第89話:地上を統べて
「俺達の事は構わずに逃げろ!」
組み伏せられたトランが叫ぶ。
しかし馬もチンピラ達に抑えられ、逃げる事も容易ではない。
「お嬢様!この人はボスだ、元のボスに戻ってくれた!だから安心しろ!」
伯爵に従うブレゴも叫ぶ。
少なくともロレインは安全だということを伝えるためだ。
だが当のティモシー・アリアンナは、便利屋に敵意を向けてはいなかった。
「賊よ。逃げたければ逃げるがいい。フィリップが命を賭してまで救ったお前を殺す気はない。」
「執事さんが…!?」
便利屋は言葉を失った。
フィリップが死んでいたこと、自分を救ったこと。
今になるまで知らなかったとは。
「その前に貴様に見せるものがある。戦わなくていい“理由”だ。」
「ボス?“理由”って…、うお!」
チンピラ達から声が漏れた。
伯爵のみぞおちから棒が出てきたのだ。
「はああああああ!」
伯爵はみぞおちから出た棒を握りしめると、気力を込めて自分の体からゆっくりと引き抜いた。
“理由”は伯爵の体内で徐々に錬成され、この世に顕現されていく。
彼が己の体から完全に引き抜くと“理由”は現れた。
一振りの剣だ。
「ボス?それってまさか…、クラウ・ソラスか!?」
ブレゴはそれを知っている。
子供の頃、ドキドキしながらめくった天使の図鑑で見たミカエルの剣だ。
刀身には刻まれたルーン文字、ミカエルの象徴たる釣り天秤があしらわれた鍔。
図鑑で見た通りの剣が伯爵の手に握られていた。
違う点は色が吸い込まれそうな漆黒であることだ。
「その通り。ミカエルが振るったかつての聖剣を我が悪魔が奪い、魔剣にしたものだ。天使たちによって破壊されたが、残った欠片を用いて復活させた。」
あまりに馬鹿げた話だ。
しかし便利屋には心当たりがあった。
その推測が確かなら魔王ともあろう存在が、あんなものに執着していた理由が納得できる。
「あの欠片は、クラウ・ソラスの欠片!?」
だからこそバルベリスは躍起になって取り返そうとしたのだ。
多額の賞金を懸けてまで。
「そうだ。あの欠片に私の憎しみと悪魔の魔力を注ぎ、この体に刺さった多くの刃を魔剣へと昇華させたのだ。」
魔剣を復活させるには多くの素材と、強い精神力が必要だった。
金属なら大量にティモシーの体に刺さっていた。
ティモシーは世界を焼き尽くしそうなほど激しい憎しみを抱いていた。
バルベリスはこの二つを利用することで蘇らせたのだ。
天使たちに僅かな欠片しか残らず消滅させられてもなお、天まで吹き飛ばされた自分を匿ってくれた魔剣クラウ・ソラスを。
「見ろ。」
伯爵は魔剣を空へと掲げた。
“理由”を見せるために。
「うおおお!」
塔だ。
魔剣から塔が伸びたのだ。
大木のように太く、天まで届きそうなほどに高く、激しい炎で作られた灼熱の塔が。
圧巻の光景にこの場にいる一同が固唾を呑んで炎の塔を見上げていた。
塔は消えると、元の夜空へ戻った。
「これはクラウ・ソラスの力の一つ、破滅の塔。“混沌の時代”では数々の都にこの塔は倒れ、炎の海にして滅ぼした。」
この塔が立っているか、倒れるかは使い手の気分次第。
もし伯爵が剣を振り下ろしていれば地の果てまで炎が覆っていただろう。
「分かっただろう。この剣があれば民に重税を課すことも徴兵することもなく、あらゆる敵が戦意を失ってひれ伏す。犠牲を最小限にして私はこの地上を統べる事が出来る。もう誰とも戦う必要は無い。」
伯爵の目からは野心は感じられない。
死にゆく者を減らすための慈悲が秘められていた。
そしてあらゆる障害を消し去る覚悟も。
「さあ、賊よ。この剣の力を見たな。ではこの場から逃げて世間に広めろ。この地上を神から奪う者が現れた事を。それがお前に託す…。」
「もうやめて、お父様!」
ロレインはヴィトスを抱えて、父の前に立ちはだかった。
目には涙を堪えていた。
「地上を統べる?そんなことして何になるの!?どうしてわからないの、お父様は悪魔に利用されてるのよ!」
「ロレインよ、お前も賊に利用されてるとは思わないのか?多くの思惑が錯綜し、多くの血が流れ、確かな事は僅かしかない。私はもう引き返せない、そして悪魔は私にこの剣をくれた。死者は戻らないという神が定めた法則を覆すには、地上を統べる他ないのだ。」
「まだ生贄を捧げるつもりなの!?過ちを続けるの!?殺めて構わない命だって決めつけて、またたくさんの人を…!」
ロレインは剣を彼に突き付けた。
まるで父が生贄たちの胸に突き立てた剣のように。
「まずはアビーに生を戻し、フィリップを生き返らせる。バズラや他の者たちも。それが終われば慈悲深い覇王となって、平和を築くことを誓おう。」
彼にとって地上を統べることは副産物に過ぎない。
愛する者たちを蘇らせるためなら、どのような犠牲も払うだろう。
何万もの命であろうとも決して止まらない。
「ロレイン。この場で話していても埒が明かない。お前に宿るアビーと話をさせてくれ。彼女を説得し、お前をその賊から救い出す。家族に戻ろう。」
「無理よ…。今はお母さまの声が聞こえないの…。でもこれだけは分かるわ、今のお父様と会いたくないってことは…。」
伯爵は嘆いた。
こんなことを言わせるまでに娘を裏切っていたことに。
胸に去来するはバズラに言われた説教、“娘と向き合え”だった。
「そうか。もうお前を裏切るわけにはいかない。しかし引き返すことも出来ない。だからお前に委ねよう。」
伯爵はロレインへと両手を広げた。
全てを受け入れるかのように。
「私を斬れ。フィリップを斬ったように。お前が止めるんだ。」
「え?」
ロレインは青ざめた。
唐突で、あまりに残酷な選択。
父親か、世界か。彼女の手に委ねられているのだ。
「嫌よ。そんな…。」
「でなければ私は進み続ける。どれだけの犠牲を積み上げてでも、我が過ちを正せる世界を築く。それを望まぬなら覚悟を見せろ。」
ティモシーはロレインが突き出す剣を握りしめた。
握りしめる彼の手が斬れて、血が流れ始める。
「もう刃は刺さってないが、この体は十分に弱っている。今ならこの剣で私の命を絶てる。アリアンナ家の象徴であり、アビーの想いが込もったこの剣であれば私も本望だ。」
この状況で娘を偽る父ではない。
ロレインは今、世界を救う手段を握りしめているのだ。
「私がやれば…。」
耐えればいい。
愛する父を殺すことに。ただそれだけでいい。
「愛している。悪魔が作った楽園にアビーを誘い、2人でお前を見守ろう。」
そうだ。
親殺しに苦しみ続けるだけで世界は救われる。
ロレインはそう言い聞かせ、剣を振り上げた。
「う…!」
ロレインは死に様を焼き付けないように目をつぶった。
きっと断末魔が耳に残らぬように、声も出さずに絶命するだろう
それでも手に残る感触に生涯苦しむだろうと確信しながら、ロレインは剣を振り下ろした。
「待て。」
剣は誰も斬らなかった。
ロレインの剣を持つ手を彼が止めていた。
便利屋が。




