最終章 ウエディングドレスを脱がさないで
最終章 ウエディングドレスを脱がさないで
再び病院に辿り着き、今度は院内を歩いて美樹の病室に向かう。とんだ寄り道をしたものだ。病室に着き、扉に手をかけようとしたところ中から騒がしい声が聞こえる。
「美樹サン! いや女王サマ! ワタシをほんとに忘れちゃったのかい?」
この声は俺の同級生アキオの父ロバートの声だ。ドMなのは相変わらずだ。
「いや知らないわよ。なにこいつ怖っ!」
美樹もドン引きの様子である。
「ウーン。でもこれはこれで新しいプレイみたいで良いデス! 「忘却プレイ」ってのも悪くないデス……!」
「あの……。帰ってくれる?」
「女王サマの命令なら喜んで! ブヒィィ!」
扉からロバートが出てきて四足歩行で帰って行った。なんであいつ半裸に亀甲縛りだったんだ。
ロバートが去ったので安心して病室に入ると、ベッドに座る美樹と花子がいた。
「今度は皐月さんでしたか。おかえりなさい」
一難去った後で、少し顔に疲れが見える花子であった。
「あっこんにちわ。皐月君っていうんだよね? 花子ちゃんから聞いてるわ。よろしくね」
他人行儀な美樹の言葉に傷ついている場合じゃない。
俺は美樹の薬指を横目で見る。記憶は失っても指輪は付けている。身に覚えのない指輪なんて気味が悪くて普通付けないだろう。もしかしたら大家さんが言っていたように完全に記憶が無いわけじゃなさそうだ。
心の片隅に残っているはずだ。希望が。
「美樹……。話がある」
「ちょっ! 皐月さん! ちょっと来て下さい!」
なんだよ水を差すなよ。せっかくプロポーズしようと言いかけたのに。
花子は病室の前の廊下まで俺の手を引く。
「優也さん! あなたまさかプロポーズしようとしてました?」
「なんだよまさかって。今度は告白するなってか?」
花子は背伸びして目線を合わせる。いつのまにか身長抜かしてたんだな。
「あなたには『むーど』ってやつはないんですか! プロポーズっていうのは女性にとって人生で一度しかない夢のような瞬間なんですよ! 適当に済ませちゃダメです!」
花子は指差し、お節介を焼く。なんかコイツも成長してんだな。アホっぽい見た目は変わんないけど。
「優也さん。私が心読めるの忘れてます?」
「うん。で、俺にどうしろと? ミュージカルみたいな演出でもした方がいいのか?」
「それも悪くないですが……まぁ良いです。優也さんの好きなようにやって下さい」
なにがしたいんだコイツ。
「花子。まさかお前が緊張してるんじゃないか?」
「そそそそんな訳ないでしょう! あなたがビビってるから喝入れてやったんですよっ」
花子は羽をバタバタさせながら、顔を真っ赤にする。
「大丈夫。お前がくれた命だからな。無駄にしないよ。危うくするところだったけど」
「全くです。でもなぜか吹っ切れたようですね」
「ああ。歯が抜けるほどにね」
「……! ああ大家さんに全てを伝えたんですね。まっ私はここで漫画でも読みながら待ってますから、どうぞ後は二人でご自由に! 終わったら呼んで下さい」
軽いノリだな。花子なりの気遣いなのか、俺の背中を押す。
俺は背中を押されてばかりだな。
「いや花子も来てくれ。見届けてほしいんだ。お前がいなきゃもう一度プロポーズなんて出来なかったんだからな」
「なんか今日の優也さんセリフがいちいちむず痒いですね。まあプロポーズ自体がクッサい行為ですからね」
「今更プロポーズ否定するなよ……。こういう思考にならないと恥ずかしくてやってられないんだよ」
空気は締まらないが、緊張は和らいだ。
――十年前の続きを今。
病室のドアを再び開けると、相変わらずプロレス雑誌を読んでニヤけている美樹の姿があった。なんで記憶失ってもプロレス熱は無くならないのだろうか。プロレス雑誌をエロ本を初めて見る小学生のように見るのは美樹くらいだろう。
この姿だけ見るといつもの美樹なのだが……。
「あれ皐月君……だっけ。よく来るわね」
やはり何度来ようと、美樹の記憶は戻っていない。
「あの……話があるんだ」
花子は黙って後ろから見守っている。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃったの?」
美樹は雑誌を閉じ枕元に置く。「お母さんとはぐれた」か。確かに強ち間違ってないのが皮肉なものである。
「いやそうじゃないんだけど」
「そっか……私もね、なんか大事な人達とはぐれてしまった。そんな気がするんだ。でも思い出せずにいてね。変なこと言ってごめんね」
記憶を失っている自覚は少なからずあるようだ。なら話は早い。
「優也……。池上優也って名前を聞いても何も思い出せない?」
「ゆ、優也……? それが君の名前なの?」
優也という名に少し反応したような気がした。それならば完全に思い出させるまでだ。長丁場になる予感がしたので俺はベッド横の椅子に座る。
「うん俺は優也って言うんだ。今は皐月って呼ばれてるけど」
「えっ? そ、そうなの」
そりゃあ戸惑うだろう。見知らぬ子どもがこんなことを言うなんて。
「そしてあなたのことを美樹、またはお母さんって呼んでたよ」
「お、おう……」
おかしい子どもが来たと思ってるかもしれない。美樹は困惑してる表情で苦笑いをする。
「これから言うことは全部、無根拠で非現実な事なんだけど、聞いて欲しい。すぐに信じろとは言わないけど、聞いて欲しいんだ」
「……分かった。信じるかはさておき話してみて。なんか訳ありみたいだし」
美樹は半信半疑な様子だが、体をこちらに向ける。
「ありがとう。俺は優也っていうんだ。ごく一般的な家庭に生まれ、普通に高校を卒業して、普通にプロポーズして一般的な家庭を持つつもりだった。でも俺は大きな失敗をしたんだ」
「失敗?」
「高校卒業後、「彼女」にプロポーズする前にトラックに跳ねられて死んだ。それが俺の失敗なんだ」
「ちょっと待って。脳内で突っ込みが追いつかないわ」
そらそうだ。ここまで無解説だからな。ただ今は最後まで聞いて欲しい。
「質問は最後に受けつけるよ。今は聞くんだ」
「アンタはむかつく予備校講師か。まあ言ってみなさいよ」
そう言いつつも見知らぬ小学生の戯言に付き合ってくれている。手術後の疲れもあるだろうに。
「死んだ俺は、文字通り「昇天」した。天国に梯子で昇っていったんだ」
なんで梯子なんだよ。と突っ込みたそうな美樹だが、閉口している。俺だって今も梯子はおかしいと思ってるし。
「天国は本当に存在して、俺はそこで「自称神」に出会った。俺だって神なんか信じる人間じゃなかったが、実物が目の前に現れちゃ信じるしかない。その神ってのがそこにいる花子なんだ」
「花子……ちゃんが?」
花子は壁に寄りかかり、腕を組みは口角を上げている。イラっとするが話の流れは変えたくない。
「その神は俺の記憶を消さずに生まれ変わらせてくれた。再び彼女に出会いプロポーズするために。だから今ここに俺がいるのはその神のおかげなんだ」
「照れますね」
黙れ花子。お前は喋んな。
「そして生まれ変わった先が、その彼女の子どもだったんだ。――そう美樹の子どもとして俺は生まれ変わったんんだ。「皐月」という名前を美樹から貰って」
「……」
美樹の瞳が大きく開く。この美樹の沈黙が何を意味しているのかは分からない。彼女の心中はまさに「神のみぞ知る」である。
すると、病室の扉が唐突に開き大家が入ってくる。
「ミキティ覚えてる? 私のアパートにあなたと皐月ちゃんがやってきて、この生活が始まったのよね。一緒に皐月ちゃんのおしめを替えたり、料理を勉強したりしたわね。まぁ最初はあなたには目潰しされたり手足折られたりされてばかりだったけどね。昔っからミキティは暴力的な女だったものね」
それに続き花子がこちらに歩み寄ってくる。
「それでその後来たのが私です。美樹さんと出会ったのは沖縄ですね。皐月さんの入園式や買い物とかたくさん一緒に行きました。あなたの作ってくれた料理は本当においしかった。あの味は忘れられません。……まぁ後あなたには関節技掛けられたり羽もがれたりもしました……。あの痛みも忘れられないですけどね」
なんだこの流れ……。ミュージカルじゃないんだから。だが美樹の様子は少しずつ変化が出てきていた。割とこのミュージカルが効いているのか、頭を抱えている。
俺は生まれ変わって美樹にさえ告白できればそれで良かった。だが今は大事な家族がいる。血が繋がっていなくても、変な見た目でも大切な家族が。それをいつしか壊したくないと思うようになっていた。いつだか自分が「皐月」なのか「優也」なのか分らなくなる時さえあった。それが告白の決意を鈍らせた。
「そして俺は美樹に皐月として育てられて、十年も経った。俺が知らないたくさんの美樹を身近で見ることで更に俺は美樹に惹かれていった。十年経ってようやく決心が出来た」
「うん……」
美樹はようやく小さく相槌を打つ。俯いていて表情は見えない。頭に巻いた包帯が取れかけている。
「その指にはめられている指輪が証拠だ。もう一度だけ。もう一度だけチャンスが欲しいんだ」
その美樹の細い薬指に、指輪を付けさせて欲しい。十年前逃した事をもう一度だけ。
「……」
美樹は押し黙る。服の裾を握りしめ、ただ俯く。俺達は美樹の顔が上がるのをひたすら待ち望む。
十秒、二十秒と沈黙が続く。時計の針が動く度に、自信が不安に変わっていく。
この沈黙を破ったのは意外にも花子だった。
「美樹さん。……もういいでしょう」
花子の言葉に美樹は肩をピクリと動かす。だが顔を上げることはなかった。追い打ちをかけるように花子は続ける。
「美樹さん。本当はもう思い出してるんでしょう? ……全部」
……! それは本当なのか? 花子には美樹の心の内が見えているのだろうか。
「ミキティ……大丈夫。大丈夫よ……」
「違う……。私は……そんな」
美樹は俯きながら耳を塞ぐ。様子がおかしい。
「……私はそんな良い人間じゃないの。そんな風に想ってもらえるほど大層な人間じゃない……」
美樹の震えている手に滴が落ちる。
「違うことなんかないです。責任を感じてるんですね。大丈夫です。少なくとも美樹さんを責める人はここにはいませんよ」
「そうよミキティ。試しに顔を上げてみなさい」
美樹は不安な面持ちで顔をゆっくりと上げる。
――まるで門限を過ぎて怖じけつつ家のドアを開ける子どものような表情であった。
その子どもはこう願うのだ。
【どうか満面の笑みの家族が出迎えてくれますように】と。
「美樹さん! 大丈夫ですよ。美樹さんおかえりなさい」
「おかえりなさいミキティ!」
ようやく戻ってこれたな。美樹も俺も。
「おかえり……。美樹」
美樹は涙と笑みを溢す。
「――みんな。ただいま!」
室内は喜悦と歓喜に満ちた。その言葉に花子と大家は手を取り合い小躍りする。
美樹は照れくさそうにチラッと俺に目を向ける。俺が目を合わせようとすると、慌てて目を背けた。枕を抱きかかえるその姿は何よりも愛らしかった。
パーティといきたいところだが、その前にやることがある。引っ張りに引っ張った事が。
「じゃ花子。アタシ達は飲み物でも買ってきましょう」
大家は俺にウインクをする。「後はぶちかませ」と血眼が語っていた。
「そうですね! ではどうぞお二人でごゆっくりしててください」
花子は親指を立てる。「もう次はねえぞ」と言いたいのがひしひし伝わってくる。
大家と花子は出て行くが病室の扉が数センチ開いているのを俺だけは知っていた。
記憶を思い出したばかりの美樹を見て二人は名残惜しそうだったが、気を使ってくれたようだ。ゆっくり久しぶりの会話を楽しみたかっただろう。
でも俺を優先してくれたのだから、俺も二人の気持ちに答えなければならない
こうなると非常にやりにくいが、腹は括っている。
「あのさ美樹――」
「皐月ごめんね。心配かけて」
話を割って美樹が話しかけてきた。……なんだ「皐月」か。
さっきの話はちゃんと届いてたのか? 俺が優也だってことを。
「ところで皐月。なんであなたが優也のことを知ってるの? それとも本当に皐月が優也だったっていうの?」
これでもまだ半信半疑か。そりゃあそうだ。こんなありえない話すぐ信じる方が難しい。
「あぁ本当だ。ウソじゃない。正真正銘、俺は池上優也だ」
「そっか。本当に優也なのね……」
意外にも現実をすんなり受け入れる美樹。なんか拍子抜けである。
「えっ疑わないのか?」
「だって皐月の言うことだもの。平気で嘘を付くような子に育ててないわ」
そうか。美樹は息子の「皐月」を心から信頼していた。いくら中身が俺であろうと今も彼女の息子に変わりない。
「久しぶり……。美樹」
「うん。優也も元気そうね」
急にぎこちない会話が始まる。いつも話していたとはいえ、美樹にとっては優也は十年ぶりなのだから。俺もつられて少し気まずい。
「本当に信じてるか? なんか元気無いけど」
俺の心配はこれに尽きる。なんか俺が求めていた反応と違う。もっと「優也ずっと待ってたのぉぉぉしゅきぃぃぃ!!!」みたいな反応がくると思っていたが、意外とドライである。
「いや。あんま近づかないで」
はい撤収。俺の役目は終了である。俺の気持ちは擬音で表すなら「ガビーン」である。
所詮十年前の男ということには変わりない。もう美樹に拒絶されてしまっては元も子もない。
やはり生まれ変わってまで自分の子になるってよく考えたらダイナミックなストーカー行為である。奇跡と思うよりは気色悪さが勝ってしまうのだろう。
こんな人生意味が無い。早くすぐに死んでこんな気持ち花子に浄化してもらおう。
俺はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと窓に向かう。
――幸いここは四階である。頭からいけば楽に逝けるだろう。
「あっいや! そういうことじゃないわよ! ……その……化粧してないから……」
美樹は顔を湯気が出そうな程真っ赤に染め、小声で呟く。
「えっあぁジョークだよ。自殺しようとするジョーク」
危ないもう少しでマジで死ぬところだった。よかったそんなことか。
「洒落にならないわよ……それ」
俺はベッドに座り、美樹と並ぶ。
「……大丈夫だよ別に」
「えっ?」
「いやだから別に化粧してなくても別に……大丈夫だよ」
綺麗だよ。と素直に言えない自分がいる。なんで俺まで照れてんだ……。
「ふふっなんか今確信したわ。優也らしいわ。その意気地ないところ」
「やかましいわ!」
くそっ! これからが勝負。意気地ない優也はここまでだ。
でもこのやりとりが懐かしい。こんな幸せな雑談はない。
「でもどういうこと? 皐月に優也が憑依したって事?」
「いや違うな。最初から俺だった。美樹から生まれてくる時からな」
美樹の頭の中ではいろいろな事が巡る。どれもこれも皐月との思い出だが、中身は全て優也であった。美樹の脳は煮えたぎる程沸騰し爆発する。
「なんでもっと早く言わないのよっ! ばかぁ!」
ポカポカと俺の胸を叩く美樹。以前とは別人のように力がない。
「ばか……! 遅すぎよ……ばかぁ……」
痛くなかったけど、でも何より心が痛んだ。一言一言がボーリング玉で頭を殴られたように重かった。
確かに俺がもっと早く決心が出来ていれば、美樹はもっと俺を強く殴れた。
「ごめん……」
俺は謝ることしかできなかった。その姿は母親の顔の美樹ではなく、十年前の美樹の顔であった。
「私、待ってたんだからね! 優也のことだから本当は死んでなくて、後でひょっこりでてくるんじゃないかって待ってたんだから……! こんなあっけなく死ぬような奴じゃないって、こんな半端で死ぬような奴じゃないって信じてたんだから……」
左手の薬指に付けたリングが似合っていた。丹念に手入れされ、十年前と変わらず銀色に輝くリングが全てを物語っていた。
――まるで指輪だけ時間が止まっていたかのように。
「ごめん。本当にごめんな……」
許してもらおうなんて思ってない。俺は取り返しの付かないことをしていた。俺に出来ることは許してもらえるまで謝り続けることだ。
「正直、半分諦めてもいた。確かに目の前であんたは死んだし。でも化けてでもいいから、優也にもう一度会いに来てほしい思ってた……。だから本当に嬉しいわよバカッ!」
そう言って子どものように泣き出す美樹。色んな感情をむき出しにして自然体で。
そして美樹の言った言葉にどれだけ救われた気持ちになったか。気づいたら俺も顔が涙で濡れていた。それはもうタオルで拭いたら絞れるんじゃないかというくらい。
涙も出し尽くした頃、ようやく落ち着いてきた。
「美樹ありがとうな。お前のことだから、正体明かしたら俺が死ぬまで殴ってくるかと思ってたよ」
「何よそれ……まるで私が今まで暴力ばっかしてたみたいじゃない」
「……」
お互い姿形は変われど、何も変わってなかった。仕草や、話し方、表情や互いを想う気持ちまで、十年前のままずっと色褪せることなく変わらなかった。
だからこそ十年前からずっと変わらない美樹への気持ちを俺は伝える。俺は臆病で遠回りを続けて、こんなに遅くなっちゃったけど。
――今から俺は告白します。この世で一番愛する人に。
「美樹。ずっと言えなかったことがあるんだ」
十年前言えなかったプロポーズを今ここで。
「うん。言ってみて」
さっきフライング気味で、言っているから俺の告げたいことは薄々美樹も分かっているはずだ。
「本当は十年前に言うつもりだったんだ。俺が死んだ日にあの公園で」
どんな困難も乗り越えてきた、時空さえも乗り越えてきた、奇跡を何度も起こしてやった。
「――美樹、大好きです。結婚してください」
ようやくこの一言が伝えられた。
美樹は今はまっすぐ俺を見ている。どうしたのだろうか。もしかしてダメなのか?
中身は俺でも外見は美樹の子供。結婚となると話は別。抵抗があるかもしれない。
――すると美樹は自分の薬指に付いた指輪を外し、俺に返してきた。
……今指輪は無残にも俺の手の平に乗っている。俺はその手を押すことも引くこともできずにいた。心が締め付けられるように痛かった。
俺はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと窓に向かう。幸いここは四階である。
「なんであんたはすぐ自殺に走るのよ……」
呆れた果てた表情で美樹は溜息をつくと、窓枠に手を掛ける俺に手招きする。
「ほら……早くしなさいよ!」
美樹は視線を左下に向け、ムスッとした顔をしながら、左手を俺に差し出してきた。
俺は脳をフル回転させこの行動の真意を分析する。
美樹は不機嫌そうにしつつも、照れくさそうに左手を俺に向けている。どういうことだろうか? 女はこれだから難しい。ハッキリ言わないが、察しないと不機嫌になる。自分の考えが以心伝心でもしてると思うのだろうか。乙女の思考はよく分からない。
よく考えろ。俺は体は子ども、頭脳は高卒。美樹の思考を読み取るんだ。
よく見ると、美樹は左手を差し出しているように見えたが、やけに薬指を強調しているのだ。つまり左手の薬指を差し出しているのだ。
「えっ何?指つったの?」
「違うわっ! はぁ……鈍感主人公はウンザリよ」
「ツンデレヒロインもな」
「うるさいな……。指輪! ……ほら早く私に付けてよ。てかこんなこと言わせないでよもう」
あっそういうことか……。そうならそう言えば良いのに。
ん? 待てよ……ということは。
「美樹……。俺に指輪をはめさせるってことは……商談成立ってことだよな?」
「商談って何よ……別にビジネス要素ないでしょ。ほら早く……指疲れるんだけど」
美樹が指輪を渡してきたのは、俺にはめてもらうためだったのか。
そうか本当に良かった。泣いちゃうところだった。
「何泣いてるのよ気持ち悪い。早くしなさいよ」
安心しすぎて脱力してしまった。腰が抜けそうになるがなんとか足に力を入れる。
俺は気を取り直し、美樹の白く細い指に銀色に輝く指輪をつけ直した。
――美樹の指に指輪をはめた瞬間、更に指輪は光り輝いたように見えた。きっと錯覚ではない。まるで指輪に表情があるかのように。
「綺麗……」
美樹は十年も付けてる指輪を、今、初めて貰ったような笑顔で喜んでくれた。
「あぁ……本当に綺麗だよ……」
俺は指輪ではなく、美樹を見て呟いた。自然と心の底から漏れた言葉だった。
もし時間が止められる力があるならば、例え自分の時までもが止まったって構わないとさえ思った。それぐらい幸せでかけがえのない瞬間であった。
すると、ドアの方で大きな音と共にドアが開かれる。俺と美樹は反射で離れる。
そこには倒れる大家とその下敷きになる花子の姿であった。
「あぁぁ! 大家さんのせいでドア開いちゃったじゃないですか! 早くどいて下さい二人にバレちゃいます!」
「んもう! この状況でバレてないはずないでしょ! 花子が急に動くからよ!」
大家と花子は病室のドア付近で倒れ絡まっている。二人がずっと覗き見してるのは知っていたけど、ここまで覗き見が下手くそな奴らも珍しい。
飲み物を買ってくると言って出て行った割には手ぶらであった。最初から最後まで見ていたのだろう。
「あらミキティ達、奇遇ね。お邪魔だったかしら」
あくまでしらばっくれる気か。そうだよ邪魔だよ帰れ帰れ。
「そんな事ないわよ。みんなで話しましょ」
くぅん……。まぁ美樹がそういうなら仕方ない。
久々の再会に四人は話に花を咲かせた。
「――で、二人は結婚式はいつするのよ」
大家が急にそんなことを言うもんだから困る。
「そうね問題はそこなのよ」
美樹が真剣な表情で頷く。
「えっ。結婚式するのか? 俺達、見た目は2○歳と○学生だぞ?」
「なんで年齢伏せるのよ。悪意あるわね。後、○学生ってなんか卑猥だから止めなさい」
「結婚式挙げなくても結婚出来るじゃないか。美樹と籍は入れられないけどな」
すると美樹と大家は頭を抱え溜め息をついた。
「優也は女心ってもん分かって無いわね。女の子はウエディングドレス着て、結婚式挙げるのが小さい頃からの夢なのよ」
「全くよねミキティ! 優也君それじゃ愛想尽かされちゃうわよ!」
珍しく美樹と大家の息が合ってるな。もう女の子って年じゃないだろって突っ込もうとしたが、俺まで入院することは避けたかったから止めた。あと、大家に関してはおっさんだろ。
「なんで人間はあんな白装束が好きですかね……。天界なら着たい放題ですよ」
天界は白い服しかないからウエディングドレスを着ても特別感はないわな。まぁ白装束とは違うけど。
話し合った結果。急なことに三日後に結婚式が行われることになった。
と、いってももちろん美樹はまだ退院できないし、公に結婚式はできない。だからこの病室で形だけでもやることにした。この四人で。
それから美樹の容態も安定しており、記憶を再び失うことはなかった。詳しい話は知らないがまだ入院は必要なようだ。
そして無事、結婚式当日を迎えることができた。場所は美樹の病室。個室のため多少騒いでも大丈夫かと思ったが、他の患者に迷惑を掛けない事を約束に病院側は特別に許可してくれた。
病室は花子と大家によって、折り紙などで装飾されている。壁には【結婚おめでとう!】と書かれた紙皿が貼られている。まるで小学校の誕生会のような形となったが、外装などなんでも良いのだ。
新郎がいて、家族がいて、ウエディングドレスを着た花嫁がいれば、どこでも結婚式会場となる。
俺は大家さんに子供用のタキシードを着させられた。なんか場違いな感じが恥ずかしいな。少なくとも新郎には見えない。
「ふふっ緊張するの? 優也ちゃん」
「いやなんか実感がなくてね。結婚なんてさ」
プロポーズをした後、意外とトントン拍子に事が運んで考えている暇がなかった。順番はメチャクチャだけど、その内美樹の両親にも挨拶しないとな。……俺の両親にも。
あまり両親とは仲良くなかったから、生まれ変わっても特に挨拶とかしなかったけど、元気にしているだろうか。俺が生きていると知ったらどんな反応をするのだろう。
「はーい! 新婦さんの登場ですよー! ほら美樹さん早く! 似合ってるから大丈夫って何度も言ってるじゃないですか」
「ちょっと花子引っ張らないでよ!」
病室のドア付近でもたもたしている花子と美樹。やがて観念した美樹が姿を現わす。
――俺はまた天界に来たのかと錯覚した。純白のAラインのウエディングドレスを身に纏った女神がそこにいたからだ。
雲のように柔らかい長いスカート、大胆に露出した背中、銀色に光り輝くティアラ。女性の美しさを最大限に引き出す衣装である。照れているからか頬がほのかにピンク色に染まり天然の化粧となっている。
例えるなら童話のシンデレラ姫。ガラスの靴を落としたシンデレラを見つけた王子の気持ちがよく分かる。ただ他に比喩するものがないくらい綺麗だ。
死ぬ間際の走馬灯のように思い返す。高校時代に美樹と出会った時の事を。その美樹が今ここで、こんなにも美しい姿で俺の前に立っている。
「あらぴったりじゃないミキティ! 最高に綺麗よ!」
「う、うんありがと……」
下を向き照れくさそうで、らしくない態度である。
すると大家が肘で俺の背中をつつく。
「ほら優也ちゃん。あなたから言ってあげないでどうするの。ミキティも待ってるわよ」
あぁそうか、思わず思考が止まっていた。そうだ、口に出さないと伝わらないよな。
「うん……。すごく綺麗だよ……もう例えようがないくらい」
「……! ありがと」
いつもなら照れ隠しにドロップキックしてくる美樹がいつになく乙女である。衣装は人の性格まで変えてしまうのか。もう毎日ウエディングドレス着てれば良いんじゃね?
「大家さんそれよりこのウエディングドレスどうやって手に入れたんです?」
花子が大家に問うが、俺も丁度聞こうと思ってた所だ。
「あぁそのウエディングドレスアタシのなのよ。あと五着持ってるからミキティに一着あげたの。サイズも私には合わないし」
「……そうですか」
花子と俺ははあえて何も突っ込まなかった。花子は咳払いをして、気を取り直す。
「で、では結婚式を始めましょう! 司会は私、花子ちゃんでーす! で……地上の結婚式は何から始めればいいです?」
なんでプログラム把握してない奴が進んで司会やってんだよ。
「そうねえ……まずはミキティがロストバージンロード歩くんじゃない?」
「大家さん。余計なものくっつけないでよ。バージンロードよバージンロード」
なんかグダグダだけど大丈夫だろうか。
「まぁ美樹さんのお父さんでもいれば一緒にバージンロード歩いて欲しかったですが、新婦入場しちゃってるんで次いきましょうか。で、次は何をするんです?」
端折るのかよ。後、お前司会降りろ。
「あっ祝電ですね。「祝電」が届いてます。大家さんからですね」
会場着てるなら電報出すなよ。普通これない奴が出すもんだろ。
「あらアタシ祝電なんて出したかしら?」
大家も書いた記憶が無い模様。
しかし花子は一枚の封筒を取り出し読み始める。
「では紹介します。『ミキティ、皐月ちゃん、花子へ。これを貴方たちが読んでる頃にはアタシは星になっていることでしょう』……ってこれおかしいですね」
「ちょっと花子! それアタシの机に隠しといた遺書じゃないっ! 返しなさいよ!」
なんで遺書もう書いてるんだよ……。
「えっ! 大家さんまだ死んでないのに読んじゃったです! なんで健康なのに書いてるんですか!」
「念のため書いてたのよ! もう最悪じゃない……アタシが死んだときに見てたらすごい感動する内容書いたのに台無しじゃない。もうギャグにしかならないじゃない……」
割と本気で落ち込む大家。美樹は大家を指差し大爆笑している。
「あ……おっほん! ではこの空気を打開するために私が一発「天界ギャグ」をやりましょう。こんな「展開」予想だにしてませんでしたよ。つって」
室内は静寂に包まれる。花子だけが慌てふためく。
「ほ、ほら! あれですよ! 天界なだけにね! ほら展開と天界……あれおかしいな」
「花子他に言うことは?」
大家が完全に真顔になっている。何時間もかけて遺書書いたんだろうな。
「ここが天界なら大爆笑だったんですがね……。あはは。あなた方には早すぎたみたいです。死んだら分かりますよつってね」
もう空気は最悪な流れである。美樹に至っては携帯をいじり始めた。
「あー! もう! じゃあ荒療治ですが全部すっ飛ばします! 美樹さん優也さん前に来て下さい!」
「えっ」
花子に言われるがまま、俺と美樹は花子の前に並ぶ。
「優也さん! この神、花子・クロートー・ルルドキポスの目前で美樹さんを妻とし生涯愛し続けることを誓いますか!」
「え? う、うん」
「ハッキリ言うです!」
なんで花子が半ギレなんだよ。もう完全にやけくそだろ。
「……はい。誓います」
「はい了解です! では次! 美樹さん! 優也さんを夫とし生涯愛し続けることを誓いますか!」
「誓います」
「はい良い返事ですね! ではお二人共、誓いのベロチューでもどうぞご勝手に!」
投げやりだな。いろいろおかしいだろ。
「なんで結婚式でねっとりな方やるのよ……」
すると、遺書を晒され放心状態だった大家が復活して向かってくる。
「ミキティ! 優也ちゃん! 頑張って! 結婚式の醍醐味よ!」
急に花子と大家が変なテンションで手拍子と共にチュウコールをし始める。
お前ら急に合コンのノリになってるぞ。
「ゆ、優也がそんなにしたいなら……してもいいよ」
なんか美樹が目瞑り出した。だからなんで今日のお前はそんなに乙女なんだよ。
そりゃあキスはしたいけど花子と大家の目の前っていうのが抵抗あるな。
しかし前屈みでキスを待つ美樹の表情は色っぽさと可愛らしさを兼ね備えていて、俺も思わず生唾を飲み込む。
う……反則だろ……。待たせる訳にもいかないし。ええい! どうにでもなれ!
――二人は誓いの口づけをした。
優しく穏やかで初めてキスをする高校生のカップルのような初々しい口づけ。唇を重ねるだけの清純な口づけであった。ただそれに含まれる意味は「一生」でなく「永遠」の誓い。
「イェーイ! 熱いねー!」
「二人共幸せになるのよー!」
祝福の言葉が飛んでくる。面映ゆかったが、満更でもなかった
口づけを終えた美樹の笑顔があまりにも愛しかったから。
前世の俺の目的は達成された。だけど、また新しい目標が出来た。今度は美樹と幸せな家庭を築くこと。
――こうして、俺達の小さな結婚式は幕を閉じた。
その後の結婚式の片付けは、祭りの後の電車の中のように現実に戻された気がした。でもこの現実には美樹がいて、大家さんと花子もいる。
病室は魔法が解けたように元に戻され、花子と大家は気を遣い先に帰っていった。
今日の面会時間はあと一時間ほどしかなかったけど、ギリギリまで美樹と俺は結婚式の余韻に浸っていた。
「ね? やって良かったでしょ結婚式」
ウエディングドレスから着替えパジャマ姿の美樹が満足げな表情で言う。
「まぁなんだかんだ楽しかったな。でも良いのか? あんな小さい結婚式で。花子のせいでグダグダだったし」
「別に良いわよ。死んだ人間が生まれ変わってまで開いてくれた結婚式だもの。最高の結婚式よ」
その最高の結婚式で携帯弄ってなかったか?
「まぁ確かにどんなに金を積んでも真似出来ることじゃないな」
「そうね。私は幸せ者ね。ねぇ優也……」
美樹は薬指のリングを見つめる。
「なに?」
「小さい頃の夢とかって覚えてる?」
産婦人科医だとか小児科医だとは口が滑っても言えない。
「え? 忘れちゃったよ。美樹はなんだったの?」
「私もよ。忘れちゃったわ」
まぁ意外と覚えてないもんだよな。
「でも憧れはあったな。ヒーローとかさ」
「ヒーロー……戦隊モノとか? 女の子にしては珍しいな」
「まぁ普通はヒーローっていったらそっちを思い浮かべるわよね。でも私ん家は父さんがプロレスばっか観ててさ。私も一緒に観ている内に気づいたら子どもの私にとってのヒーローはプロレスラーになってたのよね」
珍しい家庭もあるもんだな。本当に。
「まぁ美樹のプロレス好きにも納得がいったよ」
「うん。でさヒーローは悪役を倒すでしょ。そういう台本だからさ」
夢のないことを言うなよ
「プロレスも多少の筋書き決まっていて悪役レスラーを正義のレスラーが倒す訳よ。悪役レスラーもお客を盛り上げるために痛みに耐えて最高の悪役を演じる訳よね。しかも戦隊ヒーローは実在しないけど、ヒーローみたいな人はこの世界に実在するのよね」
やばい一人で盛り上がってきちゃったぞ。これは長くなりそうだ。
「なんか夢があるじゃないそういうの。そういう所が好きでさ、女友達には理解されなかったけど私は憧れてた。もう一回人生があったら女子プロレスラーとかも楽しそうね」
それは頼むからやめてくれ。
「優也はもう一度人生があるんだから、これから無限の可能性がある。なんにだってなれる。ヒーローにだって」
ヒーローか……。考えたこともなかったな。
「……だから例え私がいなくなったとしても、後ろは振り向かないで新しい人見つけて夢を叶えなきゃダメよ。普通は人生一度きりなんだから」
「そんな縁起でもないこと言うなよ」
「例えばの話よ。ただ私のためだけに第二の人生棒に振るんじゃないわよってこと。必ず約束ね」
美樹の言いたいことがよく分からない。
「あ、あぁ……。分かったよ」
それを聞いた美樹は静かに微笑む。
「私だって叶いっこない夢が叶ったんだもの。頑張ればなんでもできるものね。考えようでは夢とか奇跡って意外とそこら辺に転がってるものよ。ねっ皐月」
「皐月ってどういう……」
「私はずっとそばにいるわ。きっと―――――」
ここで病室の扉が開いた。ここの病院の看護婦であった。
「もう三十分も面会時間が過ぎてますよ! また皐月君ね! 早く出て下さい! お母さんには毎日会えるんだから!」
看護婦に強制的に手を引かれ病室から連れ出される。何でだろうか。なんで美樹は最後に俺の事を「皐月」と呼んだのだろうか。それが心残りで聞こうにも病院から追い出された俺はどうすることも出来なかった。
でも最後に辛うじて見えた美樹の表情は間違いなく屈託の無い笑みであった。
次の日。
――美樹が再び記憶を失った。
まるで全ての事をやり遂げたかのように。なんの前触れもなく突然の出来事で、回復してるかのように見えたのは最後の情けだったのだろうか。
恐らく美樹は全てを予期していたのだ。今思うとあそこまで美樹が結婚式をしたがっていたのは再び自身の症状が悪化することを分かっていたからだろう。
美樹の症状はそれから回復の見込みどころか、以前より悪化していくばかりであった。
段々手足が思うように動かなくなり寝たきり状態に。そして遂には人と対話することが出来ないほどの状態。まるで魂だけが抜けてしまったようであった。病気の脳の侵食スピードが急激に早まったのだと医者は言う。こうなったらもう手が付けられないらしい。
手術もその後もう一度行われたが、病原を完全に消滅することは不可能なほどのレベルであるらしく、穴が空き浸水していく船の中、手で水を掻き出すくらい無駄な抵抗であった。
――そして結婚式から一ヶ月後。
美樹は家族に看取られ眠るようにこの世を旅立った。
後々聞くと、美樹の病気は死刑宣告をされたのと、変わらないぐらいの難病であった。ただ痛覚など感覚も失うため痛みは無く安らかに逝ったのはせめてもの救いなのかもしれない。
自分の死が決まった闘いの中、美樹は必死に闘い、一度記憶を取り戻し、まさに「一矢報いる」ことができたのだ。医者はこんな前例がないと驚いていた。
記憶を失うことや死が必ず近々訪れる。この恐怖に美樹は打ち勝ったのだ。
結果、彼女はウエディングドレスを着るという夢を叶えた。
せめて花子に美樹の魂を浄化して欲しかったのだが、頑なに花子は家族として美樹の最期を病室で看取ることを選んだ。
大家も「頑張ったわねミキティ。昔から頑張り屋さんだものね」と美樹の頭を撫で最期の別れを告げた。
俺達は美樹が結婚式後、記憶を失い亡くなるまで、覚悟は決めていた。決めていたはずなのに……。分かっていたのに……どうして花子も、大家さんも、……俺も涙が止まらないのだろう。
この美樹のいない世に俺は生きる意味があるのだろうか……。でも記憶を失う前の美樹に言われた言葉を思い出して自分に言い聞かせた。何度も何度も。
数日後、俺達遺族は美樹の病室を掃除していた。この病室も空室になる。ドアに付いた山下美樹という名札も取られている。
美樹の名残が残っている部屋を片付けるのは、なんだか寂しく、俺の手は止まってしまう。大家も花子もあまり表情を出さずに掃除を黙々としていた。
ベッド横の戸棚の引き出しを開けるとノートのような物が出てきた。ノートというより紙の束。それがクリップで留められただけの簡易的なノートであった。
「これは……」
実はこの紙の束は美樹が最初に記憶を失った際、花子が書くように薦めたものである。
なにか忘れたくないモノや事柄はこの紙に書いておくようにと花子が薦めたものであった。あまり効果は無かったように感じたけど、数百枚にも及ぶノートは一枚一枚に大きな文字で覚えとくべき言葉が並んでいた。
まず表紙には『忘れたくないことを毎日書くこと!』と大きく書かれていた。なるほどこの冊子自体が何か分からなくなってしまうのを防ぐための表紙か。
パラパラとめくると、大家と花子も釣られて覗き込んできた。
「これって確かミキティが入院中書いてたやつじゃない」
「すごい量ですね。もっと見てみましょ!」
掃除もある程度進んだし休憩も兼ねて、三人で時を忘れて読んだ。
「何ですかこの『先生は大家さん』って。アダルトビデオのタイトルみたいですが」
「失礼ね。ほらミキティ、記憶を失って私をナースと勘違いしたでしょ。あの時ちゃんと忘れないように書いていたのね」
「タンクトップのナースがいるわけ無いだろ。ドクターと間違えたんだよ。ほら花子の事も書かれてるぞ。『金髪の羽の言うことに騙されるな』だってよ」
「なんでですか! だから記憶を失う度に美樹さんに敵対視されてたんですね……」
「花子がこれを良いことにミキティに嘘ばっか吹き込むからよ……」
気まずく愁い気持ちの雰囲気が一転、自然に三人に笑顔が戻る。
ただの紙の束が俺達にとっては『思い出のアルバム』であった。まるで四人で会話しているようで可笑しかった。
上手く説明できないけど、家族ってそういうもんだ。そうだよな美樹。
――最後のページには俺達四人家族の名前が記されていた。
――――それから更に十年の時間が流れた。十年って簡単に言うけれど、世の中の変化は激しい。
もう十年前の服装なんて古くさいし、携帯電話は全てタッチパネルになったし、総理大臣も三、四人交代した。更に十年後はロボットが空を飛んでいてもおかしくは無い。
俺は高校で知り合った一人の女性と結婚した。なんだか美樹との出会い方に似ていて運命を感じたんだ。
ちゃんとプロポーズするときは、トラックが来ないかどうかしっかり確認した。
子宝にも恵まれて、二歳になる双子の男の子と女の子がいるんだ。もう激カワだよ。
息子の名はトワ。娘の名はマナ。二人合わせて「永遠の愛」ってな。我ながらくさい発想だよね……。
子どもを持つってこういうことなんだな。少し気持ちが分かったよ。
花子と大家さんは相変わらず、一緒のアパートで暮らしているが、俺は結婚してあのアパートを出た。
二人は心から祝福してくれたよ。俺達はバラバラになっちゃったけど、妻子も交えて結構頻繁に会っているんだ。
俺が『皐月』として第二の人生を始めて十年が経ったのだ。
これで良いんだよな美樹。今頃、美樹も同じ地球で新しい人生を謳歌しているのだろうか。いやきっとしている。なんか分かる気がするんだ。直感だけど。
今の妻と息子のトワは今、買い物に出かけている。俺は娘のマナと留守番をしている。
トワとマナは最近少し喋れるようになり、すくすくと成長している。俺はマナを抱っこしながら、テレビを見る。大人しくテレビを興味津々で見るマナ。
本当かわいいなぁ。こういう幸せもあるんだな。
「うま! うま!」
マナがテレビに映っている競馬を指差す。
「どうしたマナ? マナはお馬さんが好きなのか? それとも競馬が好きなのかな? 一緒に競馬場行きたい?」
「うまうま!」
はぁ癒やされる。
「そっか。マナは競馬が好きなのか! じゃあ仕方ないからパパと競馬行こうか!」
「子どもを利用して競馬行くなんてダメな父親ね。プロレス観に行くならまだしも」
「うん! じゃあプロレス観に……。え……。今のまさかマナが言ったのか?」
するとマナは桜色に頬を染め上げ振り向く。
「ずっとあんたのそばにいるって言ったでしょっ!」




