二 彼女が母親で母親が彼女で
二 彼女が母親で母親が彼女で
相変わらず真っ白で変わり映えのない景色を死んだ魚のような目で下る優也。
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
一時間くらいかもしれないし半日くらいかもしれない。時間という概念すら怪しいこの空間で、変化がない行動をするということは、それだけ精神的に疲弊するのだ。
一生このままなのではないかと再び恐怖してしまうほどであった。
梯子を下りている間に色んなことが頭を駆け巡った。
もし美樹に出会う事ができなかったらだとか。
美樹に会えても赤ん坊からのスタートなのだから、歳の差は二十近くになってしまうことだとか。
そもそも前例がない試みだと花子は言っていたが、成功するのだろうかとか。
細かいことを考えても仕方ないとは思うのだが、しばらくすると再び同じことを考え込んでしまう自分がいた。
ようやく梯子の終わりを迎え地に足を着くことができ安堵する。
しかしその刹那、目の前が暗闇と化す。天界に向かう時も経験したが、暗闇はやはり慣れない。すると、今度は体の自由が利かなくなっていく。これは初めての感覚だ。
「な、なんだ……?」
暗くて見えないがまるで上下左右に壁があり迫ってきているような感覚。
壁はとうとう身体に密着するほど、狭まってきていて、
抵抗もできずに体が段々折り畳まれていく。膝を抱えたまま身動きが取れない。狭くて苦しい。
ここで潰されて俺はまた死ぬのか? ここで死んだらあのアホ神に「また潰れて死んだんですか。スーパーマリオじゃないんだから」と馬鹿にされるに決まってる。
――それにまたあの梯子を上るのだけは嫌だっ!
その一心でひたすらもがいた。すると頭上に目も明けれないほど眩しい光が差す。
「頑張ってください! 頭が出てきましたよ!」
なんだか女性の肉声が聞こえる。目を開けれないが何だか騒がしい。だが、大体の状況判断はできた。
恐らく今、俺は出産されるところなのだろう。どおりで体がヌメヌメしてるし目も開けられない訳だ。
――転生は無事成功したのだ。
それに運の良いことに日本語が聞こえる。生まれてくる国はランダムと言っていたが、かなり良い滑り出しだ。そしてかなり痛むのか俺の母親となる人の声も聞こえる。
「痛いぃ!! まるで子宮に直接リキラリアットを食らったみたいに痛い!」
プロレス好きなんですね。美樹もプロレスファンだったなぁ。って本当に痛がってるかこれ?
すると俺の体は暗闇からズルッと抜け出した。優也二世誕生である。
「奥さんお疲れさまでした! 元気な男の子ですよ!」
看護師は俺の小さい体はタオルで包まれ、母親の横に寝かされてるようだ。そうか女の子に生まれる可能性もあったわけだ。つくづくツイてるな二つの意味で。
「元気か……良かったわ。元気があれば何でもできるものね」
母親の表情は見えないが、頬を撫でられる感触がある。温かい愛情を感じる。ちょっと変なところもあるけど、悪い人ではなさそうだ。
一目だけでも母親の顔を見てみたい。本来赤ん坊はすぐに目を開けることができないが、優也は重たい瞼を一瞬だけ開けることができた。
そこに映ったのは――
―― すっかり母親の顔になった「美樹」の顔であった。
――俺が生まれ一週間経ち、母子共に退院の日がやってきた。心の整理をするには一週間は短すぎた。
未だに混乱していて事実を受け入れきれていない。
俺は美樹にプロポーズするため生まれ変わった。
なのに、その美樹が自分の母親になってしまうだなんて、すぐに受け入れられるはずがない。
これはとんでもない幸運と取るべきか、恐ろしいほど不運と取るべきか……。
「さあ皐月! 家に帰るわよ!」
その答えを出せぬ内に美樹が迎えに来た。
皐月、俺の新しい名だ。
五月に生まれたことから、美樹が名付けたみたいだ。
十月に生まれてたら神無月になっていたらしい。五月でよかった。
それは良いとして、九か月前と比べ、美樹は表情こそ大人っぽい所を時折見せるようになったが、あまり変わりは見られない。
赤みがかった黒髪は前より少し短くなっただろうか。それくらいで変化はさほど感じない。
変わってないことに安心はできたが、花子が言った通り、時は本当に九か月経っていた。
「皐月。私は約十か月前に妊娠が発覚したのだけど、彼に言えないまま、彼は事故で亡くなったの。でも私は一人で生きていくことを決意したわ。この胸に誓って……」
お、おう……。都合の良いことに急に美樹が一人で過去を語りだした。事情を知れたのは良かったけど、生後間もない赤ん坊に打ち明けることじゃないだろ。
というか、今の俺って美樹と俺の子なのか……。
なんか嬉しいけど複雑だ。俺の息子が俺って。
ということは俺のせいで美樹はシングルマザーなんだ。一人きりで子どもを産むなんて心細かったろう。
俺は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。
「でもね。今こうしてあなたを抱っこして二人で我が家に帰れて、私は幸せよっ」
美樹は気丈な人だ。でもやはり支えとなる人は必要だろう。
今、俺は何もできないけど、その内きっと。
病院の医師たちに挨拶をし、俺はベビーカーに乗せられ、病院を出る。
「うーん! 良い天気ね!」
今は六月上旬。梅雨入りする前の風にそよぐ木々の緑も眩しい季節である。
美樹は大きく伸びをして、気持ちよさそうに空を見上げる。
俺にとっても美樹にとっても新しい環境での生活が始まるのだ。
病院から一五分くらい歩いただろうか。ベビーカーに乗るのは恥ずかしいけど楽なもんだ。
「さあ我が家に着いたわよ。ここでこれから一緒に暮らすのよ」
正直、お世辞でも綺麗とは言えないアパートだ。特別大きい訳でもなく地味である。シングルマザーだと生活も楽じゃないだろうし贅沢は言えないが。
よく考えたら、美樹との同棲の始まりじゃいか。寝る時も風呂に入る時も一緒か。
ゲヘヘヘ。涎が止まらないぜ。
「大丈夫? あんた涎凄いわよ」
手ぬぐいで口元を拭ってくれる美樹。新鮮だ。赤ん坊だから何しても許されるぜ!
本来の俺が涎なんか垂らしてたらぶん殴ってくるだろうに。
美樹の部屋は二階のようだが、当然エレベーターなんか付いてない。ベビーカーを抱えて登るのは大変だろう。世話をかけるのう……。
「ふう。よし皐月しっかり捕まってるのよ」
美樹がベビーカーを抱えようとしたときであった。
――――――目の前に「スキンヘッドの男性」が立っていた。
鼻の下に短いドジョウ髭を生やし、ピチピチの白いタンクトップを着ている。
そして何より……デカい。
見たところ身長は二メートル近くあり、筋肉の層でつみあがった彼の五体はまるで山の連なり。アンデス山脈かよ。
恐っ! 何の用だろうか。変質者? 強盗? 美樹を守るにもこの体では立ち上がることもできない。
「あっ大家さんじゃない。久しぶり」
美樹はの言葉で呆気に取られてしまった。大家さん?
つまりこのアパートの管理人の人なのか。
大家と呼ばれた筋肉の塊は口に手を当て体をくねらせる。
「あらやだミキティ! 帰るなら一言アタシに言いなさいよ! 水臭いじゃない! ウォータースメルじゃない!」
あっ……。一瞬でこの人がどんな人か分かった。コテコテに典型的なオカマだ。
美樹の呆れた表情から面倒臭い性格をしているのだろう。
「別に私達そこまで教える仲じゃないでしょ。後、その「ミキティ」っていうアダ名やめてくれない……?」
「良いじゃないミキティ。可愛い名前でしょう。ってあら! その子はミキティの子かしら? 可愛い子ねえ! 男の子かしら?」
このオカマめっちゃ顔近いわ。このオカマ距離感間違えてるよ。鼻息荒いし。
「ふふーん。でしょでしょ。私に似て可愛いでしょ! 男の子で皐月っていうの」
美樹は珍しく満更でもない様子。可愛いのはお前だお前。
それより舐めるように見てくる大家を引きはがしてくれ。
「よっしゃ男じゃあ!」
なぜか全力のガッツポーズを取る大家。えっ変質者じゃないと思ったけどやっぱり変質者なの?
「なんで男で喜ぶのよ。ちなみに大家さんには皐月に指一本触れさせないからね」
すかさず釘を刺す美樹。
「さりげなくヒドいこと言ったわよね! アタシ泣くわよ。女泣かしたら後悔するわよ!」
「いやあなたオッサンじゃん……オカマの涙なんかみたくないから気持ち悪いし」
「オカマじゃなくてニューハーフよ! ニューハーフ! もう昔っから酷い子ねぇ!」
「昔って、私が越してきたのは半年前だから。私の事知り尽くした昔からの仲みたいな言い方やめてください」
この人手強いな。それより早く帰ってくれよ。仮にも俺たち退院したばっかりだぞ。
この後、大家の協力でベビーカーを二階に上げることができた。ベビーカーを肩で担ぐ人初めて見たよ。
「ありがと大家さん助かったわそれじゃ」
美樹が棒読みで早口な所からもう部屋に入りたい気持ちが凄い伝わってくる。仮にも親切にしてもらったんだけどな。
「ねぇミキティ。皐月ちゃん抱いてもいい? 抱いてもいい!?」
「抱いてもってどうゆう意味よ……」
「やだ違うわよ。抱っこって意味よ。もうミキティは昔からドスケベミキティなんだからぁ」
「大家さんが言うと違う意味に聞こえるのよ! それに何度も言うけど馴染みみたいな親近感出すのやめてよ。半年の付き合いでしょうが私達。はよ帰れ」
「うふふ……なかなか言うわね……でもアナタにキツく言われるの嫌じゃないわよ」
「だからキモイわ。変態ドM筋肉ハゲ男」
「男は余計よ! 男は!」
そこなのかよ。このままでは埒があかない。
「ねぇ抱くくらい良いじゃない。減るもんじゃあるまいし。そこまで拒絶されると、大家悲しみブルーよ」
「大家さんの頼み方が駄目ね。というかその筋肉が生理的に駄目」
なんか可哀相になってきた。
すると、大家は急に真剣な眼差しになり、静かに微笑んだ。
「ミキティよく聞いて。「愛」という言葉から「心」という字を抜くと「受」という字になるわね?」
「う、うん。……それが何よ」
「うん」
「何でもないんかいっ! ちょっとは話すこと考えてから言いなさいよ! はあ……仕方ないわね。三秒だけ抱かせてあげるわよ。皐月に変なことしたら許さないからね」
大家のしつこさに諦念したのか哀憐の情を抱いたのか、渋々美樹は俺を抱え、大家に差し出す。
「わーい! ミキティありがとう!」
大家は着ていたタンクトップを勢いよく脱ぐ。
「ってやっぱり「抱く」ってそっちの意味かーい!」
――三秒どころか、小一時間ほど俺は大家に滅茶苦茶にされた。体中にキスマークができたのは言うまでもない。
ようやく大家から解放され、二人に休息の時間が訪れる。
部屋は二〇二号室。リビングにプラス一部屋あるだけのシンプルな構造であるが、親子二人で過ごすには十分である。
壁一面には歴代のプロレスラーのポスターやカレンダーが張り尽くしてある。
とても年頃の女の子の部屋には見えないくらい暑苦しい。
「はぁーやっぱり我が家が一番落ち着くわねー」
俺はここが落ち着く部屋に感じるまで時間がかかりそうだ。
美樹はポスターを眺めながら、熱いお茶を啜る。美樹も先ほどまで入院してたのだから、疲れていて同然だ。
今思えば、美樹とこんなに二人きりでゆっくりするなんて久しぶりだ。
俺は一度死んでるのに、こんなことができるなんて幸せだ。今すぐ俺が優也だと伝えるべきなのだろうか。
どちらにせよ今は喋れもせず、這いずる力すらない。彼女を守るどころか守られる立場でプロポーズしても格好がつかない。
「皐月ーおいでー」
美樹は俺を引き寄せ抱える。ちょ! ダメだって! 胸が当た……らないだと?
そうだ美樹の胸は地平線のように緩やかだったのをすっかり忘れていた。
「あっそうだ! おっぱいあげないとね!」
えっおっぱい!? ウヒョォォォォォォォォ! 生まれ変わってよかった!
あっ……でもちっぱいだしなぁ。
しかし、たかが貧乳されど貧乳という言葉も古くからあるし……。
『胸が揉めないなら乳首を吸えばいいじゃない』とマリーアントワネットも言ってたし。多分。
でも俺がおっぱいを吸うなんて男としてのプライドがゆるさねぇよ! でも母乳には乳児が必要とする栄養素が全て含まれており、細菌などを含まず非常に衛生的で母乳に含まれる免疫体の効果で乳児の疾病や死亡率が低くなり、少なくとも生後五、六ヶ月までの乳児にとって唯一の栄養源は母乳。つまりそれを断つということは死を自ら選ぶ事と等しい。そのため自我がほぼない乳児も本能的に母乳を吸う事だけは自ずとできるのだ。母乳のメリットは栄養面だけでない。母子間の授乳という接触が情緒的発達に良い影響を与え、母と子の信頼関係を結び、道徳的教育にも繋がる。そしてコストパフォーマンスも良く経済的であるためデメリットは一切ないと断言してもいい。
――つまり俺はおっぱいを飲むしか選択肢はないのだ。
別に必死になっている訳ではない。本当に。
おっぱいを飲む方が自然で合理的。逆に母乳を飲むことを拒むということは栄養補給以外の邪な感情があると公言しているようなもの。
結論、母乳を飲むことは恥ずかしいことではなく、逆に飲まない方が変態的である。
「なんかこの子飲み方気持ち悪いわね」
し、仕方なく飲んだんじゃないからね! 飲みたくて飲んだんだから!
「ふふ。なんかこの子仕草がおっさんみたい……」
そんな微笑ましい言い方するセリフじゃないが、強ち間違いじゃないです。
それにしても赤ん坊の体は不便だ。美樹を目の前にして、何もできない生殺し状態。トイレに行くことも出来ず、この歳でオムツを履かせられるこの敗北感。
あっ噂をすれば便意が……。先ほど母乳を一リットル近く飲んだせいか腹が悲鳴を上げている。
オムツを履いてるとはいえ美樹の目の前で「大」を漏らすことなど言語道断。
そんなことをしたら二度と見つめあうと素直にお喋りできない弱気な僕。
しかし津波のような便意に非力な赤ん坊の括約筋では役不足であった。
なんの抵抗もできぬまま、醜態を晒すことになった。幸か不幸か美樹はまだ気づかずに俺を抱えたままである。
あの……離した方が良いと思います。ファーストインパクト起こしちゃったんで。
仕方ない……お尻が気持ち悪いし、このまま一生隠し通し墓まで持っていくのは無理があるし白状するしかない。しかし言語も話せない俺がどうやって美樹に知らせることができようか。
……そうだ。泣けばいいのだ。
乳児は言葉を話せない代わりに危険信号などを泣くことで母親に察知してもらうのだ。
赤ん坊になってから嘘泣きというものを何度かやってきたが、未だになれない。
「お、おーいおいおい」
「いつも思うけど、ほんと泣き上戸のおっさんみたいな泣き方ね。」
……泣き方にはもう少し練習が必要そうだ。
少しの間が空いた後、美樹は俺の状況を察したのか新しいオムツを持ってくる。そうそう通じてくれて嬉しい。
「あー出ちゃったのね。六月号」
月刊少年誌みたいな言い方やめてくれよ。そう言われても毎日発刊するからな?
手際よく事後処理をしてくれた美樹。もう俺は恥ずかしくてずっと目を塞ぐことしかできなかった。
「今日は色々と疲れたわね皐月。ちょっと横になろっか」
俺は布団の上に寝かされ、美樹も疲れが溜まっていたのか、大きく溜息を吐き。すぐ隣に横になる。
ちょ! 顔が近い! こうしてまじまじと見るとやはり美樹は整った顔立ちをしている。
他の男が放っておかないだろう。
同年代は華の大学生でサークルに入ったり、飲み会に行ったり、好きな学問を勉強したりするもの。
こうして一人で部屋の中で子育てして、孤独ではないだろうか。
――すると彼女の左手の薬指には銀色に光るリングが見えた。この指輪には見覚えがあった。
「……ん? これが気になるの? これはね私の中で二番目に大切な物よ。もちろん一番はあなただけどね」
これは……俺が約一年前、美樹に渡すはずだった指輪だ。プロポーズと同時に渡そうとして、ポケットに入れたまま俺は死んだ。なぜ美樹の手に……。
「これは貴方のパパがくれたマリッジリングよ。正確には直接貰った訳じゃなくて、ポケットから飛び出てたのを拾ったんだけどね。馬鹿よね普通先にエンゲージリングを渡して、結婚式でマリッジリングを渡すのが普通なのに間違えたのかしら」
そうだったのか……ちゃんと調べればよかった。
「パパが……優也が守ってくれたのね。このリングを」
いやいや普通身に着けてたものが身代わりになるもんじゃないの? 俺が砕けてリングが無事っておかしいだろ。
でも良かった。苦労して買ったリングがちゃんと美樹の手に渡っていた。そして今も大事に付けてくれている。
「でもあの時……ちゃんと直接この薬指に嵌めて欲しかったな。はは」
美樹は眉を八の字にして苦笑いをしながら俺の頭を撫でる。
「本当にこの指輪、私が貰っちゃって良かったのかな」
……駄目だこんなんじゃ。こんなのプロポーズとは言えない。
指輪を嵌めてはいるものの、ちゃんと俺の口から伝えてないから、不安が拭い切れてないようだった。
本当にこれは私に対しての指輪だったのかと。普段は強気な美樹らしくもない小さな女の子の姿であった。
俺が死んだ日、美樹はすでに妊娠していて俺にそれを伝えようとしてたのかもしれない。もしかしたらあの日足取りが重かったのかもしれない。
改めて決心した。彼女を守っていこうと。俺は座ってない首を深く頷かせた。
「ふふ。慰めてくれてるつもり? そういうところ皐月はパパに似てるかもね」
美樹の表情は心なしか穏やかになり、次第に二人は眠りに落ちていた。