、大家を忘れている美樹に改めて『家族』だと紹介している。



 一昨日の出来事まで忘れてしまっているのか? 頭スッキリしているにも程がある。


「美樹さん! 私の事は覚えてますか?」


「いや分からないわ」


 やはりそうだ。手術の後遺症なのか、それとも病気の症状が悪化しているのか、一昨日の出来事まで忘れている。そしてとても嫌な予感がする。


「お母さん。……俺の事は覚えてる?」


 美樹の返答が怖い。美樹は俺の事を凝視し、答えるまで間があった。


「私がお母さん? 君は……誰?」



 俺の中で何かが音を崩れ落ちた。とうとうこの時が来てしまった。恐れていた最悪の事態が。 


 俺は気づけば病室を飛び出していた。


「皐月ちゃん!」


 大家は花子にアイコンタクトし皐月の後を追う。


 病室は花子と美樹の二人となる。


「美樹さん……! 皐月さんまで忘れちゃったんですか?」


「ごめん……。みんなが何を言ってるのかよく分からないわ」


 美樹の体調は術後にも関わらず良好そうである。記憶の悪化に目を瞑れば。


「美樹さん。あなたは今、記憶喪失になっています。それは自身で理解してますか?」


「記憶喪失……。元々あなた達と私は知り合いなの?」


 自分が記憶喪失ということを理解していない模様だ。


「はい。実は一昨日も同じ事を説明しているんです。再び記憶を失っているようですね」


「私は確か……。高校入学してその後確か……」


「……美樹さん。あなたもしかして――」




 ――大家の呼び止める声が後ろから聞こえたが、構わず病院の廊下を走る


 点滴をぶら下げ歩く老人や、車椅子の子供の横を走り抜ける。


「キミ! 止まりなさい!」


 看護婦の制止を振り切り、病院から飛び出す。行く宛てなど無い。なぜ走っているのか分からない。


 徐々にスピードを緩め止まり、膝に手をおき、肩で呼吸する。


 しかしこのモヤモヤしたどうしようもない気持ちが収まらず、体に鞭を打ち再び走る。病院は割と近所にあるため、見慣れた景色を走る。何度も車に轢かれかけたけど、構わず走った。





 そして無意識のうちに辿り着いた場所はあの公園だった。




 俺が前世でプロポーズするはずだった公園に引き寄せられるかのように、中に入って行った。 



 ――ブランコに腰を下ろすとギシギシと音を立ててブランコは揺れた。錆びた鉄の匂いがした。

 変わってないこの公園。遊具は使い込まれ塗装が剥げていたり、ボロくなっているけど。

 ちょっとタイムスリップした気分だ



 よくよく考えれば、なんでこんな小さい公園なんかでプロポーズしようと思ったのだろう。


 もっと良い場所があっただろうに。


 もう十年も経つのか……まさか美樹にプロポーズするはずが、美樹の子供になるなんてな。泣けてくる。


 何でさっき美樹から「皐月」という人間を忘れられた時、あんなに悲しくなったんだろう。


「優也」という存在を忘れられたと決まった訳じゃないのになぜだろうか。


 やはり今の皐月の生活が好きになっているからなのか?


 これでは本来の目的がブレてきてるじゃないか。美樹にプロポーズするのか、このまま家族として過ごすのかと悩んではいたけれど、今では贅沢な悩みだ。


 ――今となっては両方とも叶わぬ夢なのだから。


 子供達の無邪気に遊ぶ声が思考を遮る。


 無邪気で良いな子どもは……なんて思ってたけど、改めて生まれ変わると子どもも大変なんだよな。


「こんなところにいたのね」


 誰もいなかったはずの隣のブランコが揺れる。窮屈そうにブランコに無理矢理座る巨体がそこにあった。


「大家さん」


「急に出て行っちゃうから心配したわよ。でもそうよね。お母さんに忘れられちゃうなんて辛いに決まってるわよね」


 こんなに心配してくれる大家さんに隠し事はこれ以上したくなかった。俺は大家さんにすべて打ち明ける決心をした。


 悲しみを分け合いたいとかじゃなくて、ただただ大家さんを騙しているような気がしたから。


「大家さん……実は十年間隠していた事があるんだ」


「あらあら赤ちゃんの頃から隠し事? ちょっぴり大家センチメンタルだわ。皐月ちゃんの事はなんでも知ってるつもりだったのに」


 少し悲しそうに微笑む大家。


「いや、大家さんだからこそ言えることなんだ。信頼してるから言うことを決心したんだよ。信じてくれるかな?」


「あらやだ。皐月ちゃんもそんな男らしい事言えるようになったのね! ちょっとキュンときちゃったわ」


 最高に気持ち悪いわ。でもこれこそ大家らしい気遣いなのだろう。おかげでリラックスして伝えられそうだ。



「――信じられないかもしれないけど、俺、実は生まれ変わったんだ」



「えっ」



 突拍子もない言葉に口を半開きにする大家。


「……変な話だよね。信じてくれなくてもいいから聞いて欲しい。生まれ変わったというより前世の記憶が残ってるって言った方が分かりやすいかな」



 こんな事、信じろという方が無理な話。それも小学生が言うことだ。


「……生まれ変わったねぇ。前世から外見だけ変わったって解釈でいいのかしら?」


「え? う、うん……まぁ簡単に言えばそうだけど」



 意外な反応に大した返答ができなかった。理解が早いというか、『疑う』という言葉はこの人の辞書に存在しないのだろうか。



「大家さん……おかしいと思わないの? 疑ったりしないの?」



 疑問をそのままぶつけてみる。



「ビックリはしたけど、それが真実なんでしょ? 疑うも何もないわよ。むしろ今までの皐月ちゃんが大人っぽすぎて、そっちの方がおかしいと思ってたわ」



 晴れ晴れとした朗笑をする大家。


 ただの嘘かも知れないのに、子供のイタズラかもしれないのに、この人は信じてくれた。


 ――こんなことならもっと早く打ち明けていれば、もっと力になってくれていただろう。



「ありがとう大家さん、本当に」



「ちょっとどうしたのよ皐月ちゃん! 大袈裟ね、アタシは話を聞いただけよ。いや皐月ちゃんじゃなかったわね本当の名前は。しかもそれだけじゃないんでしょ?」



 大家さんには全部見透かされてるようだ。もしかして何も言わなかったとしても、いずれバレてしまってたんじゃないかとさえ思う。


「うん。俺は本当は池上優也っていうんだ」


「……! 優也君ってもしかしてミキティの亡くなった彼氏さん?」


 確か美樹が十年前この公園で大家に打ち明けていたな。


 優也の存在はまだ覚えていたらしい。

 

 なんだか少し照れくさくなってきたが咳払いをして話を続ける。


「まぁ知ってると思うけど俺は一度死んでるんだ。トラックに轢かれてね」


「あらご愁傷様。死因まではミキティには聞いてなかったわ。でも一体どうやって生まれ変わったの?」


 なんかここまでとんとん拍子で会話が成り立つとは思わなかった。大家さんも少なからず驚きの連続だろうに、落ち着いて話を聞いてくれるからだろう。



「あぁ。梯子で天国に上ったらそこに花子がいて、なんかあいつ神らしくてなんか生まれ返らせてくれた」


「なんか花子のくだりだけ適当ね……。花子の事は知っていたけど、まさか優也君を生まれ変わらせた張本人だったとはね」


「どこに生まれ変わるかはランダムらしいんだけど、偶然美樹の子として生まれちゃってさ。プロポーズしたかったのに運が良いのか悪いのか」


「へぇすごいわ。奇跡って本当にあるのね。すごいじゃない! じゃあ早くプロポーズしないと……あらごめんなさい」


 大家はハッとして口を手で押さえる。大家の言うことは間違ってはいない。すべては俺がダラダラ無駄な時間を過ごしたのが悪い。


「そうだよ大家さん。もう美樹には記憶がないんだよ。まぁ記憶があっても俺のちっぽけな勇気じゃプロポーズなんてできなかっただろうけど」


 こんな情けないこを言っても、また大家さんは俺を励ましてくれるのだろうか。そんな事を考えていたら大家さん意外な言葉を口にした。



「そうか……なんかおとぎ話みたいな話ね!」


「え?」


 大家は厚い胸板に手を当てる。


「大家嬉しいわ! この空の上には天国があるって小さい頃から信じてたのよね! 人はいつか死ぬ。この世界から消えてなくなる。それなのに自分のいない世界が地球が無くなっても、宇宙が無くなっても、これからも無限に続いていく。そんなことを思う度に子どもの頃は泣きじゃくって大暴れしてたわ。死にたくない死にたくない! ってね」


 それは確かに俺も考えたことはある。前世の幼少時代に。


「死ぬのが怖くて泣きじゃくってたアタシに、私のママはよく言ってくれたわ。『人はいつか死ぬのは当たり前。でもこの空の上には天国という楽しい国があって、死んだらそこに『お引っ越し』するだけなのよ。だからまたいつでもママと会えるわ』ってね。私のママが死ぬ間際に言った言葉よ」


「……大家さんのお母さんって」


「ええ。私がまだ六つの時にね。でもアナタの言った言葉に救われたわ。本当に天国があったなんてね。私のママも幸せに逝ったでしょうね。今頃は記憶を無くして新しい人生を楽しんでるのかな」



 大家は目を細め遠くを見つめた。視線の遙か遠くに母親がいるかのように。


 そして視線を俺に戻し大家は話を切り出した。



「皐月ちゃん、いや優也君。あなたには記憶がある。なんの為にあるか分かるわよね」



 俺の記憶がある意味。大家さんは告白するためと言いたいのだろう。でも……。



「ダメなんだよ」


「……なにがよ」


 大家の表情は険しくなり声のトーンが下がる。いつの間にか公園で遊んでいた子ども達がいなくなっている。


「だから俺の記憶があったって、美樹の記憶がないのなら意味がないじゃないか」


「意味がないってどういうことよ」


 俺の声は気持ちとは反比例するように次第に大きくなっていく。大家も今までに見たことのないような感情を抑えるような様子である。



「美樹の記憶がないなら俺の記憶のある意味もないんだよ! 今更告白したって『あんた誰? 患者さんの子供?』で終わるに決まってるんだよ! もう遅すぎたんだよ。告白すればいいってもんじゃない! 綺麗事だけじゃダメなんだよ! 引き際も大事なんだよ。

だから……!」


「大家パンチ!」


「ぐふぉ!」


 鈍い音共に大家の鉄拳が頬に入り、俺はブランコから転げ落ちる。抜けそうだった乳歯が一本地面に落ちた。一瞬、目の前に火花が散り状況を判断するまで間があった。


「子どもに手は挙げたくなかったけど、中身は良い大人だもの。セーフよね。ごめんね優也君。あなたはもう答えが分かっているはず。だけど、背中をあともう一押ししてほしいだけなのよね」



 大家さんの「背中を押す」は顔面を殴ることなのだろうか。口の中がじんわりと熱くなり、血の味が広がる。



「そんなこと言われても……」


 すると大家は「では失礼して」と呟き俺の両肩を掴んで叫ぶ。



「だからって逃げるのかよ。じゃあお前は何の為に生まれ変わったんだ? 何が引き際が大事だ! まだ何にも押しちゃいないないだろう! まだ優也君の記憶がないと決まった訳じゃないだろう。もし記憶が微塵と無かろうとも、あなたと美樹ちゃんは一蓮托生でしょう! 誠心誠意告白して記憶なんか思い出させてやれよ……!」



 大家は口調が変わるほどに強く訴えかけた。両肩には手形が残りそうなほど力が込められていたが、肩の痛みよりも言葉による心の痛みの方が効いた。



 ――だが俺はこの言葉を待っていた。大家の言うとおりあと一歩踏み出せるような、そんなきっかけが欲しかっただけなのだ。




「ごめんね優也君。封印してたもう一人の大家が出ちゃったわ。あなたは運良く生まれ変わることができて、しかもミキティのそばに生まれ変わることができた。こんな大奇跡を起こしたのよ? あなたは普通乗り越えられないことを乗り越えてきた。それに比べたら低い壁じゃない。それくらいの奇跡、また起こしてみなさいよ」



 清々しい気持ちだ。大家のパンチで迷いが吹っ飛んだ。大家さんの言うとおり。俺は何を恐れていたんだろうか。


 美樹のもとに記憶を残しつつ生まれてくる可能性と、


 美樹が記憶を取り戻す可能性。


 どちらも可能性は限りなく低いが、数字で表せばどちらが高いか一目瞭然だろう。


「大家さん……俺……」


 すると大家は微笑み、俺の口に人差し指を置く。ごめんこれは気持ち悪いわ。



「言わなくてもいいわ。その分しっかり行動で見せてもらうわ。それに一つ朗報があるわ」


「朗報?」


「さっき丁度ミキティが目覚めたとき、また記憶を失っているように見えたけど、花子の羽に驚かなかったり、私の呼ぶあだ名に突っ込まなかったり……もしかしたら完全に全てを忘れたわけではないみたいだったわ」



 確かに……! 一度目の記憶喪失は花子と大家の記憶が完全になくなっているようだった。二度目はそれに加え俺の存在までも失われていた。でも二度目は羽の生えた花子の存在やオカマの大家の存在を根掘り葉掘り聞いてくることはなかった。



 もしかしたら少し病気が改善されているのではないだろうか。


「後ね、今までミキティとたまに家でお酒を飲みながら話すことがあったの。あっ心配しなくて良いのよ。アタシ女に興味ないから」


 別に嫉妬なんかしてないわ。ある意味大家さんが安全なのは知ってる。


「うん。それで?」


 大家はズボンの土埃を払い立ち上がる。


「あの子ったら酔ったら優也君の話ばっかするのよ。ミキティは下戸だからワイン一杯も飲まない内にベロベロに酔っちゃってね。何度も何度も同じ話聞かされてね。聞かされる方はたまったもんじゃないわ」


 美樹がそんな事を……。そういえば俺は美樹が酒を飲んでるところなんて見たことがなかった。



「弱いんだからやめとけって言ってるのにね。いつか皐月ちゃんが二十歳になった時に一緒に酒を飲むために練習するんだってね。その時に皐月の父さんの事をゆっくり話してやるんだって意気揚々でね」


 ……いつまで美樹は俺の事を気にしてるんだろうか。そんな一途なあいつを十年も待たせてしまった。


「ミキティはああ見えて『昔っから』寂しがり屋なのよ」


 大家の懐かしい冗談が今ではしっくりとしている。


 俺は美樹の事、何も知らなかったんだな。尚更、すぐに病院に戻りたくなった。


「大家さんありがとう。俺行ってくるよ」


 迷いは雲の彼方に消し飛んだ。記憶を失っていようとも、何度だって美樹にプロポーズしてやる。記憶を取り戻すまで何度でも。



 土埃で汚れた服を払い、公園を後にしようとすると、大家が叫ぶ。


「一度だけ聞くわ! あなたの名前は?」


「優也! 池上優也だ!」


「行って良し!」


 俺は親指を立ててその場を去る。



「……皐月ちゃんさようなら。ミキティ……子どもの成長は早いわね」



 こういう時に眺める茜色の空は美しければ美しいほど心寂しい光となる。



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