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セイクリッド・カース  作者: 気高虚郎
最終章:選ぶ者
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91/106

第85話:あの夜、あの時

※※ ※ 聖域 ※ ※ ※



ここは彼の精神の中。

空も大地も何もない真っ白な世界で、少年がたった一人で膝を抱えてうずくまっていた。

まるで親に叱られた子供がなにもかもを拒絶するかのように。


『いつまでそうしているつもりだ?』


彼の声が聞こえてくる。

姿は見えない。見せる必要もない。この世界、聖域はバルベリスそのものなのだから。


『立ち上がれ。あの賊から娘と妻の魂を取り返すぞ。そして妙な儀式で我らを怪物に変え、凶行に走らせたことへの報いを受けさせるのだ。』


よくもまあここまで作り話がスラスラと出てくるものだ。

アビーの魂、蟲毒の儀式、怪物への変身、凄まじい戦い。これらの状況をまとめ上げ、都合の良いストーリーに仕立て上げたようだ。

バルベリスはこんな事を数万年も続けているのだからお手の物。


「もういいんだ。」


しかし少年はこの口当たりの良い大嘘を聞いても微動だにしなかった。


「僕はアビーの魂を傷つけ、ロレインを殺めかけ、フィリップを斬った。他にも大勢殺した。もう何もしたくない。永遠にここにいる。」


愛する人をあれだけ傷つけたのだ。

重すぎる罪と向き合えなかった。

こうやって閉じこもって、目を逸らさなければ壊れてしまう。


『絶望で膝が折れたようだな。では立ち上がらせてやろう。それがこの道へ誘った私の責務。』


絶望の特効薬なら心得ている。

怒りだ。


「雨…。」


うずくまる少年の体に水滴が落ちた。

一滴かと思えば次々と。

雨だ。


「やめろ…。」


雨は聖涙教徒にとって特別なもの。神の涙なのだから。

だが少年は違う。雨が少年の心に呼び起こすものは神の裏切り。

虚無に浸りたい少年の心に、雨が憎しみを呼び起こす。


「やめろ!」




怒りに駆られた少年が顔を上げると、そこは白い世界ではなかった。

うずくまっていた体は立ち上がり、豪雨が降る夜のアリアンナ邸屋敷の扉の前にいた。


(ここは…。)


声が出ない。

体が勝手に動く。

聖域では少年だった姿も、本来の伯爵に戻っている。

過去の記憶を再び、見せられているのだ


「もうよい!私が行く!」


伯爵は痺れを切らした声を上げていた。

一刻の猶予もないようだ。


「しかし伯爵様!この雨の中では危険すぎます!」


「こうしてる間にも、民は危険に晒されているのだ!人手が集まるまで待ってられん!」


使用人の制止を振り切り、伯爵は馬に乗った。

この夜は100年に一度とも言われるほどの豪雨が領地を襲っていた。

領地の村や集落は浸水して助けを求めていたが、連絡が行き渡らなかったことで救助が遅れたのだ。

滅多にない災害ゆえに対処も講じておらず、大勢の命が失われようとしていた。


「あなた、待って!私も行く!」


(アビー!)


馬に駆け寄る彼女の姿が、少年の心を抉る。

生前のアビーだった。


(行ったら駄目だ!)


バルベリスの狙いが分かった。

あの忌まわしい夜の再現をしているのだ。

少年はこの記憶だけでも変えられればと願って叫び続けた。無意味だとも知らずに。


「私の光があれば、夜の雨の中でも遠くまで見渡せるわ。」


「そうだな。では行こう。」


最愛の人が共に馬に乗ってくれたことが当時は心強かった。

あんな事になるとも知らずに。


「お父様、お母様!こんな雨の中、どこへ行くの!?」


あの子もまた2人を止めようとしていた。

これが彼女の見る、母の最後の姿だった。


「人々の命がかかってるんだ!良い子で待ってなさい!」


「爺やの言うことをちゃんと聞くのよ、ロレイン!」


不安そうな我が子を安心させると、ティモシーは馬に鞭を入れた。

良き統治者としての役目を果たしに。

だが出発の時に聞き逃していた。悲劇を回避できたかもしれない言葉を。


「旦那様、奥様!その馬はおやめください!とても臆病なのです!」


(ああ…!)


少年は悔いた。

なぜこの時、フィリップの声をちゃんと聞いておかなかったのだと。

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